第90話 『河東節の謎(一)、助六由縁江戸桜』

 平成二十年正月の歌舞伎座の夜の部は、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」である。

 助六は勿論、市川團十郎で、揚巻は福助の初役である。

 市川家の助六の時には河東節連中が出演することになっている。今回は助六の上演が決まったのが十一月だったので、河東節の十寸見会では急遽、十一月末から稽古に入った。

 その後、師走も押し詰った二十八日に総稽古、二十九日に舞台稽古と、何ともせわしない年末になった。

 私は学生時代から荻江節をやっていたが、河東節は渡辺やな師から、助六だけはやっておきなさい、といわれて習ったのが最初で、昭和三十年頃のことである。

 その後も専ら荻江ばかりやっていたが、以前にも書いたような、やな師の去就問題が起こり、それが治まって、海老様といわれた九代目海老蔵の十一代目市川團十郎襲名興行が一段落した昭和三十八年、十寸見会がやな師のお凌い会を催してくれたが、その時、今度の会は十寸見会の主催なので、荻江ではなく、河東節をやって貰いたい、といわれて習ったのが「きぬた」だった。

 その後、河東もボツボツ教えて頂いて、十何曲かは習った。河東節連中としての劇場出演は、先代團十郎(十一代目)丈の最後の助六、昭和三十九年十月、東京オリンピックの時の歌舞伎座だった。

 故田中青滋先生の特別なお計らいで、会費も払わず、お手伝いということで、伊東深水画伯、吉田五十八氏などのお歴々と共演させて頂き、その上、お礼まで頂戴した。

 そのお金で、記念にウールの着物を作ったのを覚えている。

 その後、転勤など勤め人生活の都合で、一時中断したが、現團十郎(十二代目)丈の襲名以後は殆ど毎回出演させて貰っている。

 最初に河東節連中として出演して以来、四十数年の月日が流れ、当時のメンバーの殆どは鬼籍に入られ、今更ながら過ぎ去った時の重みを痛感せざるを得ない。

 さて、今の「助六由縁江戸桜」という芝居の名題だが、これは本来河東節の曲名である。

 助六の芝居の初演は、口上の文句にあるように正徳三年(1713)四月、山村座で、助六は二代目團十郎だった。「花館愛護桜」

 二代目團十郎は、その三年後の正徳六年(六月に享保と改元)二月にも中村座で助六を演じている。「式例和曽我」

 二代目團十郎の一世一代と銘打っての三度目の助六は寛延二年(1749)、中村座での「男文字曽我物語」で、この時に今の助六の形がほぼ出来上がったといわれている。

 二代目團十郎の最初の助六の時の浄瑠璃は一中節という説もあり、また半太夫節ともいわれ、はっきりしないが、二度目の助六の時は半太夫節だった。

 河東節が初めて使われたのは、享保十八年(1733)春の中村座の「英分身曽我」の時で、河東節の名題は「富士筑波二重霞」、助六は市村竹之丞(後のお八代目羽左衛門)だった。

 二代目團十郎の三度目の助六の時は河東節で、河東節の名題は「助六廓家桜」である。

 二代目團十郎は宝暦八年(1758)に亡くなったが、その三年後の宝暦十一年の春、市村座で市村亀蔵、後の九代目羽左衛門が河東節で助六を演じたのが「江戸紫根元曽我」で、この時の河東節の名題が「助六所縁(今は由縁と書く)江戸桜」である。

 芝居の名題からもわかるように、助六の芝居は元は曽我狂言の一部だったのだが、やがて独立した一幕物として上演されるようになる。それで、助六、実は曽我五郎、白酒売が曽我十郎などということになっているのである。

 一幕物として上演されるようになったのは天明(1764~1772)以後といわれている。

 河東節は初めの頃、助六上演の都度、新曲が作られていたが、その後、既成の曲を使うようになった。河東節をやる連中が次第に少なくなってきたからと思われる。

 元は河東節の名題である「助六所縁江戸桜」を芝居の名題に使ったのは七代目團十郎のようである。

 宝暦十一年(1761)に、市村座の座元である九代目市村羽左衛門(当時は亀蔵)が、河東節「助六所縁江戸桜」で助六を演じて以来、「助六所縁江戸桜」は他座では遠慮して使わなかったという。(佐藤仁『助六の江戸』)

 その例を破って、河原崎座で、六代目團十郎七回忌追善として「御江戸花賑曽我」の二番目に河東節「助六所縁江戸桜」で助六を演じたのは初代市川男女蔵で、文化二年(1805)春のことである。

 初代市川男女蔵は、二代目市川門之助の長男で、俳名新車、後に海丸。屋号は滝野屋。天明九年(1781)生まれで、天保四年(1833)没。五代目團十郎門下で弁之助といったが、寛政元年(1889)春、中村座で男女蔵となる。文化・文政期の名優として知られている。

 歌舞伎十八番を制定した七代目團十郎の初助六は文化八年(1811)二月、市村座での四代目海老蔵の三十七回忌、五代目白猿の七回忌、六代目團十郎の十三回忌の追善興行だった。

