第91話 『河東節の謎(二)、「松の内」』

 昭和二年刊の日本音曲全集の『古曲全集』には、河東、一中、薗八、荻江の詞章と解説が出ているが、その河東節の「松の内」の解説に、

「この曲は、享保三年(1718)正月、市村座で上演した鶴見一魚作の『傾城富士の高根』で三条勘太郎の化粧坂の少将が出端の合方に半太夫の脇語であった初代河東が初めて独立して河東節といふ新風を興し、タテを語った記念浄瑠璃である」

 と載っている。

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 初代河東が河東節を創始したのは享保二年か、享保三年で、その時、初めて語った浄瑠璃が「松の内」ということになっている。

 ここでは享保三年となっているが、『歌舞伎年表』によると、この市村座の「傾城富士の高根」は享保二年の上演となっている。

 河東節の資料として有名な『江戸節根元由来記』(以下、『根元記』と畧稱)の「松の内」のところには、

「まつの内、此浄瑠璃、半太夫と河東破談に相成、初て出来る、此松のうちの元の起りは新吉原三浦屋何某とかいへる女郎、享保戌年(享保三年)正月元日戌の日なりし時、二日に中の町へ年礼に出ける時、下紐とけ、中の町を引歩行けり、跡よりつき添ふ遣り手、若ひもの、新造、禿に至まで、気の毒に思ひながらも、おいらんへ雑言いひがたく、茶屋へ腰を懸し時しらせ、引あげさすべし、と皆々おもひけるに、漸何とかいへる茶屋の前にて、彼緋縮緬のいもじ落し時、かの女郎、打掛三つ重ね着せしが、うちかけともに下帯の上へおとし、しらぬ顔にて行過ける、跡にて遣り手、打掛にて下帯を包み取り上て、其茶屋へ呉れ遣しけるとかや、其気前皆感じ、竹婦人も是を七種迄の文に作り、松の内と名づけて、大にはやりし也、どこの女郎の下紐とは此事なり、其春狂言に、芝居にて興行有り、誠に貴賎群集して、桟敷も落し程の大入也、節付は元祖河東、三絃は梅都と申盲人手附なりと云ふ、夫より源四郎前弾附けしなり、是より河東相方となる」

 とある。ここに「其春狂言に、芝居にて興行あり」というのが、「傾城富士の高根」で、『根元記』では享保三年となっている。(なお竹婦人とは岩本乾什という俳人で河東節の作詞者として有名)

 しかし、幕末の著名な雑学者、山崎美成(やまざきよししげ)の『三養雑記』の「河東節」の項には、

「享保三年、半太夫と河東と、師弟の中むつまじからで、別に一家の風をかたり出したるは、次の享保四年なり。その春、松の内といふ浄瑠璃を作りたり。その文句を徴とすべし。二日は茶屋にゐ(亥)の日にて、三日は客のきそはじめ、だいてね(子)の日と一たきの、かほりほのめくおくざしき、君がちびきのうしの日や、うしとやいはんわがおもひ、いつかやみなん、中畧、とらにあふとて裳は露。とあるをもて、古暦によりて考るに、享保四年正月元旦戌の日なり。七日までの十二支をおぼめかし、つくり入れたるものなり」

 とあり、「松の内」を享保四年の作としている。

 山崎美成は、姓は源、通稱は久作、字は久卿、北峰、また好問堂と号した。下谷長者町に住み、長崎屋新兵衛と稱して薬舗を営み、家業の傍ら著述に従事、後に鍋島内匠頭に抜擢されて禄仕したが、安政三年(1856)没、享年六十一というが、一説には文久三年(1863)没、享年六十七とも伝えられる。
(『日本随筆大成』の解説)森銑三先生は後者、『名人忌辰録』では、通稱長崎屋新兵衛で、後に久作、晩年零落す、とあって、文久三年没となっている。

