第93話 『河東節の謎(四)、河東節連中(下)』

 河東節で素人旦那連中が初めて劇場に出演したのを、『江戸落穂拾』(第十九章)で、寛延二年(1749)の二代目團十郎一世一代の助六から、宝暦十一年(1761)の「江戸紫根元曽我」(河東節は「助六由縁江戸桜」)の間と推定した。

 その理由は大和屋文魚と平野竹雅という素人でありながら名人といわれる人物の出現である。

 この二人について、『十寸見編年集』には

「両人とも風調に遊び、世業をなさず。近世の名誉なりと云」

 とある。

『江戸節根元由来記』には

「両人共に近世の名人也」

 と出ている。

 竹雅は隠居とあるだけで、その他のことは不明だが、文魚は蔵前の札差で当時十八大通と稱された通人達の頭といわれた人物である。

 三升屋二三治の『十八大通』によると、

 「江戸中の大通といわれるような者は皆文魚と親分子分のような関係になって、文魚の所は女郎買いの稽古所といわれた、文魚は又、取り巻きの連中が河東節をやらないと機嫌が悪く、誰も彼も河東節をやらされた」

 という。

 そうした連中を引き連れての出演だったと思われる。

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 寛延二年中村座の二代目團十郎一世一代、三度目の助六は、「男文字曽我物語」で、河東節は「助六廓家桜」である。

 この時、文魚十九才、五才年上の竹雅は二十四才。文魚の年令からして、ちょっと若過ぎる感じがする。

 次の河東節による助六は七年後の宝暦六年中村座の「長生殿常桜」で、河東節は「富士筑波卯月里」である。

 二代目幸四郎が四代目團十郎となっての初助六で、意休は二代目沢村宗十郎、揚巻は瀬川菊次郎。

 寛延二年から宝暦六年までの間に、河東節が出たと書いてあるものもあるが、『歌舞伎年表』や『江戸芝居年代記』(『未刊随筆百種』)では確認できなかった。

 二代目團十郎は享保二十年(1735)に二代目海老蔵と改名して、宝暦六年の四代目團十郎の初助六の時、まだ健在で二幕目の助六には出なかったが、大江左衛門将門と手白の猿の精という役で出演している。

 この時、文魚は二十七才、竹雅は三十二才。

 いずれも男盛りで、諸条件から考えると、素人旦那衆の十寸見連の初出演はこの時の可能性が一番高そうだ。

 その更に五年後の宝暦十一年(1761)市村座の助六が「江戸紫根元曽我」で、河東節は「助六由縁江戸桜」である。

 助六は市村亀蔵(後の九代目羽左衛門)、揚巻は二代目瀬川菊之丞、意休は二代目宗十郎、白酒売が四代目團十郎だった。(以上、前に書いたものと重複する所が多いが、一応挙げておいた。なお、二代目團十郎は宝暦八年に死んでいる)

 伝之助河東が伊勢参りに出かけて行って中村座の出演をすっぽかした問題の助六、「人来鳥春告曽我」はその三年後の宝暦十四年のことである。(その年、六月に明和と改元)

 助六は市川雷蔵、意休は二代目大谷広右衛門、揚巻は中村松江だった。

 河東のドタキャンで困った中村座が急遽半太夫に出演を要請して来た時、半太夫の出した条件が、河東と同等の待遇、ではなかったか。そしてこの時の半太夫が宮内半太夫と思うのである。

 半太夫節についてはわからないことが多い。

 元祖半太夫は享保の頃には既に亡くなっていたと思われるのだが、『関東名墓誌』には、

「江戸半太夫、寛保三年(1743)正月二十三日没、深川霊岸町十八 浄心寺 幼名半之丞 薙髪後坂本梁雲ト云フ 説経祭文ニ巧ナリシヲ 肥前太夫誘フテ浄瑠璃ニ移ラシメ一派ヲ為ス 即チ江戸半太夫節ナリ」

 とある。

 元祖半太夫が幼名を半之丞といったのかはわからないが、半之丞という名は原武太夫の覚書(『なら柴』)に出ていて、「右半之丞は元祖河東師匠にて、上手と世に知る」とあり、『江戸節根元由来記』のその武太夫の覚書の引用部分には、「世に知る名人」と載っている。

