第88話 『ドドイツ節(四)、都々一坊扇歌』

 扇歌の子之松は、幼い頃から芸事に人一倍強い関心を持っていたようである。旅芸人のあとをついて行って、夜遅く帰ることも暫々あったという。

 子之松に自分の跡を継いで貰いたいと思っていた父の玄作は、子之松に江戸へ出て蘭学を勉強するようにいったが、子之松は首を縦に振らなかった。当時、子之松の上の姉の花経(はなよ)は既に村内の園部家に嫁いでいた。下の姉の桃経は眼の不自由な弟を不憫に思って、父に隠れて子之松に三味線の手ほどきをしてやったりしたという。

 文化十四年(1817)子之松十四才の時、子之松をこのままにしておいたら芸人になりかねないと思った玄作は、一歩譲歩して、医者が嫌いなら商人になったらどうか、と切り出した。医者よりまだ商人の方がマシ、と思った子之松は多賀郡相田村(北茨城市)の呉服屋に丁稚奉公に出たが、好きな芸事から全く隔離された環境に耐えられず、半年足らずで磯部へ戻ってきてしまう。

 その後、暫くして枡屋治三郎という土地の造り酒屋から養子縁組の話が起きた。子之松は枡屋の養子となって、名を福次郎と改める。子供のない枡屋夫婦は福次郎を可愛がり、大田から師匠を呼んで福次郎に唄や三味線を習わせたりした。

 しかし、二年後に思いがけず枡屋夫婦に子が授かると、福次郎に対する態度が一変し、彼を疎んずるようになり、次第に奉公人扱いをするようになる。

 特に我慢がならなかったのは、好きな唄、三味線を禁止されたことで、福次郎は枡屋を出る決心をして、愛用の三味線を手に養家を去ったのは文政三年(1820)、福次郎十七才の時だったという。

 その文政三年に南陽が死んだ。翌文政四年、福次郎の父、玄作が亡くなった。享年五十二才だった。玄作の死後、水戸の南陽の許で手伝いをしていた、玄作の弟の玄市が磯部へきて玄作の医業を継いだ。

 養家を飛び出した福次郎は、大田や湯本など水戸近辺の盛り場を唄と三味線で流して歩くなどして放浪生活を送っていたと思われるが、文政六年、江戸へ出る決心をして、その途中磯部に立ち寄り、父の死を知った。

 父の墓前で不孝を詫びた福次郎は、しばらく磯辺に滞在したようである。その間、叔父の玄市は、先の見えない芸人を諦めて医術の修行をしてはどうか、と福次郎を説得したと思われるが、彼の決心は変わらなかった。

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 石川本では、磯部から江戸への途上、福次郎は府中に次姉の桃経を訪ねている。府中は今の石岡市である。

 桃経は幼い福次郎を一番可愛がってくれた彼の最大の理解者だった。桃経は初め神官と結婚したが、離縁になり、その後、府中の真壁屋という旅籠の主人、長五郎という者と再婚したのである。長五郎は早く妻を失い、後妻として桃経を納れたのだった。

 府中に暫く滞在後、福次郎はいよいよ江戸へ出る。その時期は、高橋本では、天保二年(1831)としている。

 江戸へ出た福次郎は音曲噺の第一人者、船遊亭扇橋に弟子入りするのだが、高橋本では、江戸出てきて三年目に扇橋の門を叩いたことになっている。

 天保二年から三年目というと天保五年である。

 初代扇橋は文政十二年(1829)に死んでいるので、そうなると、福次郎が入門したのは二代目扇橋ということになる。

 しかし、その扇橋について、「わけても落語の中に音曲噺を取り入れ、新しい芸域を切り拓いた音曲噺の船遊亭扇橋は、飛ぶ鳥も落とすほどの人気者であった」とあるから、この扇橋は初代でなければならず、おかしなことになる。

 石川本では、福次郎が江戸へ出てきた時期については、はっきりしないといっているが、都々一坊扇歌となのって初めて高座に上がったのは文政八年(1825)八月一日であったというから、ときに福次郎二十三才、その見当であろう、としている。その初高座は牛込神楽坂上の藁店(わらだな)だったという。

 高橋本では、初高座の場所は同じだが、天保九年(1838)のこととしていて、石川本と十三年の開きがある。この辺りから、二冊の本の記述は大きく違ってくる。

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 扇歌の芸については、後でまとめて書くつもりでいるので、ここでは扇歌の足どりを辿って行くことにする。

