第99話 『浮かれ蝶(二)、柳川蝶十郎』

 吉村さんの『夜明けの雷鳴』には、パリ万博の際、日本から来た芸人達の公演は大評判だった、と書いてあり、松井源水一座の源水と蝶十郎の芸を紹介しているが、蝶十郎について、特に観客を魅了したのは蝶十郎の「浮かれ蝶」だった、といっている。

 しかし、『旅芸人始末書』の「慶応三年のパリ万博」では、松井源水一座の内では、手品の朝吉が一番うけた、とあって、曲芸を演じる亀吉、小滝、太郎吉の芸も足先の不器用な西洋人に、こ手先ならぬこ足先の器用さを見せつけ感心された、と出ているが、柳川蝶十郎の「浮かれ蝶」については全く触れていない。

 ただ、その前章の「旅芸人の先駆者たち」の所で、松井源水一座の松井源水、隅田川浪五郎、柳川蝶十郎の芸について説明している。

 手品の蝶十郎は「バタフライ・トリック」で、造りものの蝶を自由自在に空中で操ったあげく、最後に本物の蝶を舞わす、とあって、次いで、「天地八声蒸籠」という、同じく蝶十郎の手品について、底抜けの箱の中から色々な物を出してみせるのだが、その取り出す物が西洋人には珍しい漆塗りの椀や竹細工の篭などをそれからそれへと取り出すので、見物は出てくる不思議さより、出てきた物の骨董的な価値に驚いた、と出ている。

 まあ、底ぬけの箱から様々な物を取り出して見せる手品は珍しくない。「バタフライ・トリック」とあるのが「浮かれ蝶」と思われるが、最後に本物の蝶を出したらしい。

 この『旅芸人始末書』の記事は、前章で述べたように種本である渋沢栄一の『西航日記』から取ったものと思われる。

 吉村さんは横浜開港資料館の資料を調べて書いたのだろうから、渋沢栄一とパリ人の日本の芸人の芸の受けとり方に多少のズレがあったのかもしれない。

 江戸時代、手品のことを手妻といった。

 手妻は手爪とも書き、小手先とか指先のことで又、小手先や指先でやる仕事も意味した。そのことから、手先でやる手品を手妻といった。

 泡坂妻夫著の『大江戸奇術考』によると、元禄十年(1697)に日本最初の奇術書『神仙戯術』が刊行された。

 それに出ている「紙蝴蝶飛」という術がどうやら「浮かれ蝶」の原型らしいのだが、記述が曖昧で内容がよく分からない、という。

 その約三十年後の享保十年(1725)に京都の同じ板元から『珍術さんげ袋』という奇術書が出る。著者は環中仙い三。この人の本名は不破仙九郎で、京都の医者で和算家だったといわれている。

 その二年後の享保十二年に同じ板元、同じ著者で『続懴悔袋』(ぞくさんげぶくろ)が出る。二十二種の手妻が影絵の図解付きで載っているのだが、その中に「紙にて作りたる蝶を飛ばす」手妻があるという。

