第75話 『古曲鑑賞会(七)、渡辺やな師』

 渡辺やな師は、
「浚ってあげるから、ウチへいらっしゃい」
 と声をかけてくれた。
 やな師は蔵前の柳屋という和菓子舗の娘で、やなというちょっと奇妙に聞こえる名は柳屋という屋号の柳をとってつけたのだそうである。
 やな師は下谷の花柳界で松栄家という芸者置家をしておられた。
 下谷の花柳界は上野の不忍の池に面した南側の一角で、今の春日通りを挟んで、池寄りの数寄屋町と反対側の同朋町を合わせて下谷とか、池の端の花柳界とか、呼ばれていた。
 やな師のお宅は数寄屋町にあった。
 玄関を入った左側の下駄箱の上に、「てんじん」と書いた板看板が立てかけてあった。
 終戦直後のまだ、食料の統制時代、料理飲食業は正式に認可されず、法の目を潜った裏口営業が密かに横行していた頃は、花柳界なども公然と営業できなかったので、やな師は「てんじん」という甘いものの店を開いておられたそうで、看板の字は小杉放庵画伯がやな師のために筆をとってくれたものだった。
 料理飲食業が正式に再開になったのは確か昭和二十四年だったと思うが、新橋、赤坂、柳橋を除く東京中の花柳界が、その再開を祝して「東京をどり」というイベントを、今はない東京劇場で催した。
 歌舞伎座は戦災で消失したままで、まだ再建されていなかった。
 料飲再開とともに、やな師は甘味処の店を罷めて、戦前からの松栄家という芸者家に商売替えされたようだが、小杉放庵筆の看板だけは大事にとって置かれたのだろう。
 下谷の花柳界は戦前、上野という場所柄、画壇、特に日本画壇の方々との交流が深かったようだ。
 五世露友師が前田青邨夫人となったのも、下谷という土地とまるで関係がない訳ではない。
 やな師の師匠の佐橋章師は露友師の姉で下谷の花柳界で八重といった人である。
 その姉を通して青邨画伯と結ばれたのだから無縁とはいえない。
 昭和三十三、四年頃のことだが、私が松栄家へ稽古に行くと、やな師が私に、小唄をテープに録音したいので唄ってくれないか、といわれた。なんでも、日本画壇の先生方の集まりがあって、余興に橋本明治氏の三味線で山口蓬春氏が小唄を唄う、その稽古用のテープをとりたいということで、確か「初雪」を唄ったことがあった。
 やな師はこの両画伯とは特に懇意にされていたようで、私は一度、やな師と一緒に湘南の山口蓬春邸にお邪魔したことがある。
 話が前後してしまったが、「浚ってあげるから、ウチへいらっしゃい」というやな師のお言葉に甘えて、竹村さんの会の時には松栄家に浚って貰いに伺った。
 その内、竹村さんが下谷へも出稽古されることになり、松栄家がその稽古所になったので、新橋よりも松栄家へ行くことの方が多くなった。当時、大学生だった私は上野を経由して通学していたので、稽古のためにわざわざ廻り道する必要がなくなり好都合になった。
 昭和二十八年に、私は竹村さんから荻江寿章という名を戴いて名取りになった。
 昭和三十年に、竹村さんは傘寿の会を新橋の新喜楽で催した。
 どうも私の記憶と人名事典の竹村さんの年齢には多少感覚的なズレがあるのだが、人名事典によると竹村さんが八十歳になったのは昭和三十年なので、ここはそれに従っておく。
 そのとき、私は「八島」を唄った。三味線は赤坂の晴也さんと秀蝶さんだった。
 会の間中、竹村さんは舞台のすぐ前に菊村さんと並んで坐って演奏を聴いておられた。
 それを見て赤坂のお二人は出番の前に、さかんに「こわい」、「こわい」を連発していたが、竹村さんは師匠だから当たり前として、やはり菊村さんは芸のわかる恐い人だったのだろう。
 会の終わりに踊りが何番かあった。
 新派の伊志井寛の唄で、水谷八重子(初代)が「松」を踊った。
 水谷八重子がとても美しかったのを覚えている。
 トリは尾上菊之丞(初代)の「八島」だった。
 この傘寿の会があったのを昭和三十年として、この後一年足らずで前田青邨夫人が五世露友を襲名されたことと思い合わせると、新喜楽の舞台の前で竹村さんと菊村さんが二人仲良く並んで演奏に耳を傾けていた姿がどうもピンとこない。  前田夫人から竹村さんに声が掛かったのが、もっと後のことで、その時竹村さんはまだ何も知らなかったのか。
 お二人が、五世露友の襲名により袂を分かつまで、あまりに時間が短過ぎる。
