第78話 『梅花譜(二)、梅屋敷と百花園』

 江戸時代、江戸で梅の名所として有名だったのは亀戸の梅屋舗である。

 亀戸の百姓、喜右衛門という者の宅地内に見事な梅林があり、俗に梅屋舗と呼んでいた。場所は亀戸天神の東北四丁(三丁とも)程のところで、梅林の中に臥竜梅という名木があった。臥竜梅と命名したのは水戸光圀というから、かなり古くからあったようだ。

 享保九年(1724)、徳川吉宗が狩猟の途中に立ち寄って賞美し、代継梅と名付けたという話も残っている。『江戸名所図会』には、臥竜梅について、

「その花一品にして重弁潔白なり。薫香至って深く、形状宛も竜の蟠り臥すが如し。園中四方数十丈が間に蔓りて、梢高からず。枝毎に半ばは地中に入り、地中を出でて枝茎を生じ、何を幹ともわきてしりがたし。しかも屈曲ありて自からその勢を彰す。仍って臥竜の号ありといへり」

 とある。

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 この臥竜梅は歌川広重が『名所江戸百景』の中で、『亀戸梅屋舗』と題して板画にしているので、幕末の名木の姿を今も目にすることが出来る。(屋舗は屋敷と同じなので、以下屋敷と書く)又、この板画は、ゴッホが『咲きほこる梅の木』と題して模写していることでもしられている。

 文化元年(1804)の頃、向島に新梅屋敷というものが出来る。造ったのは佐原鞠塢という者である。鞠塢は当時、既に有名人で、多くの人々が鞠塢について書いているが、ここはオーソドックスに関根只誠翁の『名人忌辰録』から引用させて貰うと、

「梅屋鞠塢、平兵衛 本姓佐原氏向島百花園の開起人なり天保二卯年(1831)八月廿九日_す年七十浅草阿部川町稱念寺塔中観名寺に葬る 鞠塢は仙台の人平八とて若年にして江戸に来り堺町芝居茶屋和泉屋勘十郎の雇人となり平蔵と改む貯財して享和初年住吉町に骨董店を開き北野平兵衛と改稱し諸大家に立入り大いに利潤を得て長谷川町に転居す日々茶人文墨の名家つどひて益々賑はへり文化七年(1810)一会を催し道具市せり売と名付く賭博に粉敷とて忽ち御咎をうけ所払の刑を申付らる依て家を子に譲り其身は菊屋卯兵衛と改め中の郷にひそみ菊卯といへり翌年秋剃髪して鞠塢と名乗り同九年諸先生の恵により寺島村の田地を二千余坪買求めて開拓し広庭とせり諸大家より梅樹を三百六十本恵まれ外に秋草を添へて園地とせり是を百花園とも新梅屋敷とも云ふ五代目白猿芭蕉の句をもじりて戯れに[山師来て何やら栽ゑし隅田川]」

 先に、新梅屋敷の開園は文化元年頃と書いたが、これによると、文化九年となっている。

 細かい考証は煩瑣にわたるので省畧するが、坂田篁蔭の『野辺白露』によると、この御咎をうけたという道具市のことは、「梅屋敷開かざる以前の事なり」とあって、開園の時期については触れていないが、やはり文化の初年頃だったようだ。同書の続きに、御咎めを蒙ったが、その後、「其罪にあらずとて免されたり。然れども自ら住み馴れし地にも住みかねてムム」、本所中の郷の片辺に潜み、菊屋卯兵衛と改名した、とある。

 閑居した鞠塢は耕圃の業を興さんと、寺島村に武家抱屋舗の売り地三千坪(ここでは三千坪となっている)程を買って自ら鋤を負い、籬を造って花園とした、此の地は豪族多賀氏の住居跡だったので、俗に多賀屋敷といった、と云う。同書には花園とあって、特に梅園とはいっていない。

 先の『名人忌辰録』の記述にそって補足すると、芝居茶屋和泉屋勘十郎の妻おすみは五代目市川團十郎白猿の長女で、七代目團十郎海老蔵の生母だった。和泉屋の雇人だった鞠塢は幼い七代目の子守をしたという。こうして、十年程の間に金を溜めて住吉町に骨董店を出し、北野平兵衛と名乗った。世人は俗に北平と呼んだが、世才にたけ文筆にも疎からず、当時の文人加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、大田南畝、大窪詩仏、酒井抱一など諸名家の愛顧を受け、特に川上不白、千柳菊旦の紹介で諸侯旗本の邸にも出入りして大いに儲けたという。(『野辺白露』)

