第79話 『荻江節の作曲者(一)、「六歌仙」』

 荻江節については何度か取りあげて来たので、委しいことは『せんすのある話』の「荻江節」、「荻江節拾遺」の章を見て戴きたい。荻江節の現存曲は、新曲や既に曲節の失われた古い曲の歌詞に新たに節付けしたものなどを除くと、二十三曲が伝わっている。

 これらを大別すると、次の三種類に分類できる。

 (一)、荻江節のルーツである長唄系のもの。

 (二)、天保の末年頃から、吉原の玉屋という大店に妓楼の主人、玉屋山三郎が吉原のはやり唄を作る運動を始めて、地唄をとり入れて作った地唄系のもの。玉屋の主は代々山三郎を名乗ったが、この山三郎は本名を山田清樹と云い、花柳園と号した。

 (三)、前記の(一)、(二)以外の荻江節独自の曲。

 江戸時代にはまだ荻江節というものはなく、花柳園山三郎も荻江連中というものをこしらえて活動したが、それを荻江節とはいっていない。ただ、自作の唄本には「荻江嗣流」と書いている。荻江節となったのは、明治に入って飯島喜左衛門が四代目荻江露友を襲名して荻江節の家元となってからである。

 花柳園山三郎は、地唄系以外の曲も荻江連中のために作っている。勿論、節付けは誰かにやらせたのだろうが、作曲者は不明である。四代目露友となった飯島喜左衛門は深川北川町の豪商で近江屋といったので、俗に近喜と呼ばれていた。近喜が四代目露友を襲名した経緯についてはよく分かっていない。

 明治九年に襲名した時のお披きの曲が「四季の栄」といわれている。又、深川と由縁があることから「深川八景」も四代目露友の時代に出来た曲という。こうした荻江独自の曲が(三)の種類になる訳だが、云い方を変えると、比較的はっきりしている長唄系、地唄系のものを除いた残りがすべて(三)ということになる。

 現存曲の(一)類の中に、「喜撰」と「小町」という曲がある。曲名から、すぐ六歌仙の唄と分かる。『荻江節考』(竹内道敬著)の曲目解説を見ると、京都大学文学部の穎原文庫に『六歌仙』というめりやす本があるとして、その表紙の写真が出ている。

 私は古本市には今でもよく行く方である。特にこれというアテがなくても顔を出す。現役で働いていた頃にはなかなか行く暇がなかったが、経済的にはある程度余裕があったので、比較的高価な古書を求めることもあった。今は逆で、時間に余裕はできたが、欲しい本があっても我慢せざるを得ないことが多くなった。

 最近、ある古書市で、この頃では珍しく長唄の正本類が山積みになっているのを見た。早速、中を調べて何冊か選んで買ってきたが、その中に、めりやす『六歌仙』があった。下図は、その表紙であるが、『荻江節考』に出ているものと正に同じものである。

めりやす『六歌仙』の表紙

 荻江露友と並んで出ている杵屋扇頂について、『荻江節考』では「未詳」となっているが、初代の杵屋弥十郎のことで、扇頂は弥十郎の俳号である。初代杵屋弥十郎は杵屋新右衛門の門弟の三味線方で、前名を弥七といった。

 弥十郎の師の杵屋新右衛門は、『長唄系譜』によると、作曲の名人と載っている。延享元年(1744)市村座の「高尾懺悔」初演の時、新右衛門は立三味線を勤めているので、「高尾懺悔」は新右衛門の節付けかもしれない。

 弥七が弥十郎となったのは寛延元年(1748)で、宝暦年間に活躍、大ざつま、めりやすに秀でていた、という。手許にある資料では、宝暦元年(1751)市村座で二代目團十郎が「鳴神」を演じた時、大ざつまの立三味線に弥十郎の名がある。『長唄系譜』では、弥十郎は新右衛門の門弟で名人だった、としている。

