最終話 『能六斎(一)、幕末の端唄ブーム』

小唄、端唄は今、それぞれ邦楽のジャンルの名稱になっているので使い方がややこしいが、昔はどちらも同じ短い唄を指していっていたようだ。

幕末の『守貞漫稿』という本に次のように出ている。

「端唄 はうたと訓ず時々変化流布する小唄の類を云惣名長唄に対す名目歟 嘉永の頃より歌沢某なる者始て師匠となり一家をなし種々の小唄を三絃とともに教授す是亦浄瑠璃の類と同く名取と云て免許を受たる門人出来り江戸諸所に歌沢某と云表札を掛て稽古所を構ふ此行嘉永以前更に無之是亦今世一種遊民の業となる」

端唄のブームは文化、文政の頃(1804~1831)からその兆しがあったようだが、水野越前の天保の改革で沈静化を余儀なくされた。しかし、水野が失脚すると忽ち再燃して、弘化・嘉永頃(1844~1853)にはピークを迎えた。

それについて、『江戸小唄』(木村菊太郎著、昭和三十九年刊)に、

「弘化・嘉永の江戸市中には、至る所に流行端唄の新流新派が勃興した。大丸新道の『さわ女』、本所梅の湯連の『笹丸、平虎、芝金』、浅草広小路の『梅暮里小蝶』などがその主なるものであった」

とある。

ここに出ている本所梅の湯連の笹丸というのが、笹本彦太郎という幕府の旗本で隠居後笹丸と名乗ったといわれる。笹本彦太郎の屋敷は本所南割下水にあった。
彦太郎は安政四年(1857)、周囲から推されて歌沢節の家元となる。即ち、歌沢笹丸である。

その経緯は、このシリーズ第三冊目の『江戸吹き寄せ』第五章「九鬼周造の随筆」(二)に書いたので省畧するが、平虎というのは後に家元を継いだ畳屋の虎右衛門こと、歌沢寅右衛門で、芝金とは御家人の芝田金吉で、後に哥沢芝派を立てた哥沢芝金である。

芝金は寅派の歌沢に対して、哥沢と稱したので、一般に双方を総稱する時には、うた沢と書いているようだ。
笹丸の一派を梅の湯連と呼ぶのは、笹丸の屋敷は本所南割下水にあったが、平虎他の連中が馬喰町郡代の梅の湯を本拠にしていたからだという(前出『江戸小唄』)。

大丸新道のさわ女については、『江戸小唄』では、ずっと「さわ」で通しているが、同書で引用している『伝衢事記、そらをぼえ』(以下、『そらおぼえ』と書く)には「きわ」とある。『そらおぼえ』の中に喜和と出ている所もあるので、「きわ」が正しいと思うのだが、どうして『江戸小唄』では「さわ」になっているのか、不明。

ついでにいって置くと、『江戸小唄』では笹丸の笹本彦太郎を御家人といっているが、現役の時の彦太郎は五百俵取りの御書院番のれっきとした旗本で、御家人ではない。

また、馬喰町郡代の梅の湯だが、馬喰町には関東郡代(総代官)伊奈家の屋敷があって郡代屋敷と呼ばれていた。梅の湯という風呂屋はその郡代屋敷近くの馬喰町三丁目か、四丁目辺にあったと思われる。

当時の風呂屋について『守貞漫稿』には、

「江戸の浴戸は二階も客を上る也京坂には更に無之こと也。(中畧)又此二階必らず狭からざる故に囲碁稽古或は活花稽古などの席に貸之右等の稽古は毎日に非ず専一月に六ヶ日也蓋稽古ある日も浴客は常の如く也或は拳の稽古もあり 毎浴戸有之には非ず 又男客を更に二階に上さざる浴戸も稀には有之」