 この芸を寄席芸に仕上げたのが大坂の手妻師、谷川定吉で、定吉はそれを「浮かれ蝶」と名付け、文政二年(1819)に江戸に下り葺屋町河岸の寄席で演じて好評を博した。

 斎藤月岑の『武江年表』の文政二年の所に、

 「此の節葺屋町川岸に大坂下り谷川定吉手品興行、うかれ蝶とて扇にて蝶をつかふ。一蝶斎は是れを学びしなり」

 とある。この一蝶斎とあるのが初代の柳川一蝶斎で、谷川定吉から受け継いだ「浮かれ蝶」に更に自己の工夫を加えて完成させたのは、この一蝶斎であるといわれている。

 生没年は不詳だが、弘化四年(1847)に豊後大掾を受領して一蝶斎の名を二代目に譲ったとされている。平凡社の『演劇百科大事典』では、二代目は初代の子となっている。

 柳川蝶十郎は初代一蝶斎の弟子で、弘化四年の生まれというから、初代一蝶斎が豊後大掾となった年である。

 同じ平凡社の『日本人名大事典』では、「三代目柳川一蝶斎」の項に、十六才の時に元祖一蝶斎の弟子となり蝶之助と稱した、とあり、慶応二年に太神楽の増鏡磯吉らと一座して英国に渡り、オーストラリア、その他を巡業して明治二年に帰国して蝶柳斎と改名、後に三代目一蝶斎を襲名した、と出ているが、パリ万博のことには全く触れていない。

 また、ここには、蝶十郎という名は出てこない。

 先の『演劇百科大事典』の方には、初代一蝶斎の弟子に蝶十郎がいて、彼は慶応二年に洋行して西洋奇術を輸入した、とあるが、その蝶十郎が後に三代目を継いだとは書いていないで、三代目は青木治三郎と云い、弘化四年生まれで初代の弟子となって蝶之助と稱し、後に蝶柳斎から三代目を継いだ、明治四十二年没、とあるだけで、蝶十郎とは別人扱いになっている。

 平凡社の『日本人名大事典』にあるように、慶応二年に柳川蝶十郎が太神楽の増鏡磯吉らと渡欧した、というのは『旅芸人始末書』では、万博の記録にはその顔ぶれの名が拾えないので太神楽の一行は蝶十郎とは別に、彼が帰国した慶応二年に蝶十郎と入れ違いに出国したのではないか、と書いてある。

 しかし、『大江戸奇術考』では、蝶十郎は太神楽丸一、増鏡磯吉の一座とロンドンからパリ万博に出演した、となっている。

 kのように各書で記述が違っていて、どれが正しいのか、よく分からないが、一つ一つ整理して考えてみると、次のようになる。

 まず、元祖一蝶斎だが、文政二年に大坂から江戸に下ってきた谷川定吉に出会って入門、「浮かれ蝶」の芸を習得する。

 初代一蝶斎の生没年は不明だが、谷川定吉に入門したのを蝶十郎が一蝶斎に入門したのと同じ十六才の時とすると、文化元年(1804)の生まれとなる。

 元祖一蝶斎が豊後大掾を受領し、一蝶斎の名を二代目に譲り、自らは柳川豊後大掾藤原盛考となったのは弘化四年(1847)で、その時、一蝶斎四十四才。

 そして、その年に蝶十郎が生まれる。

 その蝶十郎が初代一蝶斎に入門したのは十六才というから、文久二年(1862)のことになる。一蝶斎は既に豊後大掾となって十五経っている。豊後大掾は五十九才になっている。

 蝶十郎が松井源水一座と共にパリへ出発したのは慶応二年、二十才の時であるから、僅か四年で彼は「浮かれ蝶」の芸をマスターしたことになる。

 彼にはマジシャンとしての才能があったのだろう。

 蝶十郎がパリへ行ったのは松井源水一座の一員としてであって、それは記録的にも確かで疑う余地はない。

 従って、増鏡磯吉らと一緒に渡欧したというのは間違いである。

 もう一つ、二代目一蝶斎については、弘化四年に初代が豊後大掾となり一蝶斎の名を二代目に譲ったことになっているが、その後二代目のことは全く不明。蝶十郎は年令的には二代目に入門しても可笑しくないのに、初代の弟子になっている。『演劇百科大事典』では、宮尾しげを氏は、二代目を初代の子、としている。

 或いは、二代目は若くして亡くなったものか。

 蝶十郎はその後、三代目柳川一蝶斎を襲名する。『旅芸人始末書』だけは、それを二代目としている。先に挙げた『日本人名大事典』、『演劇百科大事典』等で、別人扱いになっていた柳川蝶十郎こそ、実は三代目一蝶斎を継いだ青木治三郎なのである。
続く

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