 元祖半太夫の長男の宮内は早生、次男の半次郎が二代目半太夫となり、三男の半三郎が元祖が薙髪後に名乗った坂本梁雲を継いだといわれている。

 二代目半太夫は別号を坂本といった。宝暦五年(1755)市村座の「こだから愛護曽我」に半太夫節として坂本が出ている。半太夫節は「今様二人助六」。

 このを二代目半太夫とすると、宝暦五年にはまだ存命で、寛保三年に死んだ半太夫は一体誰なのか。

 また二代目半太夫の長男である宮内半太夫は元禄十一年生まれであるから、宝暦五年には五十八才になっている。とすると、親の二代目半太夫は八十前後になる筈で、その年令で劇場に出たということになる。

 もしかしたら、寛保三年に死んだのは二代目半太夫で、宮内半太夫は二代目を襲ったのかもしれない。わからないことだらけだが、『歌舞伎年表』や『江戸芝居年代記』で拾うと、その宝暦五年の市村座に続いて、宝暦九年の中村座、宝暦十二年の中村座と半太夫節の出演記録が出ている。

 その後が宝暦十四年、問題の中村座の助六「人来鳥春告曽我」で、河東節から半太夫節に急遽変更になった。

 元祖半太夫の頃、半太夫節は堺町に操り座を持っていたが、その経営に行き詰まった時、紀伊国屋文左衛門の援助で立ち直ったという。

 しかし、享保の五、六年頃に再び経営が悪化して休座の後に、上方から下って来た著名な人形遣い辰松八郎兵衛に座を明け渡した。

 また半太夫節から出た河東に人気を奪われ、元祖河東没後もずっと河東節の後塵を拝して来た。

 じり貧気味の半太夫節に対して、河東節には大和屋文魚や鯉屋藤左衛門(鯉藤)等、いずれも十八大通といわれた裕福な札差や魚河岸の大物の後援者がいて、その格差は益々拡がる一方だったと思われる。

 そんな情況下、一番口惜しかったのは、半太夫節の総帥である宮内半太夫だったであろう。

 元文頃(1736~1740)と思われるが、当時の流言に、

「河東裃、外記袴、半太羽織に、義太股引、豊後可哀や丸裸」

 というのがある。

 半太夫節は羽織姿であるのに、その半太夫節から生まれた河東節は裃姿に例えられている。

 宝暦十四年の正月、中村座から急な出演を要請された時、宮内半太夫は河東節と同じ扱いを要求したのではないだろうか。

 それが半太夫節の本来の面子であり、矜持である。

 にっちもさっちもいかない状態にあった中村座は、それを呑むしかなかった。

 もしかしたら、宮内半太夫はもう一つ別な要求をしたかもしれない。

 それは、以後中村座では河東節は出演させず、江戸節は半太夫節のみとする、という約束をとりつけたのではないか、とも考えられるのである。

 確かに、それ以後、一度の例外を除いて、中村座では半太夫節の出演のみである。

 一度の例外というのは、安永八年(1779)春、中村座の「御攝万年曽我」で河東節は、「助六廓家桜」である。

 助六は二代目市川門之助、揚巻は四代目岩井半四郎、意休は三代目大谷広右衛門だった。

 この狂言は大入大当たりで、中でも門之助の評判がよく、是より次第に立身す、と『十寸見編年集』にある。

 宝暦十四年の河東の違約は、半太夫節が代って出演してくれたお陰で、穴をあけずに済んだが、中村座にしてみれば、河東の行為は許せなかったのだろう、以後河東節は中村座に出演させないという約束を半太夫と取り交したか、どうかはわからないが、その後中村座の江戸節は半太夫のみとなった。

 問題の張本人、四代目伝之助河東は七年後の明和八年に世を去り、次の五代目平四郎河東も安永五年(1776)に亡くなり、一件から十五年が経過した安永八年(1779)の中村座の河東節の出演は中村座と河東の間に入って口をきく人が現れ、その口添えで実現したものという。

 しかし、それも一回だけに終わり、以後は又、半太夫のみの旧に復した。

 話を宮内半太夫に戻すが、『巴人集』に出ている中興金枝半太夫という名稱は、低迷していた半太夫節の地位を河東節と同等にまで高めて、その面目を復活させたことによる、讃辞を込めた呼称ではなかったのか、という気がするのである。
                 ーーーこの項、続くーーー

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