第9話 『江戸の扇屋(その1)『守貞漫稿』と『嬉遊笑覧』』

『守貞漫稿』

喜田川守貞の『守貞漫稿』には、江戸の扇屋の看板の絵が載っていて、その説明に、

「江戸扇子屋招牌 京坂扇店看板無之多くは槻板に字書し或は扇形或は地帋(紙の異字)形描くもあり無之又堂號屋號無定。江戸も屋號は勿論別に堂號を稱する者も扇看板及び暖簾には必ず御影堂と書して扇店のこととす又た多く図の如き作り物の招牌多し」

とある。招牌とは看板のことである。
喜田川守貞の『守貞漫稿』にある、江戸の扇屋の看板の絵

この説明によると、江戸の扇屋は、なんとか屋とか、何なに堂とかいった屋号堂号に拘わらず、図のような「御影堂」と書いた看板や暖簾を掲げていたことがわかる。

『守貞漫稿』は又、『近世風俗志』ともいい、その題名の通り、江戸の風俗風物をイラストというか、絵や図入りでこと細かに記した本である。最近、岩波文庫から何巻か出ているが、まだ完結していないようだ。

著者の喜田川守貞については、他に著書もなく記録もないことから、僅かに同書の序文に書かれていることしかわからないが、それによると、文化七年の大坂生まれで、本姓は石原氏、後に北川を嗣ぎ、十一才の時に江戸へ出て来たという。喜田川は、その北川から来ているのだろう。

『嬉遊笑覧』

同じ類の本として、喜多村信節(のぶよ)の『嬉遊笑覧』がある。『嬉遊笑覧』の漢文の序に文化十三年(1816)十月とある。『守貞漫稿』の序には嘉永六年(1853)とみえるので、時代的には『嬉遊笑覧』の方が一時代古い。

『嬉遊笑覧』の著者、喜多村信節(1783~1856)は、通稱彦兵衛、字は節信(ときのぶ)、号は竹冠に均という字に庭を書いてインテンといい、江戸の町年寄、喜多村彦右衛門の弟で、博覧強記の雑学者として有名だ。当時の著名な国学者、北静盧(せいろ)と親戚だったせいか、小山田与清(むねきよ)、岸本由豆流(ゆずる)などの国学者と親交があったという。『嬉遊笑覧』の他にも『いん庭雑録』『瓦礫雑考』等々、多数の著書がある。

信節の実家の喜多村家は江戸の町年寄の家である。町年寄(としより)というのは、幕府は江戸に樽屋、奈良屋、喜多村の三町年寄を置いて、代々世襲とし、令達、収税の他、町の行政、取り締まり等の任に当たらせたが、喜多村家はその町年寄の三家の一つで彦右衛門がその当主の名である。

『嬉遊笑覧』と『守貞漫稿』を比較すると、前者は古書からの引用も多く、出典を挙げて考証をするといった、いかにも学者が書いた本という感じだが、後者の方には、堅苦しい考証臭さなどまるでなく、特に絵や図を入れた説明の多いのが文章だけの前者と違って、何よりもわかり易くてありがたい。

前出の扇屋の看板がいい例だ。文章だけの説明よりどれだけわかり易いか。

松本亀松氏

江戸の研究家、三田村鳶魚の輪講については前に書いたが、その輪講が掲載された雑誌『彗星』の創刊時、鳶魚翁のアシスタントをしていた松本亀松(1901~1985)氏が当時の輪講についての対談(中央公論社の三田村鳶魚全集の月報)の中で、次のように話している。

「この輪講の下調べが実につらかった。百科事典を使うことは絶対にいけない。原典にぶつかれというんですよ。といって、先生(鳶魚)が原典にぶつかるほどにはできません。とにかくキャリアが違うんですから。駈け出しには気に入ったような資料は見つかりませんよ。だからといって『嬉遊笑覧』だの、『守貞漫稿』だの引いていこうものなら怒られちゃいます。そんなもの引いてきてなんになるんだと」

この話からも、『嬉遊笑覧』と『守貞漫稿』の二書が、いかに便利な本かということが知られる。江戸の、特に風俗に関することなら、余程特殊なものを除いて、この二書を見れば、大凡のことはわかるというものだ。

松本亀松氏は、元日本大学芸術学部の教授で、能、歌舞伎、日本舞踊の研究家である。

筆者は学生時代、当時日大の教授だった松本亀松氏に会ったことがある。アポイントメントもなく、友人と二人で氏の自宅を訪問したのだが、ちょうど在宅されていた氏は快く会って下さった。

その時、歌舞伎などの江戸の芸能に興味をもっているという私に、氏が「歌舞伎(の研究)をやるなら、能を知らないといけない」といわれたのを、今でも印象深く覚えている。

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