第76話 『古曲鑑賞会(八) 続、渡辺やな師』

 河東節をやる人達の数は十九世紀以降、減少し続けて、しかも、川柳などで見ると、その多くは老人になっていたようである。

『藤岡屋日記』の弘化三年(1846)のところに出ている『贅沢高名花競』という見立番付に「蔵前河東連」とあるのは札差連中を指していて、どうやら幕末の助六の芝居は彼等が中心となって十寸見連を形成していたものと思われる。勿論、素人ばかりの集団ではどうにもならず、そこは金にまかせて取り巻きの芸人達を動員していたらしい。

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 明治二十九年(1896)五月、歌舞伎座の九代目團十郎の助六の時、九代目團十郎は四回、「助六由縁江戸桜」を演じているが、最初は幕末の文久二年(1862)、明治になってからは、明治五年と明治十七年、そして、この四度目の助六が團十郎最後の助六となったのだが、この時、平岡大尽といわれた平岡吟舟は、やはり取り巻きの清元の弥生太夫と魚見太夫、長唄の伊十郎、孝次郎、喜代八などに河東節を急稽古させて、河東節連中として一緒に出演させている。

 明治の終わり頃には、前出の山彦秀翁の花柳界の弟子達が成長して、その後各自、自分の土地の芸妓達を指導して、やがて十寸見連を作って出演するようになるのである。大正から昭和の戦前にかけて、赤坂、新橋、下谷の芸妓連による河東節連中が歌舞伎の助六の芝居を支えた。

 このことは、この稿の(二)、「古曲への案内」の中の「古曲は現在どうなってゐるか」に出ているのだが、その紹介のところで、「一般的にあまり知られていないことも書いてある」とちょっと断わっておいたのはこのことである。

 花柳界の連中が出演するようになったのは十五代目羽左衛門が助六を演ずるようになってからだというが、最初からグループを作って出た訳ではなく、他の出演者に混じって出たということである。美男で有名な十五代目羽左衛門の初助六は明治三十九年(1906)五月の歌舞伎座だが、この時に芸妓連中が出演したか、どうかは知らない。昭和十年代の話だと思うが、渡辺やな師によると、羽左衛門は各花柳界の河東節連の中で、下谷が一番いい、といっていたそうである。

「妾が若い妓を大勢集めて出たからよ」とやな師はいっていたが、山彦さわ子(高橋さわ子)師の話では、「その頃、橘屋の彼女が下谷にいたからですよ」だそうだ。松菊という妓だったという。

 やな師が前田さん(露友師)から誘いを受けて悩んでいた頃だったと思うが、人気役者の市川海老蔵は團十郎を襲名できない、という噂が世間に流れて、週刊誌にも取り上げられて話題になった。

 その理由は菊村さんと前田さんの確執だった。このお二人は前田さんの五世露友襲名以来、相反する立場にあった。菊村さんは名実共、芸界のトップにあって大臣や財界のお偉方も一目置く実力者で、菊村さんが首を横に振ったら芸界では何も出来ない。

 一方、露友師の前田家と成田屋一家は海老蔵の養父の三升以来、親密な間柄にあり、一方を立てれば一方が立たないという、確かに難しい状況にあった。

 海老蔵の團十郎襲名の機運が高まる中、我々末端の者にはわからない所で着々と話が進められていたようで、とにかく、襲名ということでお二人の了承を取りつけ、昭和三十七年に海老蔵の團十郎襲名が実現する。

 一方、やな師は散々悩んだ末、露友師の方へ行く決心をする。山彦八重子の名がどうしても継ぎたかったようである。

 平成の今、私の手許に二本の扇子がある。一本は山口蓬春画の桜、もう一本は橋本明治画の桔梗の画で、扇面の裏側には、いずれも「二世 山彦八重子」の文字が見られる。これらは山彦八重子襲名の為に、やな師が用意されたものだったが、遂に使われることがなかった。

 というのは、結局、やな師は露友師の許へは行かず、山彦八重子を襲名することもなく終わったのだった。

 扇子、手拭など引出物まで手当ずみであったにも拘らず、どういう事情でそうなったのか、について直接やな師から聞いた訳ではないが、十寸見会がそれこそ必死になってやな師を説得して前田さんの側へ行くのを阻止したものと思われる。

 やな師が前田さんの傘下に入るということは確言すれば、敵方につくことで古曲会を抜けることになる。まして、山彦八重子の襲名となれば河東節の名であり、今まで荻江節だけの問題であったものが、今度は河東節まで波及して十寸見会まで同様なことになりかねない。古曲会、十寸見会が危機感を募らせたのもうなずける。

