第86話 『ドドイツ節(二)、ドドイツ節の系譜』

 お亀の茶屋について、高力猿喉庵の『矢立墨』に絵入りで説明がでているので、それを挙げる。

「宮の宿のはたごやなる飯盛女を、おかめと呼ぶことハ、寛政十二申のとしの秋、熱田の築出の町はづれに、大なる茶屋ありて、蜆汁をうりたり。元は府下にて鶏飯のうつしを仕出せしが、此地にうつりて、茶屋を初む、其故に鶏飯が店と呼しなり。此うち下女をおかめといふ、此女かの茶屋の庭に、とこだいを出して、茶菓子などをうりしが、いつとなく、おかめが店とて流行せり。何故とならば、此本店の座敷へ上れば、余程物が入事なれど、かのとこだいに休ミても、庭の物好など風流なるさまをながめる楽ミは、同じければ、おかめが店へ銭安にたのしむ人々が多かりし。是より呼初て、当所の飯盛の惣名とはなれりとぞ。此鶏飯より繁昌弥益(いやまし)になりて、新長屋の茶店つづき、出女の店つきなどもありて、賑々しく見へしが、かの鶏飯も栄へ久しからずして、海市蜃楼の跡なき類ひとなれり。其全盛の時を爰に畫きぬ」

 下の図がそれで、築山や池が描かれているが、池には舟が浮かべてあり、庭がかなり広大であったことがわかる。

お亀の茶屋について、高力猿喉庵の『矢立墨』に絵入りで説明がでているので、それを挙げる。

 猿喉庵の著書は絵入りのものが多く、見ていて楽しいし又、視覚から得られる情報は文字だけで書かれたものと違って、直接的、具体的なので、思わぬ発見をすることもある。

 前出の『都々一節根元集』の著者、小寺玉晁は明治十一年に七十九才で没したというから、逆算すると寛政十二年(1800)の生まれである。

 高力猿喉庵は本名を高力種信、俗稱を新蔵と云い、尾張藩士で御馬廻り役だった。著書も多いが、画才に長け、殆どの著書に自ら描いた絵が載っている。

 猿喉庵は天保二年(1831)に七十六才で没したというから宝暦六年(1756)の生まれである。従って、猿喉庵は玉晁より約半世紀以前の人物ということになる。

 玉晁はお亀の茶屋が出来た頃の生まれだが、猿喉庵はその頃、四十代の半ばで、実際に遊びに行ったこともあっただろう。

 以下は、尾崎久弥氏の解説の続きである。

「ちょうどこの頃に名古屋から宮へかけて潮来節に似たような唄が流行った。その唄というのは、

おかめ買う奴あたまで知れる
油つけずの二ツ折れ
そいつは、どいつじゃ、
そいつは、どいつじゃ

 この終いの囃子の「そいつは、どいつじゃ」の繰り返しが、「ドドイツ、ドイドイ」と変わり、「ドドイツ、ドイドイ、浮世はサクサク」と繰り返して囃すようになり、誰いうとなく、この新しく生まれた唄をドドイツと云い始めた。このドドイツが新しい節の名になったのは享和の後の文化の頃と思われる(要約)」

 さて、このドドイツを唄い出したのは、鶏飯屋の女中で宮の須賀生まれのお仲という女で、彼女が後にドドイツといわれるようになった唄を流行らせ、当時の宮の遊女をはじめ一般にも広く唄われるようになった。

 このお仲という女性は一種の傑物、成功者で、後に神戸町第一等の遊女屋、鯛屋の女房になったとも、仲居だったともいわれている。
 十九世紀の初頭、文化の前の享和の頃、名古屋では、

神戸伝馬町箒はいらぬ
  鯛屋のお仲の裾で掃く

 という唄が流行ったというが、この唄からお仲の人気の程が知れる。

 このドドイツは別名として、お亀の唄とも又、神戸節ともいったが、後には名古屋節といわれるようになった。

 元唄は三下りという調子だったが、江戸へ移って二上りになり、江戸で大流行して名古屋へ逆輸入された。『守貞漫稿』の「名古屋節」のところに、江戸では三下りドドイツという、と注が出ている。

 尾崎久弥氏はドドイツは潮来節から出たものとしているが、『守貞漫稿』では、「よしこの一変してドドイツ節となる也」とある。

 ジェラルド・グローマー著の『幕末のはやり唄』でも、ドドイツは潮来節から変化して出来た「よしこの節」から生まれたものとして、神戸節は元々、名古屋周辺で唄われた「よしこの節」の替え唄ではなかったか、といっている。

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 潮来節は安永(1772~1780)の頃から江戸で唄われるようになり、次第に流行した。そのピークは、十八世紀末から十九世紀の初頭、寛政末から享和へかけてだったという。

 その潮来節が変化して出来た「よしこの節」は名古屋や京、大坂では持て囃されたようだが、江戸ではあまり流行らなかった。『守貞漫稿』では、「よしこの節」について、「文政三、四年(1820~1821)頃より行われ三都ともに専ら之を唄う」とある。

 尾崎氏は、ドドイツが新しい節の名となったのは文化頃としているので、文政に流行った「よしこの節」ではなく、潮来節から出たものとしているのである。潮来節も、「よしこの節」も、江戸小唄に僅かに残っている。

 「潮来出島の真菰の中であやめ咲くとはしおらしや」という唄は三下りである。

 今の「潮来出島」の唄は、潮来節がそのまま残ったのではなく、どうやら歌沢節に入っていたものを小唄にとり入れたものらしく、元の潮来節がどれ程残っているのか、よく分からない。

 一方、「よしこの節」は、「三千世界にたった一人の主さんを人にとられてわしが身は又どこで立つ」という小唄や阿波をどりの伴奏の唄がそうだといわれている。又、ドドイツ節は、元唄は三下りだったが、江戸へ来て二上りとなり、今では専ら本調子で唄われている。

 これらを聞き合わせてみると、夫々に似ているところもあり、似ていないところもあって、ドドイツ節がどちらから生まれたものか、音楽的に判断することは難しいようだ。

 ただ、二つの音曲の流行の時期からみると、ドドイツ節は潮来節を母体として生まれたという尾崎説の方が有力と思われる。

 昭和の初めに、三田村鳶魚などの著名な江戸研究者が参加して発刊された『彗星』という雑誌の昭和二年二月号に、森沢瑞香という人が「こしかたばなし」と題して書いているが、その中に「おかめ駕篭」という項があって、「旧幕府時代には名古屋の城下では遊女を置くことを許さなかった、大須の新地は明治五、六年頃に出来たもので、それ以前の名古屋人の青楼遊びは、多くは熱田の宮駅まで行ったものである。それへ通う駕篭をおかめ駕篭と稱し、広小路辺に、おかめの面を書いた下に「かご」と書いた看板の行燈が明治五、六年頃まで出ていた」とある。

 以下、面白い記事なので、全文をそのまま挙げる。

「此駕篭は一里余の間を駈けづめに走ったもので、その掛声に往復の別があって、往きは「シテコイ、シテコイ、シテコイ」というて、還りを「シテキタ、シテキタ、シテキタ」というのである。
 是等全く落語めいて嘘らしく思うであろうが、当時はそんな事を怪しともおもわず、平気で乗っていた杯(など)は実に今世人の憶測の外であろう」

 何ともおおらかな時代の話である。
———この稿、続く———

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