 文久三年没で享年六十七とすると、安政三年没の場合の享年は六十でないと可笑しい。

 美成は古暦を調べて確かめたのだろうから、「松の内」が出来たのは享保四年ということになる。そうなると、「傾城富士の高根」との関係はどうなるのだろう。

 その享保四年三月に、河東は最初の河東節集『仁保鳥』を刊行している。

 江戸半太夫事坂本梁雲の序文に、河東の跋があり、文字を書いたのは初代蘭州である。

 蘭州は、蔓蔦屋という吉原の妓楼の主人で、庄次郎といった。『吉原雑話』には、

「蔓蔦屋蘭州は、広沢の門人、又持明院流の御流は加賀家山本源右衛門殿に学ぶとかや、将棋も上手也」

 とある。広沢とは細井広沢のこと。広沢は儒者で書を能くした。持明院流は、藤原行成を祖とする世尊寺派から別れた書道の一派である。

 昭和四十二年(1967)は享保二年(1717)から数えて二百五十年になり、盛大に河東節二百五十年祭が行われたが、その一環として、『河東節二百五十年』(竹内道敬編)が出版された。。それにようと、享保八年刊行の河東節集『鳰鳥万葉集』にも、まだ半太夫の名と紋があり、今のところ、「半太夫ぶし」の字がなくなるのは享保七年の「式三献神楽獅子」(正本)から、であるという。

 本(『 鳰鳥万葉集』)が出るまでには一年位はかかるので、半太夫と河東の破談というのは享保七年頃のことかもしれない。

 それまでは、半太夫節の河東だったのだろう。理由は恐らく、次第に河東の人気が高くなり、家元の半太夫を凌ぐ程になってきたからと思われる。

 初代の河東は人気絶頂の享保十年七月に死んでしまう。

 斉藤月岑の『声曲類纂』に載っている、今は失われてしまった築地成勝寺の河東の墓碑の文によると、

「行年四十有二。享保乙巳(十年)秋七月二十日以病卒。葬築地本願寺堂塔成勝寺、即葬者以千数」

 とある。千人もの人が河東の死を惜しんでその葬儀に参集したというのである。河東の人気や思うべしである。

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 享保二年の「傾城富士の高根」と享保四年の「松の内」との関係は依然わからないが、原武太夫の『なら柴』に、次のようにある。

「(山彦源四郎は)、河東、市村竹之丞座にて、傾城富士の高根といふ狂言の節に、吉原松の内といふ浄瑠璃 [つるみ一魚作也] 語りし時より、河東相方とは成りたり、古今の妙手故、其以後出る新浄瑠璃手付面白し」

 原武太夫については、前にも何度か触れたが、御留守番与力(御先手与力ともいう)という幕臣でありながら、三味線の名手だった。初名富五郎・富之丞、本名盛和、芸名岡安原富、号は觀流斎などと稱した。元禄十年(1697)生まれで、寛政四年(1792)没。享年九十六という長寿だった。『なら柴』の他、『隣の疝気』、『断絃余論』等の著書がある。

 武太夫は享保二年には二十一才になっている。半太夫や初代河東とも交流があったというから、武太夫が書いていることは事実に違いない。

 初代山彦源四郎は、三絃の名手木村又八の門弟で、初め村上源四郎と云い、半太夫節の三味線を弾いていたという。

 市村座の「傾城富士の高根」で初代河東がタテを語った時以来、源四郎が河東の相三味線となり、初代河東の死後も四代目河東に至るまで河東節の立三味線をつとめ、新浄瑠璃の節付けをして名人の誉れが高かった。

 河東節の基礎は源四郎によって造られたといわれている。

 源四郎が村上姓を改めて山彦を名乗った経緯については、『江戸落穂拾』(第七章、扇面亭伝四郎(三))に書いたので、省略する。

 源四郎は宝暦六年(1756)に他界した。行年は不明。

 武太夫は河東節の創派については何も触れていない。やはり半太夫節の一派として考えていたのかもしれない。

 また武太夫は「傾城富士の高根」という狂言が何時上演されたのかについても何も書いていないので、『歌舞伎年表』の享保二年説と、『根元記』の享保三年説と、更に山崎美成の『三養雑記』の享保四年説と、いずれが真実なのか、混沌として不明である。

 山崎美成の「松の内」の詞章による考証も謎を一そう深めただけで終わったようだ。

                     この項、続く

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