第73話 『古曲鑑賞会(五)、五世荻江露友』

 昭和三十一年一月に前田すゑ師が五世荻江露友を襲名して、明治十七年(1884)に四世露友が亡くなって以来絶えていた荻江露友の名が七十二年ぶりに復活した。
 前田すゑ師は、著名な日本画家、前田青邨画伯の夫人で、『菊がさね』にも出ていた佐橋章師の実妹である。
 この五世露友の誕生は荻江節の世界だけに限らず、当時の古曲会にとっても一大事件だった。
 というのは、それまでの古曲の関係者は師匠をはじめとして、すべて古曲会に属していたのだが、前田すゑ師は古曲会とは全く別個に襲名して、云わば別派を立てたのだから色々な意味で大変なことだった。
 五世露友師は昭和四十三年に『宗家五世 荻江露友』という本を出版されていて、その跋の中で同書の上梓の動機について次のように述べている。
「前から、系統だった荻江の歴史と現在の動きを後世に残しておくことは、宗家であなたの責任、と人に言われていたが、今年(昭和四十三年)は先代(姉の佐橋章師)の二十三回忌にあたり、自分の喜寿の祝を兼ねた会を二月に歌舞伎座で催すことになったので、長年の懸案だった荻江の歴史と現在の動きを町田佳声先生と仁村美津夫先生にお願いして、やっと出版の運びとなった」(要約)
 同書の最初の方には、五世露友師に関連した写真と各界名士から寄せられた祝詞が載っているが、主要部分は町田佳声氏の『荻江節の起こりとその芸を伝えた人々――初代露友から四代まで』と仁村美津夫氏の『宗家五世 荻江露友』で、町田氏は初代露友から、ひさ、うめの姉妹に至るまでの荻江節の歴史を、仁村氏はそれに続く五世露友師の伝記等について書いている。
 仁村氏の書かれたものは、題名が書名と同じなので、区別するために、仁村氏の方は以下、単に『五世露友』とさせて貰う。
 仁村氏の『五世露友』には、露友の姉の佐橋章師のことや、五世露友襲名の経緯が出ているので、その部分を挙げる。
「章(佐橋章)は周囲からすすめられて、昭和九年、四世荻江露友の娘である飯島すみから正式に露章の名をもらうことになった。これは荻江の後継者を約束されたものであり、荻江では露友の露は門下にもほとんど使わせなかったのに、特に露を冠した露章の名が許されたわけである。
 この飯島すみも四世荻江露友こと飯島喜左衛門の養女だった。すみの生まれは加藤家で、その家はやはり維新前は名門だったが、世の中が変わって没落した。
「今紀文」とまで言われた深川木場の大金持ち飯島喜左衛門の娘として、蝶よ花よのお嬢さん育ちをしたそのおすみさんも、四世露友として大きな財産を蕩尽し、四十九歳で亡くなった義父とともに数奇な運命を辿った女性だった。
 飯島すみは、荻江露章の披露があったときにも、将来、よい機会を見て、五世荻江露友を露章が継いで呉れることを希望していた。
 そして当時、それらの事情は笹川臨風博士がすべてを知っていたし、また任されたような立場にあった」
「佐橋章が荻江露章になったとき、その仲立ちは笹川臨風博士だったが、四世荻江露友(飯島喜左衛門)の娘の飯島すみとともに、笹川氏は露章披露の式に立ちあい、そのとき二人から露章が必ず機会を見て五世露友を襲名してくれるようにと希望が述べられた。(中畧)ついに五世露友の襲名は実現を見ずして世を去ってしまった」
「露章の死後、(笹川臨風博士は)北鎌倉の前田家を訪れ、姉の遺志を継いで、すゑに五世露友を襲名することをすすめた。しかし、すゑはそれをも断ったが、笹川氏は二度、三度繰り返し、荻江のためにも家元が必要であることを説いた。
 それでも、すゑが承諾しないので、笹川氏は四世露友の娘の飯島すみから一切を任され預っていた家元の書類、いわゆるお墨付きを、すゑにその書類が手渡されたのだった』

