第87話 『ドドイツ節(三)、岡玄作』

 ドドイツをとりあげて都々一坊扇歌に触れない訳にはいかない。

 二代目船遊亭扇橋撰による『落語家奇奴部類』に、

「京橋住 都々一坊扇歌」として、「常州水戸の産にして、扇橋に随身して、三都うかれぶし、なぞなぞ合の元祖なり、嘉永五子(1852)十月二十九日、府中にて終る」

 弘化五年(1848)の序がある同書に嘉永の記事が出ているのはおかしいが、実は同書はその後、かなり後まで書き継がれたもののようである。

 扇歌の師の扇橋とは、この書の撰者の二代目扇橋ではなく、初代の扇橋のことである。

 その初代の扇橋について、同書には、

「赤坂住 船遊亭扇橋 奥平家の臣、常磐津兼太夫弟、若太夫と云、後に麻布十番に住す、下谷吹きぬ喜亭を開く、音曲咄の元祖なり、広誉扇橋信士、文政十二丑年(1829)四月十三日、(没という字脱か)」

 とある。

 ここにある常磐津兼太夫というのが、二代目か、三代目か、書いていないので分からないが、初代の兼太夫は初代文字太夫の死後、天明七年(1787)に二代目文字太夫を襲名した。二代目兼太夫はその初代兼太夫の弟で、初め大和太夫といったが、同じ天明七年に二代目兼太夫となった。寛政七年(1795)に兄の二代目文字太夫が亡くなった後、その跡目相続のことから破門され、寛政十一年(1799)に別派を立て吾妻国太夫と名乗ったが、享和二年(1802)、刺客に襲われ横死した。

 もし、この二代目兼太夫の弟とすると、常磐津家元の二代目文字太夫の弟でもある。となると、兼太夫の弟と書くより、文字太夫、国太夫の弟と書くだろうから、先の文中にある兼太夫とは三代目兼太夫のことと思われる。

 三代目兼太夫は近世の名人で、二代目組太夫から綱太夫を経て、文化六年(1809)に三代目兼太夫を襲名したが、文化十一年、かにの中毒で亡くなった。

 三升屋二三治の『戯場書留』に、

「寛政の頃(実は享和二年)、国太夫横死す、後、兼太夫は本芝に住みて、まぐろ太夫といふ、此兼太夫、(文化十一年)七月二十六日夜に、客に伴れ、座敷にてかにを喰ふ、其夜かににあたり、即死す、兼太夫二代続珍事、爰にしるす」

 と出ている。

 下谷吹きぬ亭だが、上野不忍の池の端から宝円の角を通る道を吹き貫き横丁といっていたようだから、その辺りに出来たのだろう。

 さて、都々一坊扇歌だが、文化元年(1804)に常陸水戸藩領内の久慈郡佐竹村磯部(現大田市磯部)で生まれたという。幼名を子之松といった。文化元年は子年だったので、そう名付けられたと思われる。扇歌の父親の岡玄作は医者だった。

 手許に、扇歌の生涯を書いた二冊の本があるが、高橋武子氏の『都々一坊扇歌の生涯』の方には岡玄策、石川淳氏の『近世畸人伝』の方では岡玄作となっている。

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 どちらが正しいのか分からないが、とりあえず以下、玄作とさせて貰う。

 この二冊の本のうち、石川淳氏の『近世畸人伝』には十人の伝記が出ていて、「都々一坊扇歌」はその中の一篇である。従って、量的には短篇小説と同じ程度の作品だが、高橋武子氏の『都々一坊扇歌の生涯』の方は単行本である。

 この二冊以外にも扇歌について書かれた本は多いと思うが、とりあえず、手許にある此の二冊を参考にしながら、扇歌の生涯を追ってみることにする。

 扇歌の父の玄作は下野国那須郡大内村で代々酒造業を営んでいた岡伝次衛門の次男として明和六年(1769)に生まれた。若い頃に医者になる志を立て、水戸へ出て藩医の原南陽玄瑞の弟子になって、医術の修行を積んだ。南陽は和漢、オランダの医学に通じた名医で、専門著書もある大家だった。

