第7話 『吉原恋の道引』と三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)

菱川師宣作、『吉原恋の道引』

図は延宝六年(1678)刊の『吉原恋の道引』の挿画の一部である。

『吉原恋の道引』は、吉原通いの道筋から途中の舟賃や馬の駄賃、遊女の種類まで、事細かに記した延宝時代の吉原の案内書である。

署名はないが、同年に同じ版元から同じ体裁で出版された『古今役者物かたり』(歌舞伎芝居の案内書)と共に、菱川師宣の作といわれている。文化年間の『墨水消夏録』には「菱川師宣が恋の道引に云」とあって『吉原恋の道引』の文を引用している。
  延宝六年(1678)刊の『吉原恋の道引』の挿画の一部

菱川師宣(?~1699)は千葉県内房の保田の生まれで、浮世絵の祖といわれている画家である。(現在、保田に菱川師宣記念館が建っている)作品としては、記念切手にもなった『見返り美人図』(肉筆)が有名だ。

三田村鳶魚

さて、挿画だが、二人の男女が跪いているのは浅草観音堂の前である。男が前に扇を広げて拝んでいるのが、何とも奇妙に映る。昔はこんな扇の使い方をしたのか、不思議に思っていたが、三田村鳶魚の輪講を見てわかった。

江戸に興味を持つ人で三田村鳶魚を知らない人はまずいないだろう。三田村鳶魚は明治三年(1870)、八王子の千人同心の子として生まれ、昭和二十七年(1952)八十二歳で亡くなった江戸の研究家だ。

鳶魚の著作集としては、中央公論から『三田村鳶魚全集』が出ている。古文書等の一次史料重視の学者からは、随筆などを自在に使いわける鳶魚のやり方は、とるに足らぬものとして軽視されていたようだ。又、出典を明らかにしないとか、いった批判もあったようだが、最近再評価されて、種々の本が出版されている。

鳶魚の輪講は、大正九年の『五元集』が最初だというが、江戸文学を題材として、亡くなる少し前まで数多く行われている。(中でも『西鶴輪講』は有名)輪講の出席者は鳶魚を除いて一定しないが、山中共古、三村竹清をはじめ、いずれも錚々たるメンバーである。

本格的な論講は大正十五年四月の『彗星』という雑誌の創刊と共に始まったようだ。(創刊号には、狂言『茶壺』の輪講が載っている。以後、毎号同誌に掲載)

古い風習

昭和三年の輪講で、『吉原恋の道引』が取り上げられている。その中で、鳶魚は私と同じような疑問を持ったらしく、

「この画を見ると、お扇子を前に置いて、こうやっているが、どういうもんでしょう」

といっている。

それに対して、出席者の一人の林若樹が、

「狂言では神社へ参拝する時に、こういう型をやります」

と型を示して

「現に大正六年に京都の平野神社でそうやっている人を見た」

といっている。又、狂言ではやるが能の方にはなく、狂言でも女はやらない、という。(同じく、林若樹談)

図でも女性の方はやっていない。今はもう見られなくなってしまった興味深い風習だ。

林若樹は、『彗星』の創刊号の『茶壺』の輪講にも出席しているが、大蔵流の狂言を山本東、山本東次郎について学んだ人で、狂言に関して造詣の深い人だったようだ。

時代考証

鳶魚のごくポピュラーな著作としては『大衆小説評判記』(昭和八年)と『時代小説評判記』(昭和十四年)がある。鳶魚はその中で、吉川英治や大佛次郎、島崎藤村といった著名作家の時代物の作品を槍玉にあげて、いかに時代考証がなっていないかを明らかにしている。かなり鋭い筆鋒で、後になって、やり過ぎたか、と感想を洩らしていたという。

しかし、それが契機となって、時代物を書く作家たちが集まって鳶魚を呼んで話を聞く勉強会が出来た。満月会という。昭和十二年のことである。満月会は昭和十八年に消滅したが、戦後の昭和二十四年(鳶魚、満七十九歳)に同様の趣旨で矢立会が出来る。これには、経済的に困窮している鳶魚を助ける意図もあったようだ。

矢立会の会員の一人、確か土師清二だったと思うが、

「鳶魚の話によると、武士の門限というものは非常に厳格なもので、外泊は勿論、門限を過ぎた夜中に巷を徘徊(はいかい)することなどあり得ない、というのだが、夜中に武士が町を歩いていないと時代小説にならない」

と書いているのを見て、思わず笑ってしまったことがある。

このごろの時代物の映画やドラマを見ていると、筆者でさえ、随分可笑しいと思うことが多い。鳶魚翁が生きていたら、何というだろう。

鳶魚の墓について、最近訊かれたので、この稿の終わりに書いて置くことにする。墓は八王子の本立寺(八王子市上野町十一の一)にある。

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