第85話 『ドドイツ節(一)、お亀の茶屋』

 花街は、昔は「かがい」と音で読んでいたものだが、近頃では、「はなまち」といっているようだ。「花街(はなまち)の母」などという歌謡曲が流行った頃からだと思うが、今では「はなまち」の方が当たり前になってしまった。

 最近、NHKの教養番組で、相原恭子さんという方の監修による祇園の歴史が四回にわたってテレビで放映されたが、その中では一貫して「かがい」で通しておられたので、何となく懐かしいような、ホッとした気持ちになった。

 江戸時代末の鼻山人の著書に、『花街鑑』(さとかがみ)、『花街寿々女』(さとすずめ)などがあるが、この花街(さと)とは吉原のことである。花街とは花柳の巷のことで、芸者町や遊廓のことを指していった言葉で、そうした社会を花柳界と呼んでいる。花柳という語は李白の「流夜郎贈辛判官」(夜郎に流されしとき辛判官に贈る)と題した漢詩の文句から取った言葉だという。

 その詩の冒頭に、次のようにある。

昔在長安醉花柳 五侯七貴同杯酒
(昔長安に在りて花柳に醉う
    五侯七貴杯酒を同じうす)

 花柳の花とは桃の花のことであり、五侯七貴とは皇后の実家の兄弟や家族のことである。

 唐の玄宗皇帝の時代、安禄山の乱の時、皇帝の子の永王李璘は揚子江方面で旗上げをして敗れた。李璘に仕えていた李白は連座して夜郎(貴州省)に流されることになった。夜郎とは、夜郎自大ということばがあるように当時の僻地だった。

 これは、辛という判官(官名)に贈った詩であるが、実際には、李白は夜郎に流される途中、大赦にあって許され、晩年は安徽省当塗県の県令をしていた親戚の李陽冰を頼って身を寄せ、そこで没した。享年六十二才だった。

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 戦後の東京の花柳界の話になるが、戦争中は食料や酒などが統制下にあって、おおっぴらには営業が出来ず、いわゆる裏口営業で、それが戦後も暫く続いた。その統制が解けて、料理飲食業が再開されたのは、確か昭和二十四年のことだった。

 その後、間もなく始まった朝鮮戦争の軍需景気で、日本経済は急速に回復するのだが、花柳界もそれに連れて忽ち往年の勢いをとり戻して行った。

 東をどりも復活、まり千代というスターが有名になり、鈴木美智子という映画女優がそのまり千代に憧れて新橋の芸者になった、という記事が新聞の紙面を賑わしたのは、昭和二十年代のことである。

 その昭和二十年代の後半から、新橋は東をどり、柳橋はみどり会、赤坂はみのり会、下谷はさくら会、芳町はくれない会、浅草は浅芽会というように、東京中の各花柳界の芸者の踊りの会が盛んに催されるようになった。

 世の中は、神武景気、いざよい景気などといわれた経済成長の真っ直中の昭和四十年頃には「三コ」という言葉が流行った。「三コ」というのは、「コ」のつく三つのこと、小唄と碁とゴルフのことで、この三つが出来ないと重役はつとまらない、といわれ、夫々大流行した。トップが小唄に熱中すれば、部下や取り引き先の連中も右へ倣えで、花柳界の宴会では今のカラオケのように、小唄が盛んに唄われた。

 その頃が花柳界のピークだったようだ。近頃では、花柳界はすっかり灯が消えたようになってしまった。花柳界が衰微した理由についてはいろいろ考えられるが、今は触れないで置く。

 戦前の花柳界の遊びについては知る由もなく、先人の話を聞いて得た知識でしかないが、吉原を除いて旧市内の花柳界では鳴物は禁止で、鳴物入りで遊ぶには、都心から離れた花街へ行かないと出来なかった。昭和三十年代の前半、古老のお供で下谷で遊んでいて、半玉に太鼓を叩かせて騒ごうということになって、亀戸に席を移したことがあった。

 大きな花街の宴会では、まず御座付きといって、大抵立方二人のちゃんとした段物の踊りが出る。それ程頻繁に顔を出した訳ではないが、赤坂の大きな料亭で、いつも御座付きが「吾妻八景」なので、常連の客から、「吾妻八景」しか出来ないのか、といわれて、「吉原雀」に代わったことがあった。

 昭和三十年代から四十年代にかけては小唄のブームだったから、宴も酣になると、今のカラオケさながらに次々と客が自慢の小唄を披露する。一昔前は小唄ではなく、ドドイツだったという。ドドイツは漢字で都々逸、都々一などとも書く。

 ドドイツには小唄などと違って、決まった節がなく、古老の通人達は遊びの中で自分流の節回しや唄い方を身につけて行ったようで、その点、師匠について習う小唄とは全く異なるので、小唄党にはどうもドドイツは苦手という者が多かった。

 要するに、どうやって覚えていいのか、わからないからである。それでいて、洒落た文句が沢山あるドドイツを事も無げに唄ってのける古老が羨ましくもあるのである。

 ある宴席で、古老の一人が、「では、ドドイツでも一つ、のろけますか」といったが、「のろける」という言葉が面白く、印象に残っている。

 ドドイツは幕末から明治にかけて、情歌とも呼ばれ、私蔵のドドイツ本には、情歌集と題したものもある。

 天保の頃から嘉永にかけて活躍した都々一坊扇歌(どどいつぼうせんか)という芸人があまりにも有名で、ドドイツはその扇歌が元祖と思われていたこともあったが、『都々一節根元集』という本が見つかり、今では、ドドイツは宮(名古屋)で生まれたということになっている。『都々一節根元集』は名古屋の雑学者として有名な小寺玉晁の書いたものである。『都々一節根元集』を取り上げて出版された名古屋の尾崎久弥氏の解説を要約して次に挙げる。

「寛政十二年(1800)頃、名古屋熱田の築出(つきだし)という、今の熱田伝馬町の東辺りに、鶏飯屋(けいはんや)という茶屋が出来た。

 鶏飯というと、鶏の炊き込みご飯のように聞こえるが、唐きびを煮た汁で飯を炊いた偽の鶏飯で、それに蜆汁がついた。それを給仕する女中達も大勢いて、酒を勧め、売春の相手もした。

 その女中達の中にお亀という者がいて、人気の的となり、いつかその店をお亀の店というようになった。このお亀の店は構えが広大で、築山など庭も凝った造りで、千客万来の大繁昌となったので、その付近には似たような店が多数出来て、そこで働く女中達の数も増えた。

 初めはそこの草分けの鶏飯屋の女中だったお亀という一人の女性の名が、次第に当時、同じような茶屋の女中達の一般的な名となり、享和二、三年(1802~1803)頃には、このお亀が宮の売笑的女性の惣名となった。

 築出の繁昌によって伝馬町も発展し、海岸に面した神戸(ごうど)町にも伝馬町にまさる遊女屋が続々と現われた。

 すなわち、宮の東海道筋船着き場に一番近い神戸町が第一等の遊廓地、東西筋の伝馬町が第二等、築出には例の茶屋が次第に遊女町のような様子を作りつつあって、この三カ所が宮に生まれたということである。

 そして、この神戸、伝馬町、築出の女性をすべて、お亀と称するようになった」(以上要約)

——この稿続く——-

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