 私の記憶では、それは昭和二十九年のことだったような気がしている。
 昭和三十年の五月の末に、私は長年患っていた肺結核が悪化して都下の病院に入院、手術して二年半にわたる闘病生活を送った。
 昭和三十二年の秋、私が退院して来た時は竹村さんは既に隠退されていたので、ごく自然に私はやな師の許に通うことになった。
 稽古は専ら荻江節だったが、河東節は「助六」だけはやっておいた方がいい、といわれて「助六由縁江戸桜」を一曲だけ教えて頂いた。
 昭和三十四、五年頃のことだったと思う。五世露友師はやな師にも、自分の方へ来るよう声を掛けて来たようで、露友師が荻江節だけでなく、河東節も自分の傘下に入れたいと考えておられたのか、どうかは分からないが、露友師側に来てくれたら、佐橋章師の河東節の名、山彦八重子を継がせるといわれて、やな師は大いに迷っておられたようだ。
  やな師は、師匠の佐橋章師を「姐さん」、「姐さん」と呼んでまるで神様のように尊敬し、慕っておられたから、その山彦八重子の名跡を襲名できるということはやな師にとっては願ってもないことに違いなかった。
 この頃、私達弟子連中は度々、緊急召集されてやな師の相談を受けたが、我々に妙案がある筈もなかった。多分、やな師は一人で悩んでいて不安だったのだろう。
 昭和三十五年は、「助六由縁江戸桜」開曲二百年後に当たり、古曲会主催の古曲鑑賞会の昼夜の部、夫々の最後に「助六」が演奏されたが、唄は男性五十六名、三味線は女性で三十三名、真ん中に三味線の女性を挟み、左右に二十八名ずつの男性で、総勢約九十名が四列の雛壇に並んでの大演奏だった。著名人の方々も数多いが、全部の出演者の名を挙げていられないので、最前列の人達の名前だけにしておくが、それでも、当日の豪華なメンバーの想像がつくと思う。
(向かって左側、三味線の脇より)山田抄太郎、伊東深水、船橋聖一、小菅千代市、三宅藤九郎、池田弥三郎、遠藤為春。
(右側、三味線の脇より)馬杉秀、木下茂、花岡俊夫、岩村豊、安藤鶴夫、岸井良衛、斉藤恒一。
(三味線、向かって左より)水原玲子(新橋美代菊)、横溝マサ(赤坂笹川)、小林清子(都一中)、飯箸文子(山彦河良)、水野初(宮薗千寿)、渡辺やな、永井静子(新橋五郎丸)。
 この「助六」について、田中青滋先生は当日のプログラムの中に「世紀の演奏 助六大合唱」と題して一文を書いておられるが、その初めの所に次のようにある。
「宝暦十一年(1761)から今年、昭和三十五年(1960)は二百年になる。助六大合唱といふ途徹もない企画は、その作曲二百年記念といふ所から持上った。
 それには古曲を理解し、擁護してくれる人々の層に呼びかけるより他に手はない。現在河東節だけで五十人は集まりやうがないからである。そこで一中三派、宮薗二派、荻江と各流にはかると欣然これに参加を快諾してくれた。古曲一家の難有味、今度ほど身近に感じたことはない(以下畧)」
 どうも、この「助六」の大合唱は、二年後に行われた、この当時海老様といわれて人気絶頂の役者、市川海老蔵の團十郎襲名を睨んでの前哨戦ではなかったか、と思われる。
 團十郎の襲名には歌舞伎十八番の「助六」が必ず出る。それには河東節連中が出演する。襲名披露公演は東京ばかりでなく、名古屋から京都、大阪で行われる。そのためには河東節連中として、ある程度の人数の確保が必要、と考えてのその準備の布石だったのだろう。
 因みに、昭和三十四年の名簿によると、河東節の男性の名取り(本名取りのみ)は二十六名しかいない。手許にある平成十一年度の古曲会の名簿に載っている河東節の男性本名取りの数は奇しくも同じ二十六名である。
 出演者が河東節のプロの芸人ばかりであれば、ほんの一握りの人数で事足りるのだろうが、二十数名の素人集団では、それにかかり切りになれない事情もあって長期間の興行は無理である。
 そこで、助六名取りという、「助六」一曲だけ覚えて出演して貰う河東節連中が必要となる訳である。
 助六名取りという言葉がいつ頃出来たのかは知らないが、同様のことは昔から行われていた。しかし、その実体はかなり変わってきているようだ。
                     ―――この稿続く―――

コメントを残す