第98話 『浮かれ蝶(一)、パリ万博』

 一昨年亡くなった作家の吉村昭さんから、和紙をちぎって造った二頭の紙の蝶を二本の扇子で風を送りながら自在に舞わせる「浮かれ蝶」という手妻を知っているか、と訊かれたことがあった。

 「何度か見たことがありますよ」と答えて、「この間もテレビでやっていましたね」と私はいった。

 手妻というのは手品のことである。

 演目名が「浮かれ蝶」だったが、どうかは覚えていないが、藤山新太郎という芸人が確かに吉村さんのいうような手妻をテレビで演じているのを見た。

 吉村さんはその少し前、慶応三年(1867)にパリで開催された万国博に十五代将軍徳川慶喜の名代として出席した慶喜の弟、徳川昭武に医師として随行した高松凌雲のことを書いた『夜明けの雷鳴』という作品を発表していた。

 万国博覧会は一八五一年、ビクトリア女王の夫君アルバート公の後援によりロンドンのハイド・パークで開かれたのが最初という。

 その時、約四十カ国が参加し、入場者は六百万人に上り、大成功を収めた。

 その成功に倣ってフランス、オーストリア、アメリカなど、続々と万博を開催するようになるのである。パリ万博は慶応三年四月一日から十一月三日(和暦では、二月二十七日から十月八日)まで開催された。

 フランス政府が駐日公使レオン・ロシュを通じて日本政府(幕府)にパリ万博への出品参加を勧誘して来たのは慶応元年(1865)六月だった。

 徳川昭武に将軍の名代としてフランス派遣の内命が下ったのは慶応二年十一月二十八日で、昭武は翌慶応三年一月十一日にフランス郵船アルフェ号で横浜を出発した。一行は昭武の他、三名の留学生を含む随員など二十数名で、フランスまで約二ヶ月の船旅だった。

 一行がマルセーユ経由でパリに着いたのは三月六日である。

 パリ万博はすでに二月二十七日(陽暦四月一日)より始まっていた。

 万博に出品したのは幕府の他、肥前藩、薩摩藩と個人で江戸浅草天王町の商人、清水卯三郎という者だった。

 この万博で薩摩藩は薩摩太守、琉球国王と稱して会場も別に獲得していたことから、幕府と揉めるのだが、それについては今は触れないで置く。

 万博の日本の評判は大変なもので、出品物の養蚕、漆器、工芸品、和紙はグラン・プリに輝き、その他も数々の賞を受け、その後のヨーロッパに於けるジャポニスムの基因となった。

 万博会場で最も人目をひいて人気が集まったのは清水卯三郎が造った茶屋風の日本家屋で、土間とトイレが付いた六畳一間だったが、その土間に置かれた縁台で茶や味りん酒を供応し、座敷では卯三郎がパリまで連れて来た柳橋の三人の芸者が煙管で煙草を吸ったり茶を立てたりして日本の日常生活を演じてみせていたという。

 このパリ万博のことを書いた本には、卯三郎の茶室のことは必ず出ていて、連日大入りの大盛況だったとある。

 万博の会場外でも、各国から集まってくる見物客を当て込んで様々な国の芸人たちがやってきて、そのパフォーマンスを見せていたが、その中に日本の芸人達もいた。

 柳川蝶十郎という「浮かれ蝶」を演ずる手妻師もその一人だったのである。

 吉村さんは『夜明けの雷鳴』の「あとがき」の中で、

「万国博覧会については、横浜開港資料館にパリその他で発行された新聞記事の和訳されたものが保管されていて、詳細を知ることができた」

 と書いているが、その通りそれらの資料を調べた上、旅芸人の記録として貴重な資料の『旅芸人始末書』(宮内謙二著)なども参考にしたと思われる。(巻末の参考文献に同書の書名が出ている)

 吉村さんはその日本の芸人達について、

「(万博での)日本からの出品物は大好評で、博覧会目当てにパリで公演した日本人曲芸師その他の妙技が、ヨーロッパの人々を熱狂させたことが興味深かった」

 と書き、その後に、最初にパリに現われた日本の芸人として松井源水一座を挙げて、そのメンバーを次のように紹介している。

 

「独楽廻し」松井源水、女房はな、娘みつ、「手妻」隅田川浪五郎、女房小まんと娘、「軽業綱渡」浪七、「浮かれ蝶」柳川蝶十郎、朝吉、山本亀吉、小滝、太郎吉、矢奈川嘉吉で、アメリカの興業師と二年間千両という契約をむすんでいた。

 とある。

 吉村さんはただアメリカの興行師といっているだけだが、ベンクツという男だったことは分かっている。

 柳川蝶十郎は松井源水一座の一員として東廻りでパリに行ったようである。

 一方、アメリカでの巡業をすませて、源水一座より遅れて西廻りでパリ入りしてきた足芸の浜錠定吉一座があった。

 『旅芸人始末書』によると、

「パリ万博にあらはれた日本芸人としては、出演こそ源水にやや遅れたが、定吉の方が本国における格式からして、はるかに上であったものと見ることができる」

と出ている。

 定吉の芸というのは、定吉が肩で支えた四、五米の竹竿をオーライという息子が登って行って上で様々な恰好をしてみせ、失敗して落ちたかのようにみせて観客がハッと思う瞬間、床すれすれで見事に着地して一礼する。次に、今度は定吉は床に寝て足を高く挙げて大きな梯子を支え、その梯子をオーライが登って行って頂上で扇子を開いて一服。更に梯子の片方の支柱をとり去って、半分こわれたような梯子の上で、正月の出初め式でやるようなパフォーマンスを披露してみせたらしい。

 パリの新聞フィガロは、「オーライという小児最も勝れたり」と絶賛したという。

 オーライというのは定吉の倅の三吉のことで、オーライという芸名は多分アメリカ巡業中につけたのだろう。

 徳川昭武一行に会計係として同行した渋沢栄一(篤太夫)は『航西日記』をつけていて、その中に万博見物の印象や新聞の切り抜きを書き残していて、『旅芸人始末書』はそれを種本にしたと出ている。

 定吉一座の初演には徳川昭武も随員と共に見物に行き、祝儀として二千五百フランを下賜した。

 吉村さんはこれら日本の芸人達のことを書くに当たって、『旅芸人始末書』を参考にしたのかもしれないが、定吉について『始末書』と同じく浜錠定吉と書いている。

 この名前を見た時、私は「錠」は「碇」の誤りではないかと思った。

 芸名なのだから、浜といえば、「錠」よりも縁語の「碇」の方がぴったりくる。

 そう考えていたら、斉藤月岑の『武江年表』の「慶応二年」のところに、

 「今年、独楽廻し軽わざてずま等の芸術をもて阿墨利加人に傭はれ、彼の国へ趣きしもの姓名左の如し。是れは当春横浜に於いて銘々其の技芸を施しけるが、亜米利加のベンクツといふ者の懇望により、当九月より来る辰年十月迄二年の間を約し傭はれけるよし也」

 とあって、芸人名とその演目が出ている。

 その中に、

 「曲持足芸吉原京町二丁目浜碇事定吉」

 と載っている。やはり、どうやら浜碇の方が正しいように思える。

 例の柳川蝶十郎も。

 「幻戯(てづま)」北本所荒井町柳川蝶十郎」

 と出ている。

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