 あるとき、江戸の本屋に珍しい医学書が入ったと聞いて、南陽は玄作に代金四十両を持たせて、その書を買い求めに江戸へ行かせた。

 玄作は歌舞伎好きだったという。江戸へ出た玄作はこの時とばかり江戸三座へ通い、吉原へも足を踏み入れて、やがて足繁く通うようになり、忽ち四十両を使い果たしてしまった。

 なかなか戻ってこない玄作に、業を煮やした南陽から、早く帰れ、と矢のような催促がくる。困った玄作は本屋の主人に頼み込んで、珍書を読まして貰う許可を得て、七日間通って読み通し、水戸へ帰った。水戸を出てから、三十五日目だった。

 空手で戻ってきた玄作から事情を聞いて怒る南陽に対して、玄作は

「先生が御入用なのは本そのものではなく、書かれている内容でしょう。それはちゃんと全て覚えて来ましたから御心配無用です」

 といって、その内容を滔々と口述し始めた。

 南陽はびっくりすると同時に、玄作の記憶力に呆れた。玄作の口述を聞き終わった後、

「七日の間に、それを残らず書いて提出しろ」

 と命じた。すると、玄作は、

「金を注ぎ込んだ吉原学問の方はどうしますか。やはり、書いて出しましょうか」

 といったそうである。

 玄作の特種な能力に驚き、また感心した南陽だったが、他の弟子の手前、こんな無軌道な不始末をしでかした玄作を放って置く訳にいかず、玄作の才能を惜しみながらも破門した。

 南陽から破門された玄作は藩内の佐竹村磯部に家族と共に移り住んで村医者となった。これらは南陽の計らいだったという。

 こうしたエピソードから見て、玄作はかなりの奇人だったようだ。

 村医者として最初は患者が近郷からつめかける程忙しかったらしいが、云いにくい病状をズバリいってのけたり、もう助からない患者をみると、念佛を唱えて家人に早く弔の準備をした方がよいと云ったりするので、患者も次第に少なくなって、貧乏したようである。

 しかし、玄作には人なつこい気さくな面もあり、また、行き倒れや貧乏人の面倒を進んでみるような人情深いところもあったという。

 玄作の妻は水戸藩桜井与六郎の娘で、二人の間には二男二女があった。扇歌の子之松は玄作が磯部に来てから生まれた子で末っ子だった。

 子之松が四才の時、母が亡くなった。子之松が七才の時、兄の陽太郎と共に疱瘡に罹った。

 和漢の医学書では、疱瘡の病人に青魚は大毒としてあったが、研究心旺盛な玄作はそれが事実か、どうか確かめるために、兄には鰹を、弟には鰯を食べさせた。我が子を実験台に載せたのである。

 しかし、医学書に書かれていたことは真実で、兄の陽太郎は視力を失い、弟の子之松は弱いながらもわずかに視力を回復することが出来たが、一生しょぼしょぼ目となり、顔にあばたが残った。

 この年(文化七年)、玄作は四十二才の厄年だったという。

 石川本では、

「こどもの母はかなしみいきどほって、一時は夫の玄作との別ればなしまでおこったといふ」

とあるが、高橋本では、その三年前の子之松四才の時に母は死んだことになっている。

 その翌年の文化八年(1811)、玄作は破門以来初めて水戸の南陽の許を尋ねて、自分の疱瘡の実験の仔細を報告し、盲目になってしまった長男陽太郎の将来のことを頭を下げて南陽に頼んだ。その年、陽太郎は南陽の口利きで江戸の鍼医の許に修行に出た。

 陽太郎は勘がよく、覚えが早いので、師匠からも期待されていたというが、二年後江戸で流行った風邪が因で短い生涯を終えた。
———この稿、続く———
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