第89話 『ドドイツ節(五)、扇歌の芸』

 扇歌は都々一坊と名乗っていたが、高座でドドイツだけをやっていた訳ではない。
 とっちりとんのような俗曲から、当時流行の端唄まで、或いは曲弾きのようなこともやってみせていたかもしれない。

 しかし、何といってもドドイツが主で、それと『落語家奇奴部類』の扇歌のところに、「三都うかれぶし、なぞなぞ合の元祖なり」とあったように、なぞなぞ合が扇歌の持ち芸だった。

 なぞなぞ合とは、なぞなぞ合わせで、謎解き唄のことである。テレビの笑点という番組などでやっているように、何々とかけて何と解く、その心は何々、というのを三味線の弾き語りで節をつけてやるのである。又、三都うかれぶしとは、ドドイツ節を指していると思われる。

 何々とかけて、という題は客から貰うのである。
 例えば、大坂へ行った時のこと、「天王寺の塔」とかけて、という題が出された。

 (答) 虎屋の饅頭と解くわいな
 (心) 十で五十(塔で五重)じゃないかいな

 当時、大坂で評判の虎屋の饅頭は一つ五文、つまり十で五十文である。

 どういう風に唄いながらやったものかは、よくわからないが、高橋本によると、客席から貰った題を絃に乗せて囃し、唄いながら「何が何してなんじゃいな」と拍子をとって、これを二、三度繰り返している内に答えを考えるというやり方だったという。

 しかし、その僅かな間に、客をアッといわせるような答と心をみつけるのは至難の技で、扇歌にはそういう特殊な才能があったようだ。

 (題) 十艘の船に灯が一つ、とかけて
 (答) 江戸っ子の喧嘩と解くわいな
 (心) 糞喰え(九艘暗い)じゃないかいな

 弘化三年(1846)水戸での興業の時、「水戸の広小路」とかけて、という題が出された。

 (答) 平清盛と解くわいな
 (心) 火の病(日の屋前)ではないかいな

 水戸の広小路には、日の屋という大きな薬屋があったという。

 あまりに扇歌が即妙な答えを出すので、「寒の雪だるま」なら解けない(溶けない)だろう、といった客があった。
 それに対して、扇歌は、すぐ、

 「寒が明いたら(考えたら)とけるじゃないかいな」

 と唄って返したという。

 「扇歌の馬鹿野郎」とかけて、という題には、

 (答) 唐の火事と解くわいな
 (心) 馳けた(かけた)方が余程大馬鹿ではないかいな

 扇歌の得意や思うべしである。

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 もう一つ、謎解きを挙げておこう。

 (題) 大石良雄とかけて
 (答) 唐辛子と解くわいな
 (心) 赤うて辛う(赤穂で家老)じゃないかいな

 なぞなぞ合は以上にして、ドドイツの方に話題を移すことにする。

 扇歌作と伝えられるドドイツは数多いが、最も知られているのは、

 白鷺が 小首かしげて 二の足ふんで
 やつれ姿を 水鏡

 である。

 初めの文句が高田浩吉の歌謡曲にもなっていたので、ある程度の年輩の人は聞いたことがあると思うだろう。

 前掲の二冊の本から、扇歌の生涯に沿って、まず作られた時期などのわかるものを挙げると、

 磯部田圃の ばらばら松は
    風も吹かぬに 木(気)がもめる
 (磯部時代の作という。扇歌を可愛がってくれた次姉の桃経はなかなかの情熱家だったようで、まだ嫁入り前の頃、好きな男が出来て夢中になり、危く身を誤まりそうになった時、扇歌が詠んだと伝えられている)

 たんと売れても 売れない日でも
    同じ機嫌の 風車

 (前出の「白鷺が――」と同様、湯本辺を放浪していた頃の作)