 そればかりでなく、やな師が脱会するということは下谷の河東連がなくなることになりかねない。そうなると、團十郎襲名を控えた十寸見会には大きな打撃である。

 また、昭和三十四、五年頃には、山彦秀翁の教えを受けた河東節の師匠連の多くは亡くなり、次世代の人達の時代になっていた。

 十寸見会の主流は菊村さんをトップにして三代目山彦紫存(加藤いね)師、六代目山彦河良(飯箸文子)師などを擁する新橋だったが、大きく分けると、山彦秀子(片山ふさ)師の系統の新橋、赤坂。山彦八重子(佐橋章)師の系統の下谷。それに山彦栄子師の系統の新富派、新富派は栄子師が柳橋の船宿、藤岡の娘だったことから藤岡派ともいったが、これら三つの系統があった。

 山彦秀翁から、その直弟子、孫弟子と世代交替があった中で、秀翁が江戸時代から伝承してきた曲も次第に失われたものも多く、三系統の各グループに残っている曲も夫々、まちまちになっていた。十寸見会では、会として現存の曲をなんとか残そうと、自分の所にない曲は他の系統の所から取り入れることが出来るよう、三派の交流を図った。

 私の記憶では、「鑓をどり」は藤岡派に残っていた曲で、「弓始」、「江戸鴬」などはやな師が御存知の曲だった。他にもいろいろ、やな師から聞いたのだが、残念ながら失念してしまった。

 その頃、藤岡派の代表だった千葉不二子師が「傀儡師」を習いに、やな師の稽古場に暫く通ってみえていたのを覚えている。こうした状況下で、やな師が前田さんの方へ行くと云い出したので、十寸見会では慌てて引き止めにかかったのだった。

 何しろ、既に引出物などまで用意していたやな師の決心を変えさせるのは大変だったと思うが、とにかく、やな師は山彦八重子襲名を諦め、十寸見会に残った。上の方でどういう話し合いがあったのか、末端の我々には分からなかったが、今となっては真相は全く闇の中である。

 昭和三十七年に海老蔵が團十郎を襲名。東京の歌舞伎座を皮切りに、京都、大阪、名古屋と翌年まで襲名披露興行が続いたが、それが一段落した昭和三十八年の秋、美術倶楽部で、「山彦やな子の会」が開催され、新橋をはじめ、十寸見会挙げての大会となった。

 その会が、どうやらやな師が山彦八重子襲名を諦めたことに対する十寸見会の見返りだったようだ。それまで、「助六」以外、荻江節しか習っていなかった私に、やな師は、

「今度は河東節の会なので、河東節をやってほしい」

 といった。曲目はやな師が選んでくれた。私は「きぬた」をやることになって稽古に入った。

「山彦やな子の会」を開くにあたって、新橋の方々に全面的にお世話になる御挨拶として、三代目山彦紫存師と山彦河良師のお二人をお招きすることになった。場所は上野の「山下」だった。「山下」は今はもう無くなってしまったが、やな師がいつも温習会で使っていた所で、弟子の我々にはお馴染みの料理屋だった。

 やな師は、その席に私も出てくれ、といった。話を聞くと、招待する側のやな師の方は、やな師と私の二人だけだという。私のような若造が弟子の代表として出て行ってもよいものか、どう考えても任が重く、大いに悩んだが、幸い東北タンク社長の横内忠兌氏(十寸見東雪)が一緒に出て下さることになってホッとした。

 紫存師は、荻江は私と同じ竹村さんの弟子で、稽古場で何度かお目にかかっていたが、河良師は、私の方では勿論存知上げていたが、お話したのはその時が初めてだった。私以外の四人の方々は皆、今は故人になってしまわれた。四十余年前の話である。  やな師や横内氏については、個人的には書き切れない程の思い出があるのだが、切りがない上に主題から外れてしまうのでこれまでとして、一応、この稿はこの辺でまとめさせて貰うことにする。

 美術倶楽部の「山彦やな子の会」は大盛況裏に無事終わった。私は「きぬた」をやな師の三味線で唄った。翌昭和三十九年は東京オリンピックの年で、それに合わせて十月の歌舞伎座では「助六由縁江戸桜」が出た。それが海老さまといわれた十一代目團十郎の最後の助六となった。その助六に私はやな師と一緒に出演した。

 平成十八年の現在、一時盛んに活動していた露友師の真守会も、露友師没後はすっかり影をひそめてしまい、今は唯一人、竹村さんの御養子の二代目寿友師だけが、古曲会にも属さずに孤軍奮闘されている。

 古曲会の方の真茂留会も、いつの間にか、元の荻江会に戻り、無形文化財のグループ指定を受けているが、昔のような活気は残念ながら今は無い。一方、河東節十寸見会の方は、昭和六十年の十二代目團十郎の襲名以来、昔と形は違っても安定した河東節人口を維持しているのは喜ばしいことである。

                          

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