第84話 『榎本其角(三)、『老の楽』』

 其角の俳諧の弟子は数多いが、二代目市川團十郎栢莚もその一人である。

 最初の千両役者は、元禄時代の有名な女形芳沢あやめといわれているが、栢莚は享保六年(1721)に二人目の千両役者となった。栢莚は又、正徳四年(1714)に初めて「助六」を演じた役者である。栢莚の父の元祖團十郎は、椎の本才麿の門下で俳号を才牛と云い、俳号を持った最初の役者だった。

 元祖團十郎は宝永元年(1704)に杉山半六という役者に刺されて横死したが、その時、栢莚は十七才だった。

 栢莚は『老の楽』という日記を残していて、それについては、この稿の初めにちょっと触れておいたが、その中に、

「我幼年の頃、始て吉原を見たる時、黒羽二重の三升の紋の単物振袖を着て、右の手を英一蝶にひかれ、左の手を晋其角にひかれて、日本堤を行し事、今に忘れず、この二人は世に名をひびかせたれど、今は亡き人也」

 とある。

 栢莚が幼い頃というのを五、六才の頃とすると、栢莚は元禄元年生まれであるから、元禄五、六年の頃となる。承応元年(1652)生まれの一蝶は四十一、二才。一蝶より九才年下の其角は三十二、三の頃である。

 実は、今伝わっている『老の楽』は山東京伝が抄録したもので、肝心の原本は失われてしまって完本を見ることは出来ないのである。

 この栢莚の幼い頃の思い出話は、その京伝の『老の楽抄』には載っていないのだが、斎藤彦麿という国学者が書いた『神代余波』(かみよのなごり)という本に出ているので、京伝が書き洩した『老の楽』の一部を知ることが出来るのである。『老の楽抄』には其角のことや其角の師である芭蕉のことも書いてあって、貴重な資料となっている。

 享保十九年(1734)五月十日の所に、

「漸之(せんし)は小野寺幸右衛門、貞佐物語。放水は岡野金右衛門九十郎事、右は貞佐門人の由。子葉は少いくびにて、いも顔也。ばせを(芭蕉)翁はうすいもあり。其角や嵐雪所へいくぞやと云、あいさつしづか成り。しゅしゃう成翁也」

 小野寺、岡野共、赤穂義士で子葉は前出の通り大高源吾の俳号。貞佐は其角門人の桑岡貞佐である。

 前回にも書いたが、其角と赤穂義士との交流は深く又、広範囲にわたっていたようだ。

 義士達の討入りの晩、吉良邸隣の土屋侯の屋敷で俳諧の会があり、其角は嵐雪とともに列席していたという。其角と義士達は余程縁があったのだろう。

「大高源吾は猪首で、いも顔だった。芭蕉はうすいもがあった」とある。いもというのは疱瘡(天然痘)の治癒した跡のアバタのことである。

 この時代、いもと云えば里芋のことで、さつま芋は青木昆陽が江戸で試作を始めたのが、この享保十九年で、じゃが芋も甲斐の代官中井清太夫が栽培を奨励したというのは明和(1764~1772)になってからのことで、いずれもまだ一般に普及してはいない。

 また疱瘡についてであるが、江戸時代を通じて日本人の死因の一位は天然痘だろうといわれている。飛騨の或る寺の江戸時代後期の過去帳に載っている死因の首位は疱瘡で、その内、六十九パーセントは乳幼児だったという。

 ジェンナーが種痘法に関する論文を発表したのは十八世紀末で、種痘は忽ちヨーロッパ中に広まって行った。日本に種痘法を伝えたのは中川五郎治という者で、明和五年(1768)奥州北郡川内村に生まれた五郎治は、択捉島で漁業を営み、ロシヤ語を学んで通詞となった。文化四年(1807)四月、その頃、度々蝦夷へ侵入してきたロシヤ人に捕えられ、五年の間、ロシヤ領に抑留されていたが、その間にロシヤ人医師の助手をつとめながら種痘法を習得した。文化九年(1812)六月、その前年に日本で捕えられたゴローニン等との交換で帰国した。