 さて、『六歌仙』だが、その表紙に並んで出ている露友と扇頂の名の上に、「故」とあるので、この正本が出板されたのは二人の没後だということである。初代露友の没年は天明七年(1787)というが、弥十郎扇頂の没年は不明である。二代目弥十郎を初代杵屋巳太郎が襲名したのは天明三年(1783)というから、『六歌仙』の刊行は天明七年以降となる。

 めりやす『六歌仙』の歌詞は、遍照、小町、黒主、康秀、業平、喜撰(唄本は喜選となっている)の順に六曲が載っている。現行の「小町」と「喜撰」の文句は、『六歌仙』のものとほとんど同じであることから、これが元の唄であったことが分かる、と『荻江節考』に出ている。『六歌仙』の六曲のうち、どれとどれを露友と扇頂が夫々作曲したのかは分からないが、少なくとも「小町」と「喜撰」は露友が作曲したので荻江に残ったと思われる。

 荻江節の現行曲、「小町」と「喜撰」については以上で終わる。歌詞に、「荻の流れ」という曲についてであるが、この曲と荻江の入門曲である「短夜」と、荻江節には二曲の追善曲が残っている。

 次に、「短夜」には「行く月さへも夏の月」とか、「去年(こぞ)の心を啼くほととぎす」、又「荻の流れ」には「去年の心を今ここに、うつす流れに夏の月」とあって、いずれも夏の頃に他界した故人の一周忌に作られたものと分かるが、故人の名は不明である。「荻の流れ」は初代露友の追善曲と云われてきたが、『荻江節考』では、「短夜」、「荻の流れ」とも、曲趣からみて幕末に作られたものではないか、としている。

「短夜」は普通の追善曲だが、「荻の流れ」の方は、最後のところに、「好める人の植置きし、蓮の浮葉の青々と、栄えをみよや、花のうてなに」とあって、確かに、何か荻江節の家元的人物を想像させる文句で結ばれている。その故人が初代の荻江露友でないとすると、考えられるのは、四代目露友か、荻江の中興に力を尽くした花柳園山三郎のどちらかである。

 花柳園山三郎の没年は不明だったが、故川崎市蔵先生が晋永機の『万延年中京上がり日記』の中に、永機が旅先で花柳園山三郎の訃報に接した記事を見付けられ、その忌日が万延元年六月二十五日と判明した。四代目露友が死んだのは明治十七年六月十日(二十三日とも)で、二人とも陰暦、太陽暦の相違はあるが、歌詞の夏という季節に合っているので、これからだけでは判別できない。

 四代目露友については前にも書いたように不明なことが多いのだが、晩年についても、曾て大金持ちで金に不自由しなかった頃の浪費癖がやまず、米沢町の自宅も手放し、太鼓持ちになったという説もある程で、かなり落魄れた状態になっていたことは確かなようである。
 四代目露友の死後、未亡人のいくは柳橋で「守竹家」という芸者置屋を営みながら、自分も政吉という昔の名で左褄をとる傍ら、荻江を教えていたという。そんな状態で、いくが亡夫のために「荻の流れ」のような曲を作って一周忌の法要を催したとは考えにくい。

 という訳で、私は「荻の流れ」は花柳園山三郎の追善曲ではないかと思っているのだが、どうだろうか。

 もう一つの追善曲「短夜」だが、確かに荻江に関係ある人物のために作られたものに違いない。そこで、ふと頭に浮かんだのは川口お直だった。

 お直が花柳園山三郎の荻江の運動に加わっていたことを『藤岡屋日記』の中で発見して『せんすのある話』に書いておいたが、「短夜」の曲趣から何となく女性的な印象を受け、もしかしたらお直の追善曲ではないかと思ったのだが、お直がなくなったのは弘化二年(1845)十一月二十六日で、残念ながら夏ではなく、私の見込み違いだった。お直と荻江の関係については、次回に触れることにしたい。

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