 私しや奥山 ひともと桜
    八重に咲く気は 更にない

 薮鴬の 私じゃとても
    啼く音に変わりが あるものか

 石川本には、次のようにある。

「(扇歌の)その才気と、その妙技と、その美声に於て、扇歌は群を抜いたものとおもはれる。しかし、芸のいろっぽいといふことでは、どうだったか。一般に俗曲は色気を持って骨法とする」

 といって、扇歌の作ったドドイツの文句をみると、どうも色気にどぼしいのが疵、と書いている。

   あきらめましたよ もうあきらめた
    あきらめ切れぬと あきらめた

 よその人にも こうかと思もや
    おまえの実意が 苦にもなる

 こうしてこうすりゃ こうなると
    知りつつこうして こうなった

 等々は、確かに理屈っぽい気がする。

 続いて石川氏は、扇歌が色気を用いようとすると、その文句は忽ち破礼(バレ)、つまり卑猥になってしまう、として

「この人つひに色気のほどよく品よきものをさとらない。生まれはあらそはれず、これも水戸っぽうの一徹のせゐであらうか。あるいは、都々一といふものは所詮この域を出ないものであらうか」

 といっている。

 又、扇歌は諷刺をもって評判をとった、と書いているが、その類のドドイツは見当たらない。扇歌が御政道を批判したとして江戸払いになった、「上は金、下は杭なし 吾妻橋」という句(ドドイツではない)は、石川本では、全国的に飢饉が続いた天保三年、五年頃の作としているが、高橋本では嘉永三年のこととなっている。これについては前回でも触れた。

 幕府に対する批判、諷刺等の取り締まりは厳重で、寄席のような公共の場ではうっかりしたことはしゃべれなかった筈で、人から話しかけられて相槌を打ったばかりに捕まって拷問を受けた話が『幕末百話』にも載っている。

 幕末には、落とし文という瓦版が流行った。

 これはニュース・ソースを明かさないための手段で、落ちていた文を拾ってそれを瓦版にしたということになっていた。拾った文なら誰が書いたかわからず、わからなければ追求の仕様がない。

 話が大分横に逸れたが、要するに、扇歌が諷刺によって評判をとったというのは、そんな訳でちょっと信じ難い。むしろ、嘉永三年(1850)頃、世相を諷刺したようなことをいって、江戸払いになってしまったということだろう。

 扇歌の最期については前章に書いた通りである。辞世のドドイツはあまり感心しないが、口ずさみながら死んだという、「今日の旅、花か紅葉か知らないけれど、風に吹かれて行くわいな」という方は扇歌らしくていい。

 昨年、平成十八年九月の初めに、私は石岡市を訪れた。

 昭和六年、扇歌の八十回忌を記念して町の有志により扇歌堂の建立が計画され、浄財を募って昭和八年に国分寺境内に完成した、その扇歌堂と、姉の桃経とともに眠っているという扇歌の墓に詣るためだった。

 生憎に雨が降る日だった。

 石岡駅に隣接した観光案内所で尋ねると、国分寺までは歩いていける距離のようなので、地図を貰ってぶらぶらと歩いて行った。

 メイン・ストリートは近代化が進んでいるようだったが、十五分程歩いて裏通りへ入ると、門構えの剣道場などもあったりして、古い町並みの風情もまだ、其処此処に残っていた。

 扇歌の木像(横山一雅作)を祀った扇歌堂はすぐわかった。お詣りして、その脇を通って本堂の裏手の墓地に出ると、扇歌の墓を示す標示板が立っていた。標示板の指示に従って、その辺りを捜したが、墓はなかなか見つからなかった。

 どうやら標示板は放置されていたものを、いい加減に立てかけて置いたものだったらしく、今は扇歌のことを顧る人もいないのだろう、簡単に見つかるものと思っていたのは考えが甘かった。墓地全部を見て廻るには列車の時間もあり、また雨降りの中でもあり、心残りではあったが、あきらめて千手院を後にした。

                     終わり

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