第94話 『河東節の謎(五)、愚性庵可柳』

 江戸時代には無数の音曲の流派が生まれては泡のように消えて行ったが、その個々の歴史や唄うたい、太夫などについては殆ど詳しいことは知られていない。

 前回の半太夫節でもわかるように、殊に江戸前期に関しては不明なことだらけであるが、そんな中で、河東節については比較的わかっている。

 河東節という浄瑠璃は、好きな人にとっては熱狂的に好きになるような要素を持っているようで、愚性庵可柳は『江戸節根元由来記』、芳室蕙洲は『十寸見編年集』に夫々、河東節の歴史やその時々の太夫、三味線弾きのこと、更に曲の成り立ちなどを書き残してくれているので、これらを読めば、ある程度のことは知ることが出来る。

 可柳と蕙洲の二人の内、蕙洲については『十寸見編年集』の大槻如電の書き込みから、金座の役人だったことがわかっているが、可柳に関しては『根元由来記』の跋にあること以外は不明だ。

『根元由来記』の最初の部分は、原武太夫の覚書と菊岡沾凉の『世事談綺』からの引用であることは『せんすのある話』の第二十三章で述べたが、その後に次のような記述がある。

「寅の冬十二月認め、いけの端勝原氏より能味富暁へ送り、夫より後に富暁事十寸見藤十郎と改、予、同人門弟にて、此道至て懇望ゆへ、譲り受るなり      可柳  」

 元祖河東の死後、弟子の河丈が二代目河東を継ぎ、『根元由来記』によれば、二番弟子の夕丈が二代目藤十郎となった。後に二代目藤十郎は法体して栄軒と改め、鳥越辺の御屋敷に三十人扶持で医師として召し抱えられた、とある。(鳥越辺の御屋敷とは松浦家のことである)

 能味富暁というのは、その栄軒の弟子で後に栄軒から三代目藤十郎の名を貰った。

 二代目河東は享保十九年(1734)に亡くなり、弟子の宇平次が三代目河東となった。

 能味富暁は、初めは藤十郎の栄軒の方ではなく、河東の側で東佐といって活躍していた。

 品川の生まれで根津茶屋次郎右衛門という者だった、と出ている。

 三代目の宇平次河東は延享二年(1745)に死んで、宇平次の甥の伝之助が四代目河東となったが、その時、跡目争いがあったのか、東佐はその名を返上して能味富暁と名乗った、と載っている。

 それで、河東方と袂を分かち、栄軒側へ行ったものと思われる。『根元由来記』には、「此者至極の名人なり」と出ているから、実力はあったのだろう。

 前出の可柳の記述にある、寅の冬十二月については、後で触れることにする。

 可柳は『根元由来記』の跋で次のように書いている。

「壮年の頃より、此道に心を寄て、束の間も忘るることなく、師にたよるといへども、愚にして人並にも成がたく、せめて水の波打音の辺り、竹の節間のわたりたる数をわづかに尋、心をなぐさめんと、日々夜々其奥意を闡して、わづかの草紙にかくは作るなり、もはや七十次にもなれば、世をのがれんとし月のしたしき名にまかせ、形身ともならんかと、しめしまいらせ候、是まで心を労せし輩も、古人となりければ、此道の事、尋る人もなく絶なんこと、余り歎かはしくおもひ、後の人のたのしみ、亦は余の人に問れ、あひさつもならんかと、書おくのみ、かならずしも、余の人にみせられんこと、かたくことわり、はづかしむるのみ、
なには是みぢかき長し節の間も
あはで此世へへた名のこれり

              文化元年甲子五月
              愚性庵可柳  」

 以上は、『燕石十種』にある『根元由来記』から引用したが、同書は写本として伝わった為に記事に多少の異同はあるようだ。

 これらの従来本に対して異本が見つかり、その異同について分析検討した詳細が、尾崎久弥の『江戸軟派研究』に載っている。

 異本は享和二年(1802)に謄写したものを嘉永三年(1850)に写したという識語があり、本の題名が『江戸節根元集』で、表紙外題は『竹露随筆』となっているという。

 燕石本と違う記事の内、一番気になるのは可柳の跋で、前掲の文化元年日付の跋の「もはや七十次にもなれば世をのがれんとし」というところが、「最早七十にも二ツ三ツなれば、世をのがれんと」となっているのに続いて第二の跋が出ているのだが、これは燕石本にはない。長い上に内容も聊か眉唾的なので要約する。

