第92話 『河東節の謎(三)、河東節連中(上)』

 三升屋二三治の『賀久屋寿々免』の「太夫之部」の最初に、

「江戸半太夫半太夫節といふ近年助六の外出勤なし昔の芝居今の豊後節の如く替り日に出勤有て浄瑠璃いつる江戸河東河東節といふ助六の外半太夫に同し
 半太夫節は中村座河東は市村河原崎座なり近年木挽町へ河東節無人にて断の節より半太夫にて助六勤し事有て古例となる又又河東の持の由聞及ふ両家共に頼みによって出勤する客同様の取扱なり故給金無之」

 とある。

『 賀久屋寿々免』の終わりに、弘化二年秋(1845)、と見えているから、それから推測すると、河原崎座(木挽町)で河東節が無人で半太夫に替わったというのは、少し以前になるが、文政五年(1822)の五代目幸四郎の助六の時ではないかと思われる。

 揚巻は、葛飾北斎が、これ程の名優はいない、と絶賛したという三代目菊五郎だった。

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 今日、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」が上演される時、河東節連中として素人の旦那衆が出演する。

 今は、助六の幕が揚がると吉原三浦屋の前で、座頭格の役者が助六の芝居の由来を述べて下手へ下がり、そこで三浦屋の格子内に並んだ河東節連中へ向かって、「河東節御連中様、どうぞ、お始め下さりましょう」といって頭を下げるのが切っ掛けで河東節が始まり、金棒曵きの出となる。

 それに続いて、並び傾城の場となるのだが、実は助六の芝居にはその前段の部分があるのである。今ではカットされるのが普通だが、昔の例えば大正四年に有名な十五代目羽左衛門が二度目の助六を演じた時の台本などを見ると載っているので、その通りに上演されたに違いない。

 その大正四年の助六でも口上は芝居の最初に出てくる。

 江戸時代はどうだったか、について、同じく二三治の『芝居秘伝集』の「頭取河東節の口上」に、次のようにある。

「助六狂言のとき、白酒売出たる跡へ頭取上手に出て河東節連中の役觸を読んで、仕舞に、[いよいよ此の所河東御連中樣方上るり初まり、左様に御覧下さり升ふ]といふ。

 元来河東節連中は芝居より頼みたる者ゆへ、斯く取扱ひも重く、御の字を付く」

 これによると、河東節が始まる時に芝居の途中で頭取が出て来て口上を述べたようだ。頭取というのは、古い時代には、代々由緒ある古老の役者が勤めた楽屋の総取締役で、大変権威があったものという。

 もっとも、幕末には「頭取はいらぬ役者の捨所」といわれる程、その権威も落ちたらしいが、宝暦から寛政頃までの十八世紀の後半には、まだそんなことはなかったと思われる。

 河東節連中として、いつ頃から素人の旦那衆が出るようになったかについて書かれたものはあまりない。『歌舞伎十八番』(戸板康二)には、

「これは河東節の伝統を守って来たのは富裕階級の旦那衆だったので、芸人扱いせずに厚く対したのが慣例になった」

 としている。

 明治四十三年刊の『俗曲評釈』の内の「河東節」で、解説者の佐々醒雪は次のようにいっている。

「河東節の浄瑠璃を職業としているものは、寛政ごろから漸く絶えて了って、専ら蔵前の通人連などの間にのみ残っていた所から、助六の狂言には、この通人連中に助力を仰いだ習慣が存しているのである」

 として、それを寛政以後のこととしている(寛政十二年が千八百年である)

