第83話 『榎本其角(二)、聞句』

 向井去来の『去来抄』に、其角の「饅頭で人を尋ねよ山ざくら」という句を評した一節がある。

 森川許六が、

「これは謎といふ句なり」

といったのに対して、去来は、

「これは謎にもせよ、いひおほせずといふ句なり」

として、

「饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよといへる事を、我一人合点したる句なり」

といっている。

 この其角の句は難解な句の一つで、他にもいくつか別な解釈もあるが、主題から逸脱してしまうので、今は触れないで置く。

 去来は、更に、

「昔、聞句(ききく)といふものあり。それは句の切様(きりよう)、或は、てにはのあやを以て聞ゆる句なり。この句はその類にもあらず」

 といっている。

 この稿を書くに当たって目を通した、小学館の『日本古典文学全集』の「連歌論集、能楽論集、俳論集」の『去来抄』の注には、聞句について、宝暦九年(1759)刊の『俳諧名目抄』より次の文を引用している。

「是は謎の句にて、思惟すればよく聞ゆるなり。聞発句ともいへり。

闇の夜は松原ばかり月夜かな

嗅ぎてみよ何の香もなし梅の花

 などといふ類なり」

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 ここに、例の「やみの夜は松原ばかり月夜かな」の句が出ている。

 とすると、其角の「やみの夜は」の句も聞句で、先に去来がいっているように、

「句の切様、てには(てにをは)のあやを以て聞ゆる句」

という事になり、露伴の解釈が妥当性を帯びてくる。

 江戸時代の人々は、日の出と共に起き、日が暮れると早々に寝床に入るという生活だった。暦は太陰暦で、月に対する信仰も厚く、十三夜、十五夜等々、様々な月の祭事もあって、現代人の我々よりもはるかに月と密接な関係にあった。江戸人は月の形を見ただけで、今夜が何日か、わかったという。

 燈油は高価だったので、行燈の油に魚油を使う家もあった。その魚油の行燈の火で煙草を吸いつけると生臭いので、煙管を吸う時には、一度別なものに火を移して、その火を使ったというが、こうしたことから見て、江戸人の燈油の使い方はかなりシビアであったと思われる。

 従って、明るい月夜に灯りを明々と点す家はなかっただろうから、其角の「やみの夜は」の句の解釈は露伴の説の方が正しいといえそうである。

 こんな風にあれこれ考えてくると、もしかして、これらはすべて其角の計算通りで、やっとわかったか、と陰でほくそ笑む其角の姿が目に浮かぶような気さえする。

『俳諧名目抄』からの引用句、「嗅ぎてみよ何の香もなし梅の花」とはどういう意味か分かりにくいと思うが、梅の花の香にくらべれば他の花の香りなどは無いに等しいというのである。

 聞句について、もう少し知りたいと思っていろいろ調べたところ、復本一郎著の『笑いと謎』という本の中に、「謎の句」という章があって、聞句について更に詳しい説明が載っていた。その中に、貞門派の俳人、山岡元隣が寛文二年(1662)に書いた『俳諧小式』という未翻刻の書からの「聞き発句の事」と題した引用文が出ている。

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 新しい聞句の例と、その解釈もついているので、そのところを又引きさせて貰うと、

「やみの夜は松原ばかり月夜哉

 涼風は川はた斗(ばかり)あつさ哉

 五月雨ハ山路斗や水ひたし

 右やミの夜は松ばら斗にて残る世界は皆月夜也と松原のしげりたると月の光の明なるとを云たてたる也残二句も此心を以て聞は明也其外

 かいで見よ何の香もなし梅の花

 此花にかぎくらぶれバ万花香なしと也

 しら鷺の巣だちの後ハからす哉

 巣がからになると也

 二人行ひとりハぬれぬしぐれ哉

 二人ながらぬるるといふ心也」

 其角には、いくつか有名なエピソードが伝わっている。

 向島の三囲(みめぐり)で、雨乞いの句を詠んで雨が降ったというのもその一つで、句は、

 夕立や田をみめぐりの神ならば

 で、今もその句を刻んだ石碑が三囲神社にある。

 其角が俳諧を通じて赤穂義士と親しかったことは知られている。赤穂義士の一人、大高源吾は笹売りに扮して吉良邸の様子を探っていたが、その源吾と討入りの前夜、両国橋の上でばったり出会った其角は、何も知らずに、

 年の瀬や水の流れと人の身は

 と詠んで、後をつけるように促すと、源吾は、

 明日待たるるその宝船

 と後の句をつけたという話は、講談や浪曲でもお馴染みである。

 俳諧をたしなむ義士達の中で、特に大高源吾と萱野三平が秀れていたといわれている。大高源吾は子葉、萱野三平は涓泉と号した。その他、其角は、富森助右衛門の春帆や神崎与五郎の竹平とも親しかったようで、吉良邸討入りの翌年、元禄十三年(1703)二月四日、義士達が切腹した時に、

うぐひすに此芥子酢はなみだかな

 と詠んでいる。

 前出の『蕉門の人々』に、其角の『類柑(るいこうじ)文集』の「松の塵」という文が出ているが、それによると、

「元禄十六年七月十三日、其角は上行寺の盆に詣でての帰りに、伊皿子坂を降って泉岳寺の門前に出た。
 折しも赤穂義士達の新盆に当たると思うと子葉、春帆、竹平等の面影が目のあたりに浮かび、彼らの墓にお詣りして、花や水を手向けようとしたが、墓は参詣禁止だった(要約)」

 とある。以下、原文。

「墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたることを手向草になして、亡魂聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り」

 どうやら、その時の泉岳寺は一般人の参詣を許さなかったようで、後には義士の墓所として有名になった泉岳寺が、当時、草ぼうぼうだったというのも興味深い話である。

 其角の文に、上行寺からの帰途、とあるので、泉岳寺の近辺を切絵図で調べてみると二本榎通りの品川寄りに上行寺の名がある。高輪台の上の二本榎通りは古い道で、江戸以前は奥州街道と通じていたという。今の地図でどの辺りになるかと探してみたが、上行寺は既になくなっていた。

 しかし、上行寺の手前(三田寄り)隣にあった円真寺、黄梅院は、現存しているので、上行寺がその向こう隣にあったことは間違いない。伊皿子坂上から、二本榎通りを品川方面へ向かって行った右側、現在、高輪警察署がある交差点の近くである。

『江戸名所図会』の巻三をみると、英一蝶の墓がある承教寺(じょうきょうじ)の項に続いて、「宝晋斎其角翁の墓」と題して、

「同じ向こう側、上行寺といへる日蓮宗の寺境にあり」

 と出ている。「同じ向こう側」というのは、前項に出ている承教寺の向こう側ということで、承教寺という寺も現存していて、上行寺とは二本榎通りを挟んで反対側、黄梅院の斜め前辺りにある。

 上行寺は其角家の菩提寺で、基角はお盆の墓参りの帰りに伊皿子坂上から坂を下って泉岳寺の門前に出たのである。
                   ――この稿、続く――
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