「抑先師竹雅は東都一流の音声で、その名は鳴り響いたが、年月が経つにつれて次第にその名声も薄れ、忘れ去られようとしているのを心配していたが、霜月の末、炬燵に入ってうとうとしていると、弁財天が夢に現われて、山彦河良という者と汝可柳は名が似ていて紛らわしく互いに迷惑なことも多いだろう。汝は先師の名を残さんという志を持っているようだから、これより師の竹雅の一字を貰って竹露庵柳雅と改名せよ、と宣わった」

 というのである。次いで、

「享和元年(1801)年酉霜月二十八日、愚性堂可柳改、竹露庵柳雅」

 とある。

 今、これらの記述を吟味する為に、先の従来本の「寅の冬十二月認め云々」の記事を仮に(A)とし、跋を(B)とし又、異本の跋を(C)、同じく異本の第二の跋を(D)として話を進める。

 先ず(A)の「寅の冬十二月」だが、(B)、(C)の跋の日付、文化元年(1804)は子年であるから、それ以前の寅年で一番近いのは寛政六年だが、もう一回り前は天明二年、更にその前は明和七年になる。

「認め」たのは勝原氏だろう。能味富暁は二代目藤十郎のことで、『十寸見編年集』では能見富暁となっている。

 ちなみに、同書では二代目藤十郎の改名後の名を清海栄軒としている。「予、同人門弟にて」とあるから、可柳は三代目藤十郎の弟子だったということになる。

 しかし、(D)で可柳は自分は竹雅の弟子であるといっている。竹雅は前にも書いた通り、大和屋文魚と共に名人といわれた人物であるが、『根元由来記』では平野氏の隠居、『十寸見編年集』では野村氏となっていて、いずれ大店の隠居と思われるが、詳しいことは不明である。

 三田村鳶魚の『未刊随筆百種』に、『東都一流江戸節根元集』という書が入っている。

 内容は『根元由来記』で、可柳の跋(B)の後に、有銭堂青霞という者が次のように記している。

「可柳先生は、自分(青霞)が此の道に志の厚いのを知って、長年苦労して編集してきたこの秘本を私に見せて下さって、後学の為に写しておくがよい、といわれた。そこで早速、書き写し、先生の書き漏したことや、その後の河東に関する出来事などを追い追い書き加えて行く」(要約)

 とあって、文化二年正月の日付がある。

 それに続いて、付録として、『根元由来記』以後、文政九年(1826)頃までの河東関連の出来事などが書かれている。

 まず題名が『根元由来記』ではなく、『根元集』となっている。又(D)では、可柳は享和元年に柳雅と改名したことになっているが、文化二年に青霞に見せたという本では、やはり可柳のままのようだ。

 (B)、(C)の跋から、可柳は享保十八、九年頃の生まれと知れる。可柳の師の竹雅は享保十年(1725)生まれであるから、可柳より八、九才年長である。

 (A)で可柳は、自分は三代目藤十郎の門弟であるといっているのに、(D)では竹雅の弟子だったといっている。これは、三代目藤十郎が死んで、その後、竹雅の教えを受けたということなのかもしれない。

 さて、(A)の寅というのが何時かということだが、『根元由来記』に引用されている原武太夫の覚書が書かれたのは明和元年(1764)と思われるので、それから間もない明和七年がもっとも有力である。

 異本の記述から、特に可柳という人物を知る手掛かりはなかったようだ。

 しかし、従来本にない記事の中に、(A)に出てくる勝原氏に関するものがある。

「池の端仲町に町医者勝原宗寿といふものあり。此医師娘にゑつといへる者岡安南甫の弟子にて手事の名人也、誠に江戸一也、後に本郷新町屋に石野次左衛門といふものあり、此もの妻になり、其後は浅草御書替屋敷住居ありける」

 この勝原宗寿は(A)の「いけの端勝原氏」に違いないだろう。

 五回にわたって河東節に関する疑問のいくつかを取りあげて書いてきたが、その内容を提示したに止まった。

 いつか新事実の発見などを切っ掛けに解明されること期待しつつ筆を擱くことにする。

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