第81話 『荻江節の作曲者(三)、「松竹梅」他』

 お直が荻江節をやっていたということは、当然その作曲にも関わっていたと思われる。清元の名人といわれた太兵衛も存命中(安政二年没)で、清元全盛の時代、その代表曲ともいうべき「北州」、「梅の春」の作曲者としてのお直の技量を花柳園山三郎が黙って放って置く訳がない。

 そこで、そのお直が節付けしたとすれば、当然名曲であろうし、名曲であれば現在も残っている可能性が高い。そう考えて、すぐ思い浮かぶのは「松竹梅」である。荻江節に「松竹梅」という曲はなく、「松」、「竹」、「梅」の三曲を総稱して「松竹梅」といっている。

 三曲はいずれも小曲だが、「松」は三下りでいかにも松らしく、品があって重厚に、「竹」は二上りで竹らしくすんなりと、又「梅」は三下りから本調子で、梅らしくちょっと色気を感じさせる手付けになっている。三曲とも夫々にそれらしく、実にうまく出来ていて、作曲者の凡庸でない手腕が窺える。「松竹梅」がお直の作曲だという証拠はない。又そのような云い伝えもない。

 お直が清元の「北州」と「梅の春」を作曲したというのも云い伝えだけで、有名な忍頂寺務著の『清元研究』では、「北州」についてはそのままお直の作曲としているが、「梅の春」については、文献が無かったとして、次のような清元延益きぬ師の談が出ている。

「私は餘り専断のやうなれど、北州も梅の春も同じ人の作曲であらうかと思ひます。北州には、「あら玉の霞の衣えもん坂」といふ句を二つに分けて、新玉といふ枕辞を上の句につけて、霞の衣から唄ひ出すやうに節付けがしてあります。これは多分新玉といふ枕辞うを付けて唄へば浄瑠璃がダレて感じが悪いからでありませう。又梅の春の方は「若布かるてふ春景色」といふ句を、反対に若布かるてふで切て、春景色を下の句へ付けてあります。唯若布かるてふでは辞の結びが付かないから、三味線の手で結びを付て置て、更に誘ひ出しの手で如何にも賑々敷春景色から陽気に唄ふ様に節付がしてあります。実に言ふに言はれね妙味があるではありませんか。結局両方とも同じ趣向で中々人の及びも付かぬ名案であるから、同じ人の節付けであらうと推測致します」

 これに続いて、島田筑波氏が最近(昭和五年頃)、雑誌『郊外』に大槻如電夫人が、「梅の春」は川口お直の作曲である、と清元延津賀から聞いているという話を発表されたと出ている。

 荻江の「松竹梅」に話を戻すが、私のような者が聞いても実にうまく出来ていて、特に松竹梅の夫々の個性を巧みに表現し分ける技量は並外れていると思う。清元「梅の春」に於ける清元延益きぬ師のような専門家の分析が聞きたいものだ。

 以上が荻江の「松竹梅」をお直の作曲とする私の推測のすべてである。

 引用した『清元研究』の記事について補足しておくと、大槻如電夫人のことは知らないが、如電(弘化二年生まれ、昭和六年没。享年八十七才)は、幕末明治の洋学者で砲術家の大槻磐渓の長男で、和洋漢の諸学をはじめ芸能にまで通じていた学者として著名だった。

 清元延津賀については前章でも触れたが、『延寿芸談』によると、お直の死後、吉原の仁輪賀の作曲をしたり、大名屋敷へ招かれたりしていた。弟子も三代目延寿太夫になった藤田屋繁次郎等、立派な弟子が八十人もいたという。しかし、明治の初年に延津賀はリュウマチに罹り三味線が持てなくなり、それを苦に世をはかなんで、明治十一年一月十七日に吾妻橋から隅田川へ身を投げて死んだ。延津賀の墓は北千住の蓮城寺にあるという。

 次に、同じく荻江の「稲舟」であるが、この曲も素性がいまいちはっきりしない。山東京伝の『江戸生艷気樺焼』に、メリヤスの題名をずらっと並べた所が出てくるが、その中に「いなふね」がある。

 しかし、「いなふね」という題名だけで文句が出ていないので、現存の「稲舟」と同じ曲なのか、どうか、分からない。歌詞が同じであれば、めりやすである可能性が高いが、今の所、「いなふね」というメリヤスの文句は見つかっていない。

 現存の「稲舟」は、夜もすがら恋しい男のことを思い続けて寐もやらぬ女心を詠い込んだ情緒纏綿たるもので、曲趣からしてそう古いものとは思えない。なにか歌沢的な雰囲気さえ感じさせる唄である。この「稲舟」をとりあげたのには訳がある。

 それは、「稲舟」の「ねてもねられぬ床の内」という文句の後にある合の手で、この手が「荻の流」の「曙や 蓮にたもちし露の身の エエ憎しい夜嵐に」の後の合の手と、比較的長い手なのだが、最初の部分が全くといってよい程、同じなのである。

 これは作曲者が同一人であるとも考えられるが、或いは単に偶然だったのかもしれない。私の推論を先にいってしまうと、「稲舟」は花柳園山三郎の作詞ではなかったかと思うのである。

 この稿の初めに、「荻の流」は花柳園山三郎一周忌の追善曲と推定した。

図(筆者蔵)は、安政五年(1858)の吉原仁輪賀(仁和賀、仁輪加などとも書く)の番組中の荻江連中の出し物、「花柳春日廼神楽(はなやぐや かすがのかみがく)という曲の歌詞の冒頭の部分

ここに掲げた図(筆者蔵)は、安政五年(1858)の吉原仁輪賀(仁和賀、仁輪加などとも書く)の番組中の荻江連中の出し物、「花柳春日廼神楽(はなやぐや かすがのかみがく)という曲の歌詞の冒頭の部分である。

「荻江嗣流 山田清樹曲節」とある山田清樹とは花柳園山三郎のことで、『安政文雅人名録』に、「心法清樹 名直温字楽道 号好文堂又歌山堂 新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎」と載っていることは前に書いた。(『せんすのある話』第十三章)

「山田清樹曲節」とあるが、山三郎が実際に節付けしたとは考えにくい。しかし、彼は文才もあったようであるから、作詞はやったに違いないだろう。

 持って廻った云い方をしたが、「稲舟」は山三郎の作詞で、吉原などでは比較的よく唄われていたので、作曲者(誰だか分からないが)が山三郎の一周忌の追善曲にその一部(合の手)をとり入れたのではないか、と思うのである。

 そうなると、花柳園山三郎が死んだのは万延元年であるから、「荻の流」はその翌年、文久元年に作られたものとなる。

 以上述べてきたことは殆ど推測であって、確たる裏付けに乏しい。近いうちに新事実が発見できることを期待しつつ、この稿を終える。

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