第74話 『古曲鑑賞会(六)、思い出すこと』

 昭和三十二年一月十二日に、五世荻江露友の襲名披露を兼ねた初の演奏会が、帝国ホテルの演芸場で開催された。
 この演奏会に先立って各界の名士達に送られた挨拶状には、五世荻江露友の名に続いて次の方々の名前が並んでいる。
 まず、宗家顧問として牧野良三氏、久保田万太郎氏、出光佐三氏の三名。その後に、賛助御芳名(五十音順)とあって、安倍能成氏、 上野直昭氏(芸大学長)、加藤成之氏(元東京音楽学校々長)、小宮豊隆氏(ドイツ文学者、国文学者)、志賀直哉氏、高橋誠一郎氏(日本芸術院々長)、谷崎潤一郎氏、土岐善麿氏(歌人)の八名、相談役世話人として、柳原緑風氏の名が出ている。(カッコ内は筆者注) 安倍能成氏と小宮豊隆氏は夏目漱石門下の長老で、当時、安倍氏は学習院々長、小宮氏は学習院大学の文学部長をつとめられていた。
 牧野良三氏と柳原緑風氏については前に書いた。
 その他の久保田万太郎氏、出光佐三氏、志賀直哉氏、谷崎潤一郎氏については説明するまでもないだろう。
 その襲名披露演奏会の主な番組としては、竹村さんの荻江で「式三番叟」。長唄「松の翁」は芳村伊十郎の唄で、三味線は今藤長十郎。土岐善麿作詞で新宗家作曲の荻江の新曲「月結露友垣」は新宗家の五世露友師の唄で三味線は荻江露扇。舞踊として、荻江節の「梅」を立方、藤間宗家の藤間勘十郎、地の唄は荻江露舟(富士田新蔵)で、三味線は荻江露光(岡安喜一郎)だった、等々で大盛会だったという。
 というのは、その時、私は病院に入っていて、その会に出席していなかったのである。  これ以後の話については、私個人のことに少なからず係わっているので、まずは思い出話でも交えながら私の立場を理解してもらうことにする。
――安倍能成院長の思い出。
 いつ頃のことだったか、はっきりしないのだが、多分、昭和二十六年頃だったと思う。
 前にも書いた美術倶楽部での古曲鑑賞会で安倍院長に会った。
 その時、私は友人の嶋田厚君と一緒だった。後に筑波大の教授になった嶋田君は、幕末の剣客、嶋田虎之助の子孫で、私の江戸学の師、森銑三先生も島田虎之助の調査のため、嶋田家を訪問されたことがあったそうである。
 嶋田君は学習院大学では、フランス会というのを創って、研究というよりシャンソンを聴いたりして楽しんでいたようだったが、好奇心旺盛の彼は邦楽や邦舞などにも興味を持っていて、古曲鑑賞会や竹原はん師の地唄舞など、彼と一緒に見に行った記憶がある。
 古曲鑑賞会で、私と嶋田君が先へ来て窓際近くに並んで坐っていたところへ、安倍院長があとから見えて私達の隣に席をとられた。
 院長には老紳士の連れがあった。
 嶋田君は背広を着ていたが、私は学校の制服姿だったので、院長はすぐ私に気付き、
「君は何年生だ?」
 と声をかけてきた。
 それから、演奏の合間に短い会話を交わした。
「その内、君もあそこへ上がるんじゃないか?」
 と院長は、一段高い舞台を指差して悪戯っぽく笑いながら、いわれたのを思い出す。
 院長の連れの老紳士は、私は知らなかったが、嶋田君が、東京芸大学長の上野直昭氏だと教えてくれた。
 河東節の曲目は覚えていないが、演奏のタテ唄は山彦文子(二代目)でワキが山彦いね子(後の山彦紫存)だった。
 演奏を聴き終わった後、
「山彦いね子というのは声がよくて、なかなかすばらしい」
 と、お二人で話しておられたのが聞こえてきたのを、何となく覚えている。
 安倍院長と直接話をしたのは、その時が最初で又、最後だった。

