第82話 『榎本其角(一)、「やみの夜」の唄』

 歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」で、揚巻が花道から登場する時に、下座が「やみの夜に吉原ばかり月夜かな」という唄を演奏する。

 この唄の文句は其角の句である。句はやみ夜の句で、世間一般はやみ夜なのに、吉原ばかりは灯りが煌々とついていて、あたかも月夜のようだ、というのが普通の解釈である。

 この其角の句は彼の『五元集』という句集に載っている作品で、その『五元集』では前出の句は、「やみの夜は吉原ばかり月夜かな」となっている。下座唄では「やみの夜に」とあるところが、「やみの夜は」となっていて、「に」と「は」が一字違っているのである。

 いま仮に、「やみの夜に」とある下座唄の方の句をA とし、「やみの夜は」となっている『五元集』の方をB とする。「やみの夜も」と出ている本もあるが、これはA’と考えて頂きたい。AやA’では、この句は完全にやみ夜の句であって、動かし難いが、Bとなると、別な解釈も出来るのである。

 それを云い出したのは幸田露伴で、露伴にいわせると、其角がそんなありふれた句を詠む筈が無い、というのである。露伴の解釈は、これは月夜の句であって、灯りをともす必要もない程、明るい月夜なのに、吉原ばかりはあたかもやみ夜のように煌々と灯りをつけている、ということで、AやA’とは全く正反対の意味になる。

 つまり、「やみの夜は」で切り、「吉原ばかり月夜かな」とすれば、Bの解釈もAやA’と同じになるが、「やみの夜は吉原ばかり」で切ると、「月夜かな」で月夜の句になってしまうのである。

 これが、「に」と「は」のたった一字の違いで生ずるのだから、「てにをは」の使い方は恐ろしい。

 この其角の句については、古句に「やみの夜は松原ばかり月夜かな」という句があり、それをふまえて其角が詠んだともいわれているようだ。この句は月夜の句で、世間一般は月夜で明るいのに、松原ばかりは繁った枝が月光を遮ってしまうので、中はやみの夜である、という解釈で、その反対は成り立たない。つまり、「やみの夜は松原ばかり/月夜かな」であって、「やみの夜は/松原ばかり月夜かな」では意味が通らない訳である。

 其角について人名事典には、榎本其角で載っているものと、宝井其角で出ているものとある。手許にある文化十三年(1816)板の『俳家奇人談』には榎本其角とあり、次のように出ている。

「榎本(母方の姓、後改姓宝井)其角は、竹下東順が子なり。いまだ源助たりし時は、神田お玉が池に住せり。儒を寛斎先生の学び、医を草刈何某、詩を大巓和尚、書を左玄竜、画を英一蝶に伝はりて、多能なり。いつの頃よりか蕉門に入りてその冠首(かしら)たり [中畧] その性(うまれつき)たるや、放逸(やりばなし)にして人事にかかはらず、常に酒を飲んでその醒めたるを見る事なし [以下畧] 」

 儒を学んだ寛斎先生とは服部寛斎のことである。

 山東京伝の『近世奇跡考』に「榎本其角の伝」が載っているが、それによると、其角が生まれたのは寛文元年丑年七月十七日で、没したのは宝永四年丁亥二月晦日、享年四十七、二本榎上行寺に葬る、とあり、芭蕉の弟子となったのは延宝の初め、十四、五才の頃としている。
 柴田宵曲著の『蕉門の人々』には、其角が芭蕉の門人になったのは延宝二年だということになっている、とある。時に芭蕉三十一才、其角は十四才であり、芭蕉はまだ蕉風確立以前のことである。

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 芭蕉が、「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪有」として、

「両の手に桃と桜や草の餅」

 と詠んだことはよく知られているが、それを元禄五年、芭蕉四十九才、其角三十二才の時のこととしている。(『蕉門の人々』)

 芭蕉の数多い弟子の中で、蕉門の十哲といって、次の十名が有名だが、其角と嵐雪はそのトップに挙がっている。榎本其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草、各務支考、森川許六、志田野坡、越智越人、杉山杉風、立花北枝の十名である。

