第8話 『ウインダミア夫人の扇』と『ビリテイスの歌』(ワイルドとルイス)

戯曲『ウインダミア夫人の扇』

英国の作家オスカー・ワイルド(1854~1900)に『ウインダミア夫人の扇』という戯曲がある。題名の扇というのは、夫のウインダミア卿が夫人の誕生日に彼女に贈った、マーガレットという夫人の名入りの扇のことである。


ウインダミア卿は最近、あまり評判のよくない年輩の女性、アーリン夫人に大分入れあげているという噂があって、妻のウインダミア夫人は心穏やかでない。

ふと目にとまった銀行の通帳を見ると、確かに大金が支出されている。噂は本当だったようだ。ウインダミア夫人の誕生日の夜のパーテイに、夫人の反対を押し切って、ウインダミア卿はアーリン夫人を招待してしまう。

その夜、彼女に執心のダーリントン卿から口説かれたウインダミア夫人の心は揺れる。彼女は置き手紙をしてダーリントン邸へ行く。その手紙を最初に発見したのはアーリン夫人だった。

アーリン夫人は、実はウインダミア夫人の母親なのだった。そのことをウインダミア卿は知っているが、夫人は知らない。

アーリン夫人は、若い時、子供(ウインダミア夫人)と夫を捨てて愛人の許に走ったのだが、その後、愛人に捨てられる。ウインダミア卿は、そういう過去を持つアーリン夫人が妻の母親だと世間に知れることを恐れていて、アーリン夫人がそのことを公表しない代償として、彼女に経済的援助をしていたのだった。

彼女を妻の誕生日のパーテイに招待したのも、娘に会いたいために出席させてほしいというアーリン夫人の願いを断わり切れなかったのだ。

一方、ウインダミア夫人は、母は自分が小さい時に死んだと聞かされて育ったので、アーリン夫人が自分の本当の母親とは夢にも思わない。アーリン夫人はウインダミア夫人の跡を追ってダーリントン邸へ行く。彼女は娘に自分と同じ過ちを繰り返させたくなかったのだ。

ダーリントン卿はパーテイの後、クラブへ廻ってまだ帰っていなかった。ダーリントン邸で娘と会ったアーリン夫人は、自分が彼女の母親であることを明かすことなく、ウインダミア夫人に夫と子供の許に帰るよう説得する。

そこへダーリントン卿がパーテイに出席していた男たちを連れて帰ってくる。その中にウインダミア卿もいる。アーリン夫人とウインダミア夫人はあわててカーテンの後ろに隠れる。アーリン夫人は娘に、ここは妾が何とかするから、貴女は機会をみて帰りなさい、という。

やがて男達はウインダミア夫人が忘れて行った扇を見つけて大騒ぎになる。そこへ、アーリン夫人が出ていって、その扇は自分が間違って持ってきてしまったものだ、という。

正気に戻ったウインダミア夫人は、アーリン夫人に感謝し、翌日訪ねてきたアーリン夫人を歓迎する。アーリン夫人は、遂に自分がウインダミア夫人の母親であることを明かさぬまま、ウインダミア夫人の扇を思い出に貰い受けて外国へ去って行く。


以上が『ウインダミア夫人の扇』の梗概だが、まさに新派的内容の作品である。

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オスカー・ワイルド

ワイルドは鬼才と呼ぶのに相応しい作家だ。作品としては、小説として『ドリアン・グレイの肖像』という傑作があり、戯曲には、前出の『ウインダミア夫人の扇』の他に『サロメ』『真面目が肝心』などがある。

ワイルドは晩年、同性愛に絡んだ事件で実刑判決を受け、二年の獄中生活の後、失意の内にパリで死んだ。(1900年)

昨年のミレニアムが、その没後百年ということで、筆者は、ある劇団から『真面目が肝心』の日本の舞台向けのアレンジを依頼された。台本は駒沢大学の荒井良雄教授訳の『真面目が一番』だった。『真面目が一番』は機知と警句に溢れたワイルドらしい作品で、いくつかの訳本を読ませて貰ったが、日本語に翻訳するのがいかに大変か、よくわかった。例えば、題名にしても、原題は( The Importance of Being Earnest )で、真面目(アーネスト)と主人公の名のアーネストが掛け詞になっていて、「真面目が肝心(或いは、一番)」という訳では何かニュアンスが足りない気がするのだが、すべてがこんな調子で苦労した。訳者の荒井先生から「これは西洋歌舞伎ですよ」といわれて、かなり自由にやらせて貰った。公演には英文学者の先生方も大勢みえたが、比較的好評だったようでホッとした。

『サロメ』とピエール・ルイス

さて『サロメ』だが、この戯曲は他のワイルドの作品とちょっと違っている。というのは、『サロメ』はフランス語で書かれてパリで出版されたからだ。(1893年)

英国では、その翌年にフランス語からの翻訳という形で、かの有名なビアズリーの挿画入りで出版された。もっとも、ワイルド自身はビアズリーがあまり好きでなかったという。

サロメ』のフランス語の稚拙さを指摘された時、ワイルドは「私が完璧なフランス語で書いたら、フランス人に悪いだろう」と彼一流の皮肉で答えたという。その『サロメ』を書くに当たってフランス語の相談にのったのは、ピエール・ルイス(1870~1925)だといわれている。

ルイスはフランスの耽美派の詩人、作家で、作品としては『アフロデイット』(小説)『ビリテイスの歌』(詩集)が有名だ。『ビリテイスの歌』は、古代ギリシャの閨秀詩人、サッフォ-から詩作の方法を習ったという女流詩人、ビリテイスの詩を翻訳した詩集として1894年に出版された。

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『ビリテイスの歌』

サッフォ-は紀元前六〇〇年頃に実在したレスボス(エーゲ海の東端、トルコ近くにある島)の伝説的な詩人で、ファオンという美青年に失恋してレスボスのレカート(レカテス)岬から海に身を投じて死んだと伝えられている。ボードレールの『悪の華』の中に『レスボス』という、サッフォ-を詠った有名な詩がある。

レスボス島には女性同志の同性愛の風習があり、レズビアンという言葉の語源となった。サッフォ-もレズビアンだったといわれ、サフィズム(女性の同性愛)という言葉はそれに由来する。

さて、ビリテイスだが、実は古代ギリシャに憧れを持っていたルイスが創造した架空の人物だったのだが、ルイスの記述があまりにも精緻で真に迫っていたため、ビリテイスを実在の詩人と信じた学者もあったという。

ドビュッシー(1862~1918)は『ビリテイスの歌』から三篇を選んで、『ビリテイスの三つの歌』という歌曲を作曲している。(パンの笛、髪、ナイアードの墓)ドビュッシーはルイスと仲良しで、一時は一緒に暮らそうと思ったこともあったらしい。

ルイスは、1901年に『ビリテイスの歌』の中の十二篇をマイム付きで朗読する会を催したが、その際、その付随音楽の作曲をドビュッシーに依頼した。(編成は、フルート2、ハープ2、チェレスタ)

この音楽は後に、ピアノ二重奏の為の『六つの古代の墓碑銘』(1914年)に活用されている。ドビュッシーの『ビリテイスの歌』の付随音楽は、カトリーヌ・ドヌーヴの朗読付きのCDが、グラモフォンから出ている。私の好きなCDの一枚だ。

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