 海老蔵、白猿などとあるが、夫々、四代目團十郎、五代目團十郎のことである。

 この時の芝居の名題は「むつまじき蓬莱曽我」で、河東節は「助六所縁江戸桜」だったということになっている。

 岩波文庫の『助六所縁江戸桜』(守随憲治校訂)の解説によると、同書の底本は、文化八年二月十八日初日の市村座に於ける七代目團十郎初演の助六の台本である、となっている。

 以下、次のようにある。

「本書に飜刻した物は、市川三升事堀越福三郎氏の秘庫に珍蔵されるもので、未飜刻である。特に今回貸与せられたので、衷心御厚意を謝する。従来助六劇の台帳で飜刻されているものは、天明二年(1782)の「助六曲輪名取草」と寛政十一年(1799)の「廓の花見時」と大正四年の「助六由縁江戸桜」(型附き)等であるが、ここに収録したものは「助六曲輪名取草」に非常に接近している」

 天明二年の「助六曲輪名取草」は半太夫節の名題で、芝居の名題は「七種粧曽我」。助六は五代目團十郎 揚巻は中村里好、意休は講談や落語でお馴染みの中村仲蔵で中村座。

 寛政十一年の「助六廓花見時」も半太夫節の名題で、芝居の方は「大三浦伊達根引」。助六は六代目團十郎の初演、揚巻は四代目岩井半四郎の子で文化元年(1804)五代目半四郎を継いだ岩井粂三郎、意休は享和元年(1801)に五代目幸四郎となった松本高麗蔵で中村座。

 いずれも中村座で半太夫節による助六だった。

 大正四年の「助六由縁江戸桜」は、歌舞伎座で十五代目市村羽左衛門が二度目の助六を演じた時のものである。河東節は「助六由縁江戸桜」で、芝居の名題も同じである。

 さて、文化八年の七代目團十郎初演の助六であるが、前掲の岩波の『助六所縁江戸桜』の解説に、「浄瑠璃について一言しておく」とあって、次のように書かれている。

「明確でないが、(七代目團十郎初演の助六は)河東節でなく半太夫節を使ったらしい。併し、その詞章が本文には簡略にされていて、助六の出になるまでの前段の部分が記されてない。この形式は天明二年の「助六曲輪名取草」の台帳にその侭発見されるが、思ふに、規定通りの順序である所から、省筆される慣はしになっていたのであるまいか」

 僅かに出ている唄の詞章は河東節の「助六由縁江戸桜」にはない。それで守随先生は河東節ではなく、半太夫節ではなかったか、といわれているのである。

 前に、助六上演の時には、その都度新曲が作られていたと書いたが、河東節には助六に関する曲が何曲もあった。

 しかし、今に伝わっているのは二曲だけで一曲は「助六由縁江戸桜」、もう一曲は、二代目團十郎が一世一代と銘打って演じた、寛延二年、三度目の助六の時の「助六廓家桜」である。

 そこで、「助六廓家桜」の歌詞を照合してみたが、やはり当てはまらなかった。

 名題が「助六所縁江戸桜」なので、河東節に違いないと思い、曲は失われてしまったが詞章の残っているものを当たってみたところ符合するものが出てきた。

 それは、安永五年(1776)春の市村座、「冠言葉曽我所縁」という曽我狂言の時の河東節で「助六由縁はつ桜」である。

 この曲は『十寸見要集』では「助六廓花道」となっている。前出の『助六の江戸』によると、この助六は二代目市川八百蔵、意休は坂田半五郎だったが、二人共病気のために休場し、九代目羽左衛門の助六、四代目團十郎の意休で続演して評判だったという。

 文化八年の市村座の台本に出ている助六の詞章の内、「人目の関」以下は、一部分を除いて、この「助六廓花道」と一致する。

 相違の部分は、台本の方は「土手八丁の風にさへ、音せぬ花の塗鼻緒」とあるのに、「助六廓花道」は、「堤八丁草そよぐ、草に音せぬ塗鼻緒」となっている。

 しかし、前半の部分、「雨雲の晴れて会ふ夜をせかれては、東橋と謎かけて、思ひぞ渡る花川戸」という文句の該当する曲が河東節には見当たらなかった。

 念のため、半太夫節の歌詞を調べたところ「助六廓の花見時」の詞章と一致した。後半の「人目の関」以下の文句は「助六廊花道」と同じであった。従って、相違部分も残った。

 しかし、その一部分の違いを除けば、半太夫節の「助六廓の花道」の歌詞と同じということは、七代目團十郎の初助六は、やはり守随先生のいわれるように、半太夫節での上演だったのか。しかし、この時代の半太夫節の出演は中村座に限られており、市村座での半太夫節とは、どうも考えにくい。

 この市村座の番附は、守随先生の解説によると、まだ見つかっていないそうだから、いずれ発見されれば何かわかるかもしれない。

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