 昭和三十年に、すゑ師の夫の前田青邨画伯が文化勲章を受けたのを機に,邦楽界の先輩達から,「この辺で,家元になって荻江再興のために尽力してほしい』といわれて,すゑ師は夫に相談したところ,心よく許してくれたので,決心がついたという。
 それで,翌昭和三十一年一月六日、姉露章の命日を選んで,赤坂加寿老での宗家荻江露友襲名となるのだが,当日の出席者は特別な関係者のみに限られていたが,久保田万太郎、土岐善麿、牧野良三、出光佐三、山田抄太郎、宗家藤間勘十郎、芳村伊十郎,杵屋六左衛門、市川海老蔵(後の十一代目團十郎),清元延寿太夫、柳原緑風などで,荻江ひさ師の甥の柳原緑風氏から,すゑ師が荻江宗家を継承することに異存がない旨の証書が,正式にすゑ師に手渡された。緑風氏はひさ師の妹、荻江うめ師の息である。
 この披露宴の後,各新聞社などのジャーナリズムへも襲名の発表を行った。

 以上の記述の中に,四世露友の飯島喜左衛門のことを,深川木場の大金持ち,とあるのは,同じ深川ではあるが,北川町の間違いで,また四世露友の養女という飯島すみについても,これで見ると,四世露友の没落以前からの養女のように受け取れるが,四世露友没後、妻のいくが柳橋で守竹家という芸者家を営みながら荻江を教えていた,その守竹家を継いだのが飯島すみで,前身は守竹家の抱妓で小よしといったという説もあり、すべてそのまま鵜呑みにできないところも多い。
 しかし、『宗家五世 荻江露友』の見返しの後に載っている写真の中に,笹川臨風博士の前田すゑ師宛の荻江節の家元を一時お預けするという書付と柳原緑風氏の同じく前田すゑ師宛の、貴下が荻江節宗家を継承せらるる事に異存ありません,と書かれた承認書が出ている。
 仁村美津夫氏の『五世露友』は、前田すゑ師の五世露友の側から書かれたもので,古曲会に関する事は全く載っていない。
 五世露友襲名の動きは,その前年の昭和三十年から始まっていて,古曲会はその対応策に追われていたようである。
 古曲会の中で,一中節は都,菅野,宇治の三派、宮薗節は千之,千寿の両派,河東節は十寸見会で、夫々まとまっていたが,荻江節は特にこれといったまとまりがなく,新橋の師匠である竹村さんが赤坂や下谷にも出稽古に行っていて,古曲鑑賞会の荻江というと竹村さんの一門が常連を占めていた。
 その竹村さんが五世露友師の方へ行ってしまうという事になったのだから,一大事だったに違いない。
 聞いた話だが,五世露友襲名に当たって,前田すゑ師は竹村さんにも声をかけた。
 何しろ,すゑ師の姉の荻江露章師は竹村さんの相三味線だった。
 そのことについて,菊村さんが竹村さんに,
「あんたはどうするの?」
 と訊いたそうである。
「あたしは前田さんの方へ行く」
 と竹村さんが答えたので,竹村さんは新橋を首になってしまった。
 竹村さんが何故,前田さんの方へ行く気になったのか,色々な理由が考えられるが,いずれも推測になるので,今は深く穿鑿しないでおく。
 新橋は荻江の師匠がいなくなってしまったので,高松あぐり師を引っぱって来て,荻江の師匠とし,亡くなった片山さん(荻江房)取り立ての師匠連、荻江ふみ(飯箸文子)師や荻江しづ(五郎丸)師、また竹村さんの息のかかっていない柳橋や芳町、浅草などの花柳界の名取り連中を糾合して荻江真茂留会を設立して荻江節関係者の結束を謀って五世露友師に対抗した。
 昭和三十一年五月の事である。
 五世露友師の活動は華々しいものだった。
 邦楽界の一流の演奏家達を続々と傘下に集め,襲名の翌年の昭和三十二年一月、帝国ホテルの演芸場で襲名披露演奏会を開く。
 五世露友師一門は真守会と稱した。
 荻江節は,真茂留会と真守会に真っ二つに分裂したが,ジャーナリズムの脚光を浴び,お陰で多少世間に知られるようになった。
 真守会のメンバーには,次のような人達の名が挙がっている。
 荻江露夕(中山小十郎)、荻江露舟(富士田新蔵)、荻江露英(杵屋栄三郎)、二世荻江露章(今藤長十郎)、荻江友次郎(清元梅吉)等々。その他に、竹村さんの御養子の荻江之友(後に,二世寿友)、荻江露光(岡安喜一郎)など、いずれも錚々たる方々である。
 帝国ホテルの襲名披露演奏会については次回に――

コメントを残す