 『蕉門の人々』の「嵐雪」の冒頭に、

「蕉門の高弟を談ずる者は、何人も先ず其角、嵐雪に指を屈する。後世の評価がそうなっているばかりではない。当時の相場もやはり同様であったらしい模様である」

 とある。

 其角について、先の『俳家奇人談』には、蕉門に入りてその冠首たり、とあったが、最後の所に、

 「後人あるひは思へらく、晋子調、師翁ニ異ナリと。コトニ離レテ合フコトヲ知ラザルなり。けだし支考、許六の輩、議論多くその作思ひを焦し、奇を索むといへども、蕉翁の条鴨、晋子が自放なるに及ばざる事や遠し」

 と、「榎本其角」の項を結んでいる。晋子とは其角のことで、其角は晋其角、宝晋斎、雷柱子、渉川などの号を名乗った。

 其角の句は難解でわかりにくい。それについて、『蕉門の人々』では、次のようにいっている。

 「其角の句が難解であるについては、いろいろな理由が挙げられている。彼は都会詩人の通有性として、悠久な自然よりも、うつろいやすい人事の上に興味を持っていたため、その句にも人事を材としたものが多い。当時なら容易にわかる事柄でも、時代を隔てればわからなくなるというのもその一である」

 「其角は雑学で、それを自家薬籠中のものとして活用しているので、その典拠を突止めないとわからないものが多い。又、その表現の仕方もストレートではなく、巧に種を伏せて、すました顔をしているのも、彼の句を難解にしている理由の一つ(この文のみ要約)」

 「彼のピッチングは変化自在である。直球的写生句にのみ慣れた今の人々が、彼を向うに廻しては、その球に翻弄されて、打ちこなし得ないにきまっている」

 貞享中(1684~1687)、其角は照降町(てりふりちょう)へ転居して、嵐雪、小川破笠と一緒に住んだ。下駄屋の裏の家だったと『近世奇跡考』にある。嵐雪と破笠が其角の所に居候していたのだが、大変な貧乏暮らしで夜具もなかったという。そのことは二代目團十郎栢莚の日記『老の楽』に、破笠の話として出ている。

 小川破笠は、『俳家奇人談』に、「小川平助は江戸の人、性多能にして、画と細工とに長ぜり。俳名宗宇、はじめ露言に従ひ、後蕉門に遊ぶ(以下畧)」と載っている。画は英一蝶の弟子と伝えられている。細工とは蒔絵などの嵌細工で、晩年笠翁と号し、「笠翁細工」として名高い。露言とは福田露言のことである。

 若い頃の破笠は道楽者で親族から疎まれ、放浪生活を送ったようだ。破笠は寛文三年(1663)生まれで、其角より二才年下である。

 一方、嵐雪は其角より七才年長で、貞享の頃といえば、嵐雪は三十代の前半、其角は二十四、五で、破笠は二十二、三ということになる。

 照降町というのは、堀江町三丁目と四丁目の境の通りの俗稱で、道の両側に雪踏(せった)屋と下駄屋が軒を並べていたので、そう呼ばれていた。(今の日本橋小網町と小舟町の一部)つまり、雪踏屋は晴れていないと商売に障る。反対に、下駄屋は雨が降った方が品物が売れる。それで、照降町といったのである。

 其角は、『近世奇跡考』によると、元禄三年(1690)には転居しているので、三人の照降町暮らしは、三、四年くらいの期間だったと思われる。其角は宝永四年(1707)二月二十九日、茅場町の草庵で死んだ。享年、四十七才。嵐雪も同じ年の十月十三日に没している。五十四才だった。

 破笠は、『俳家奇人談』には、「老後志なほりて、津軽家へ召出され食禄を得たり」とある。五十前後のことといわれているようだから正徳の頃だろうか。その後は津軽家お抱えの嵌工として立派な作品を残している。小川破笠は、八十五才まで生きて、延享四年(1747)に死んだ。                        
(続く)

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