――小宮豊隆先生については、直接的ではないが、次のような思い出がある。
 学習院大学の歌舞伎サークルを国劇部といった。
 創立したのは、拙著『江戸落穂拾』に序文を書いていただいた小山觀翁さんで、歌舞伎座のイヤホーン・サービスを始められたのも小山さんで、歌舞伎鑑賞に関する著書も枚挙にいとまがない程書いておられる歌舞伎のオーソリティーである。今では歌舞伎関係者で小山さんを知らない人はいないだろう。
 私が邦楽をやっているのを知って、国劇部に入らないか、と入部を勧誘してくれたのも小山さんだった。
 学生時代、小山さんにくっついて、まだ源平といっていた、先年亡くなった沢村宗十郎丈などと遊び廻ったのも、今は懐かしい思い出である。
 その国劇部で部報を出すことになって、B5判4頁の当時としては珍しい活版刷りの創刊号が出来上がった。コピー機などもない当時は、学生は金がないので、印刷物は殆どガリ版刷りだったのである。
 部報の巻頭には、部内切っての踊りの名手、後の白鹿酒造社長の鹿島君の「娘道成寺」の写真を載せ、その下に小宮先生の江戸文化に関する記事が出ていた。
 一面はそれだけで、後の方に、先日亡くなった吉村昭さんや私などが短いものを書いて出している。
 この部報は確か取って置いた筈だが、昨年の引っ越し騒ぎで、どこかに紛れてしまっている。小宮先生の原稿は、国劇部の友人で今も親しくして貰っている神山昭彦君が、
「僕が小宮先生に何か書いてくれるようお願いしてくる。そのかわり、先生がもし書いてくれたら、その原稿は僕が貰うよ」
 といって、小宮先生との交渉を買って出て書いて貰ってきたもので、内容は、江戸時代の文化というものは泥沼に咲いている蓮の花のようなもので、うっかり足を踏み入れると、ずるずると泥沼に体ごと引き込まれてしまう。魅力も大きいが、危険度も高いので、心してかからなかればいけない、といったようなことが書いてあったと思う。
 神山君に確かめていないが、あの小宮先生の原稿は今でも彼の手許にあるのだろうか。

 ちょっと脱線してしまったが、話を荻江節に戻す。
 昭和二十五年、私が竹村さんのところに入門した時、竹村さんは田中家での喜寿の祝を、済まされたばかりだった、と前に書いた。
 竹村さんから、そう聞いた記憶があったからである。
 しかし、平凡社の『日本人名事典』によると、竹村さんは明治九年(1876)生まれで、昭和二十五年には七十五才(数え年)である。私の記憶違いだったのだろうか。
 その当時、竹村さんの稽古所は新橋の板新道の中浜大和という芸者家だった。その後、竹村さんは赤坂や下谷へも出稽古に行かれるようになった。
 竹村さんの稽古所には、弟子の我々以外にも様々な方がお見えになった。五世露友になられた前田すゑ師もよく見えて浚って行かれた。すゑ師の姉の佐橋章師は竹村さんの相三味線だった。
 竹村さんは普段弾き語りで弟子に稽古をされていたが、すゑ師は私がたまたま稽古をしているところへお見えになると、「妾が弾いてあげる」といって、伴奏して頂いたことが何度かあった。
 渡辺やな師(荻江やな、山彦やな子)は佐橋章師の弟子で、師匠のワキを弾いておられた方で、荻江の現存曲はすべて御存知だったようだ。よく稽古日には出てこられて、竹村さんが弟子に稽古をつける、その三味線を弾いておられた。
 ある時、私が居合わせた時だが、竹村さんがやな師に向かって、
「あんたに教えるものはないけど、[紅筆]という唄、やってみる?」
 といった。やな師が、「結構です」と辞退されたので、どんな唄なのか、聴きそびれてしまったが、今の『荻江閑吟集』に載っていない荻江の曲だったのか、或いは、地唄か、何かの唄だったのか、今となっては確かめようがない。「紅筆」という曲名だけが記憶に残っている。
 竹村さんの稽古は、前回までに習った所まで、初めから通してやり、その後の稽古本の二、三行分をまず竹村さんが一人で唄い、それから、その部分を弟子と一緒に三回程繰り返して終わり、という簡単なものだった。経験の浅い私などは、竹村さんクラスの師匠の稽古はそういうものと思っていたが、正直なところ、三回位の稽古ではとても覚えられなかった。カセット・レコーダーなど、まだ無い時代で、持ち歩くのがやっとという程、ばかでかい携帯用録音機が出てきたのは、昭和二十年代の後半だった。後の山田流の人間国宝、中田博之先生も竹村さんの弟子だったが、その中田先生が稽古所に大きな箱型の録音機(テープ・レコーダー)を持ち込んできた時の竹村さんの驚きよう、呆れようは大変なものだったのを思い出す。
 三回稽古で覚えられないのは、何も私ばかりでなく、他の弟子連中も同様だった。
 特に、荻江節などの古曲をやる人達は、色々な邦楽をさんざんやってきた年輩者の方が多かったので、夫々随分苦労されていたようだ。
 普段の稽古の時はまだしもだったが、お浚い会の時はなかなか一人だけで唄えるようにならず、本当に困った。
 そんな時、声をかけてくれたのが渡辺やな師だった。

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