 斎藤彦麿の『神代余波』に、

「葛飾郡新梅屋敷といへるは、亀戸の梅屋舗に対したる名にて、鞠塢がいまだ北野屋平八といひし時開きたるにて、いささか梅樹うゑたる頃、花見がてらに村田並樹、片岡寛光(いずれも歌人)とさんにんにて立寄りしに、北平いへらく、人数多とひ来べきはさくらなれど、散りての後は其かひなし。梅は後に実を結べば、活計の為に三百六十株うゑて、一日一株の料にあてんとすと。北平には似つかはしき慮なり」

 とあって、鞠塢が根っからの商売人であることがよくわかる。

 初めは梅園から出発した新梅屋敷は、やがて鞠塢や周辺の文人達の発想で、『万葉集』や『詩経』などに詠われた植物を集めたり、春秋の七草や牡丹、しゃくやく、菊、朝顔など様々な名花が植えられて、誰いうとなく百花園と呼ばれるようになった。文化七、八年頃という。もっとも、梅は百花に先駆けて咲くことから百花園といったという説もある。

 先の『野辺白露』には、いくつか面白いエピソードが出ている。百花園では、園内の路を自然の野路のようにして、あまり手を加えなかったが、萩、薄、桔梗、尾花などがしどろもどろに打ち乱れた様子が、却って文人墨客の物好きには綺麗に造り立てた花園より雅趣があると気に入られて、風流めかして花を見に来る人達で大いに賑わった。

 ある時、大田南畝(蜀山人)が来て、入園の群集を見ながら鞠塢に尋ねた。

「ところで、茶代は一日いくら位、入るんだい?」

「ひやかしの客ばかりで、いくらにもなりませんよ」

「それじゃあ、掃除の費用にもならないだろう。私に考えがある。太い竹の空洞の筒を作って持って来てくれ」

 鞠塢がいわれた通りに太い竹筒を作って持ってくると、南畝は筆をとって、それに、

   花を見て茶代をおかぬ不風流
        これも世わたり高い水茶屋

 と書付けて、

「これを四阿家(あずまや)のはしらにかけて置きなさい」

 といった。そのおかげで、入園者が多少の茶代をこの筒に入れるようになり、一日に四、五貫文の収入になったという。銭四貫文で一両の時代だから、一日一両以上の茶代が集まったということである。(同書の注に、この狂歌は蜀山人らしくない、誤伝ではないか、とある。又、この竹筒は文政年間に何者かによって盗まれた、という)

 園の門に、新梅屋敷と書いたのは蜀山人で、門の左右の柱に掛かっている聯は大窪詩仏の筆で、「春夏秋冬花不断東西南北客爭来」(文政丁亥臘月、詩仏老人書)文政丁亥は文政十年(1827)、臘月とは陰暦十二月の稱である。又、その頃、加藤千蔭も掛行燈に、「御茶きこしめせ梅干もさむらふぞ」と書いてやった、とある。

 今の百花園の入口の門の上には、確かに「新梅屋敷」と書いた額があり、左右の柱には前出の聯が掛かっているが、夫々、蜀山人と詩仏の自筆のものか、よくわからない。

 園内の茶屋に、「御茶きこしめせ」の掛行燈らしきものはあるが、字は千蔭とは似ても似つかぬものである。

 五代目白猿の「山師来て」の句には思わず笑ってしまう。五代目白猿とは勿論、五代目市川團十郎白猿のことである。五代目が鞠塢のことを本気でそう思っていた訳ではないだろうが、身内の元雇人が大成功者となったことに対して、へえ、孫の子守をしていたあの男がねえ、と揶揄い半分、やっかみ半分で詠んだものだろう。もじった芭蕉の句はいうまでもないと思うが、「山路来て何やらゆかしすみれ草」である。

 墨東地域には、亀戸、向島の他にも、小村井、木下川など梅の名所が多く、時期になると梅見の客が押し寄せたようだ。

 名木、臥竜梅は残念ながら明治四十三年の水害で枯れてしまい、亀戸の梅屋敷は今は無くなってしまったが、百花園は規模は小さくなったものの、今に昔の面影を僅かに伝えている。

                  —終わり—

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