とある処をみると、梅の湯の二階で平虎など端唄好きの連中が集まって喉を競っていたのだろう。
同じ端唄好きの旗本の隠居、笹丸がその梅の湯連と近付きになって、やがて歌沢グループが形成されて行った過程は前著『江戸吹き寄せ』に書いた通りである。

さて、大丸新道のきわ女だが、『そらおぼえ』によると、

「大丸新道のはうた 中興端唄流行のはじめ、 同じ新道[則大丸新道也]南がわ中ほど、俗にどぶ板長屋[路次内に大下水通りて、ろじ口より奥までどぶ板の上を往来す、則池洲長屋の西隣りの長屋也]の奥の家に、やもめ女「きわ」といふ者有りて住居す、弘化の末、嘉永の始頃、年四十才位なりし、此きわ女はもと柳橋の芸妓なりし、今は他人の洗濯、縫仕事などして活計(くら)す、然るに、此辺の職人、又は、鳶、火消、若イ者等、毎夜此きわが家に来り、常磐津、清元、浄瑠璃の類、其外時々の流行端歌を学ぶ、きわ女も、人々の好むがまにまにこれを教ふ、さて、おのおの唱歌を学ぶといへども、謝礼の銭を納るといふこともなく、心安きの一途にて、折々蕎麦を取り、鮨を買ひ、菓子を買ふ位の持寄りにて、懇意同士うち寄り、是を喰ふて謝儀の心とす、は組の辻音、宮代の彫勘など、夜々出入すれども、一向に色気もなく、至て無造作の私立の稽古所なりし、此頃「大丸しん道」と外題せし端うたの稽古本も出版せし也、此はうたにて寄せ席を興行し、「大黒せんべい」などと呼びし也、是はいろいろのものが出るといふ秀句なるべし、中ばしの薪梅(まきうめ)などといふ者は、中々上手にて有りし」

とあって、以下笹本金十郎(彦十郎の別名)、後の笹丸の話になる。

大丸新道というのは、通旅籠町を通って、人形町通りと大門通りを結ぶ通りで、その通りに三井越後屋と並んで有名な呉服店の大丸があったので、その名があった。
いうまでもなく、越後屋は現在の三越、大丸は現在の大丸デパートである。余談になるが、大丸にはお庭番のための特別な部屋があったといわれている。

お庭番というのは将軍直属の隠密でもあり、将軍の命を受けると帰宅することなく、直接大丸のその部屋へ行き、しかるべき職業の人物に衣服その他、姿形を変えてその場から目的地へ出立したという。
通旅籠町というのは今の人魚町通りのかなり小伝馬町寄りにあった。

また、大門通りというのは、江戸の初期、吉原が山谷に移る前に人形町通りにあった時、その大門の正面通りだった道で、今でもその名稱が残っている。

きわ女が住んでいたというどぶ板長屋は、池洲長屋の西隣の長屋だったとあったが、中央区の地図を見ると、小伝馬町近くに池洲神社という神社があるので、その辺りに池洲長屋があり、その西隣というから人形町通り寄りにどぶ板長屋があったと思われる。

次回は、『江戸小唄』の中で、大丸新道のきわ女、本所梅の湯連と共に挙げてあった浅草広小路の梅暮里小蝶について書く予定であるが、最後に前著『江戸吹き寄せ』の中で歌沢節成立の経緯について書いた時に、利用させて貰い大変参考になった『そらおぼえ』という本についてーー。

著者は菅園とあるが、序文によれば十軒店の住人で、大伝馬町に通勤すとあるので、大店の通いの番頭ではないかといわれている。
菅園の下に押された印影は「すが田しづ乃」と読めそうだ。

本の内容は、大伝馬町の地理、風俗、名物、特殊な商店、祭礼等を見聞のまま記したもので、他に記録のない記事もあって、大変興味深い。

なお、十軒店(じゅっけんだな)というのは本町ニ、三丁目と本石町二、三丁目の間にあった小さな町で、雛人形の市が立つことで知られていたという。今の室町三、四丁目辺りだろうか。

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