 ゴローニンはロシヤ海軍の中将で、文化三年にディアナ号の艦長となって、文化八年(1811)、国後島測量のため南下した時に日本に捕えられた。ロシヤはその報復として、翌文化九年に高田屋嘉兵衛等が乗った観世丸を国後沖で拿捕して、カムチャッカへ拉致したが、その高田屋嘉兵衛と中川五郎治とをゴローニンと交換することになったのである。(その間の経緯については省畧する)

 高田屋嘉兵衛は蝦夷地交易に活躍した廻船業者で、幕府より蝦夷地産物売捌方を命じられていた人物である。

 中川五郎治は文政四年(1821)より松前侯に仕え、文政七年以降の疱瘡流行に際して種痘を実施して、松前函館地方の多数の住民を救った。

 幕府が本格的に疱瘡対策に乗り出したのは、それより三十年近く後のことで、神田お玉ヶ池に伊東玄朴、大槻俊斎等によって種痘所が設立されたのは安政五年(1858)のことである。

 パリの人種博物館には第二次遣欧使節の池田筑後守一行三十五名の写真が残されているが、その中に十名近いアバタ面の人物の写真があるという。当時のフランスではアバタ面は既に珍しかったのだろう。

 幕末の写真に必ずといっていいほど出てくる、通弁御用出役の塩田三郎のポートレイトはその一枚である。塩田は通弁であるから、言葉に不自由はなかったと思われるが、やはりその風貌故にあまりモテなかったらしい。

『老の楽』に戻るが、享保二十年(1735)二月八日の所に、

「この朝、笠翁殿(小川破笠)見へ、しばらく芭蕉庵室の物語」として、「深川の芭蕉庵には、へっついが二つあって台所の柱に瓢箪が掛けてあり、その中に米が入っている。米は二升四合程入り、無くなってくると、杉風、千鱗等の弟子が又、足して置いた。たまたま弟子達の補給が遅れて米が無くなると、翁自身で米を買いに行った(要約)」

 とある。

 その頃、破笠は二十三、四才とあるから、貞享三、四年(1685~1686)の頃だろうか。芭蕉翁は四十前後とあるが、四十二、三である。

 その時分、破笠も嵐雪も道楽者で、てりふり町の足駄屋の裏の其角の所に二人とも居候していたことは前に書いたが、

「其角翁の所に、出居衆に笠翁は居られ、嵐雪もかかりとにて、三人居られ候よし、嵐雪なども俳情の外は、翁(芭蕉)をはづし逃など致候よし、殊の外気がつまり、おもしろからぬ故也と。とかく翁は徳の高き人也」

 とある。

 芭蕉が生真面目な人物で気づまりだったという。この記事は『老の楽』の中でもよく知られている所である。文中の、出居衆、かかりと(掛かり人)共に、食客、居候のことである。

 芭蕉は元禄七年(1694)五月に江戸を立って行脚の旅に出た。伊賀に滞在中、支考、惟然の来訪を受け、九月八日に出立して、奈良を経て大坂へ入ったが、二十九日の夜より泄痢、病床についた。

「旅に病むで夢は枯野をかけ廻る」の一句を最後の吟として、十月十二日申の刻、御堂前の花屋仁佐衛門の裏座敷で死んだ。享年五十一才だった。

 同じ元禄七年、其角は二度目の上方旅行に出ていた。堺から大坂へ出て、芭蕉が花屋に病んでいること知った其角は、直に花屋に駆けつけて、師と最後の対面を果たすことが出来た。

 この稿の最初に挙げた『蕉門の人々』という本の「其角」の結びの所に、次のようにある。

「平素さのみ遊行を事とするでもない其角がたまたま関西の地にあったために、芭蕉の臨終に間に合ったという事は、偶然のようであって偶然でない。焦門第一の逸材であり、最も古い弟子でもある其角と、「夢は枯野をかけ廻る」旅の空で最後の対面が出来たのは芭蕉に取っても大なる満足であったに相違ない。芭蕉と其角との因縁は意外に深かったのである。」

 其角はその時、三十四才。

 その十三年後の宝永四年(1707)に其角は死んだ。享年四十七才。師よりも短い人生だった。
 (完)

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