 ここには河東節のことしか出ていないが、半太夫節の方はどうなっているのだろう、三升屋二三治によれば、

「両家共に頼みによって出勤する客同様の取扱なり」

 とある。両家とは勿論、河東と半太夫を指している。半太夫節も河東と同じ待遇なのである。半太夫節も河東と同じく素人の旦那衆が出演していた。

 一番自然なのは、半太夫節の方が先に特別扱いを受けていて、半太夫節から出た河東節が同様の扱いを受けるようになった、ということだが、これは殆どあり得ない。

 そこで考えられるのは、宝暦十四年(1764)正月の中村座の助六のことである。

 その時、四代目の伝之助河東が出演の筈だったが、伊勢参りに出かけて行ってしまった。中村座では困って沙州(後の五代目河東)、蘭洲(二代目)に掛け合ったが不承知で、評議の結果は中止と極めたが、座元からは、狂言もすべて決めて準備して来たので今更止めることは出来ない、といわれ、急遽半太夫へ依頼することになったのである。この事件以後、中村座の助六は一度の例外、安永八年(1779)の「御攝万年曽我」を除いて、すべて半太夫節となるのである。

 この宝暦十四年(六月に明和と改元になる)に急遽出演を依頼された半太夫は、初め二代目宮内と稱した宮内半太夫ではないかと思われる。宮内半太夫は元祖半太夫の孫で、元祖の次男だった二代目半太夫の長男である。元祖半太夫の長男だった宮内は早生、三男の半三郎は、元祖半太夫が薙髮後の名、梁雲を継いだが、これらの誰を半太夫と数えるかで諸説あり、宮内半太夫を三代目とも、四代目とも云う。

 蜀山人の狂歌集『巴人集』に次のような記述がある。

「長月二十日、吉田蘭香のもとにて、はしめて市村家橘にあひて、
   よい風が葺屋町から来る客は
      今宵の月をめで太夫元
 けふなん、中興金枝半太夫か三回の忌日なりとて、原夏若の三味線にて、家橘半太夫かたりけれは、
   半太夫もとをわすれぬ一ふしも
      けふきく月のはつかにそしる  をなしむしろにて、誌仲千年千年の、一ふしをかたりける、年は八十あまり四とかや」
 吉田蘭香は画家で、東牛斎と稱した。
 原夏若は原武太夫の息である。『巴人集』の別のところに、
「觀流斎原富(武太夫のこと)は、近代三絃名たたる人なり。其子夏若子、たはれ歌の名をこひ侍りけれは布留絲道と名つけ侍るとて、
   いく千代もふるの絲道跡たへぬ
      君かちすぢをたれかさみせん」

 とある。

 これによると、夏若は蜀山人に狂名をつけて貰ったようで、又この文や前の記事から夏若が半太夫節の三味線を弾いたことがわかる。歌の文句にもある通り、やはり血筋なのだろう。

 前の「長月二十日、云々」の記述に戻るが、ここに出てくる中興金枝半太夫とは明らかに天明元年(1781)九月二十日に亡くなった宮内半太夫のことである。

 この半太夫については後廻しにして、先に家橘についていうと、これは天明五年に六十一才で亡くなった九代目羽左衛門の初代家橘である。

 この羽左衛門は明和の初め頃に原武太夫から『なら柴』に載っている覚書を貰った羽左衛門で、そのことについては『江戸落穂拾』の第三十章の「原武太夫の覚書」に書いた。

 そういった武太夫との関係からみて、息子の夏若とも懇意であったと思われる。夏若の年令はわからないが、元禄十年生まれの武太夫は羽左衛門が生まれた享保十年には二十九才であり、夏若がその前後の子とすると、羽左衛門とは近い年令だったと考えても可笑しくない。

 さて、宮内半太夫だが、中興金枝半太夫とある。金枝半太夫という名稱は初めて知った。そう名乗ったものか、或いは、賛辞を込めての尊稱なのか、不明。歴代の半太夫は、この宮内半太夫を除いて、すべて生没年が知れない。宮内半太夫も没年忌日のみ、天明元年九月二十日とわかっている。これは天明七年の中村座で、この宮内半太夫の七回忌追善興行があったことではっきりしている。『巴人集』の記述から、その享年が八十四才だったことがわかる。逆算すると、元禄十一年(1698)生まれである。元禄十年生まれの原武太夫とは一つ違いである。中村座のその時の番付では、宮内半太夫を四代目としている。

 端的にいうと、中興金枝半太夫という呼稱から、この半太夫の半太夫節の歴史に占める地位の大きさと重さを感ずるのだが、それが宝暦十四年の中村座の事件に大いに関係があると睨んでいる。

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