 扇歌の人気は次第に揚がり、その名は江戸中に知れわたった。それに水を差したのが、水野越前守の天保の改革である。

 この改革は江戸市民の日常生活までも及んだ。江戸歌舞伎の三座は浅草寺裏の後の猿楽町に移され、それ以外の芝居、見世物は禁止。戯作者、浮世絵師などで摘発され、罪を得た者もある。岡場所の取り締まりも厳重になり、それによって繁栄を誇った深川も急激に衰退したといわれる。寄席も百軒以上あったものが、わずか十五軒に制限され、出し物まで規制を受けるようになり、多くの芸人たちが職を失った。

 石川本では、扇歌は天保の改革で江戸払になったとしている。その後の扇歌については、ざっと書き流した感じであるが、高橋本にない、扇歌の妻のことが書いてある。

 扇歌の妻は琴といった。弘化二年(1845)の秋、大坂に住む琴の父の病が重いと聞いて琴は大坂へ行ったが、父は間もなく亡くなり、その跡を追うように琴も病を得て死んでしまう。三田北寺町の宝生院という寺に、琴の三回忌に扇歌が建てた琴の墓があるそうである。
 墓の側面に、大坂で死んだ琴の三回忌に建てた旨が漢文で書いてあるという。

 弘化三年の秋、扇歌は水戸で、弟子四人と共に興行を打った。扇歌の大きな高座の記録はこれが最後である。
 その何年か後、扇歌は府中に現われる。その時、既に昔の面影はなく、廃人同様だったという。そんな扇歌が身を寄せる先は真壁屋の姉の桃経の所しかない。

 その府中香丸下町の旅籠、真壁屋が扇歌の死に場所となった。

 嘉永五年(1852)十月二十九日、

「ドドイツもうたいつくして三味線枕
  楽にわたしは寝るわいな」

 これが扇歌の辞世だそうで、

「今日の旅、花か紅葉か知らないけれど
  風に吹かれて行くわいな」

 この歌を口ずさみながら、扇歌は息を引き取ったという。

 扇歌の遺体は愛用の三味線と共に、真壁屋の菩提寺である府中の真言宗千手院の墓地に葬られた。

 以上が石川本による扇歌の生涯である。

 これと高橋本との一番大きな違いは扇歌の江戸払の時期である。

 石川本では、天保十二年に江戸払いになったとしているが、高橋本では、その時は罪を得た訳ではなく、改革の規制により仕事が出来なくなって江戸を離れて上方へ行ったとしている。

 天保の改革は天保十四年(1843)、老中水野忠邦の失脚によって終わった。

 扇歌は上方でも大成功をおさめ、弘化二年(1845)に江戸へ戻った。

 高橋本では扇歌が江戸払になったのは嘉永三年(1850)のこととしている。

 「上は金 下は杭なし 吾妻橋」

 この扇歌作の句が、幕府の御政道を批判したものとして罪を得て、江戸払になったというのである。

 上の方は金にあかして贅沢しているのに、下の方は食べるものもないという心を吾妻橋に寄せて詠んだものである。杭なしを食いなしに掛けている。

 今の吾妻橋は、江戸時代は大川橋と云い、東橋、吾妻橋は俗稱で、吾妻橋が正式な名稱になったのは明治八年のことである。

 高橋本では単に所払となっているが、これを石川本にある江戸払と同じと解釈させて貰った。

 府中に姉の桃経を頼って行ってからのことは石川本と同じである。

 扇歌の江戸払の時期については、資料もないので、どちらが正しいとも決め難いが、弘化三年に四人の弟子と水戸で興業しているところを見ると、天保改革の終焉後、扇歌は江戸へ帰って活躍していた筈で、そうでなければ、地方廻りだけの扇歌に四人の弟子とはちょっと考えにくい。「上は金」の句は石川本にも出ているが、江戸払とは無関係の扱いになっている。

 扇歌ほどの芸人であれば、多少人気が落ちても寄席へ出ていれば何とか食べていけただろう。江戸で人気があれば、地方興行でも客が集まる。しかし、江戸で稼げなくなったら、地方廻りで食べていくのは難しいだろう。

 憶測になるが、弘化三年から嘉永三年までの四年の間に、「上は金」の句が原因であったか、どうかはわからないが、江戸払になったと思われる。

 次回は、一世を風靡した都々一坊扇歌の芸について―――
———続く———

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