第72話 『古曲鑑賞会(四)、「菊がさね」』

 古曲会が財団法人になったのは昭和三十七年九月のことである。
 その年に十一代目市川團十郎(先代)丈の襲名披露興行が、四月、五月の二ヶ月にわたって歌舞伎座であり、河東節の十寸見会連中が出演した。
 新古曲会の会長には旧古曲会の委員長だった篠原治氏が就任、理事長には吉田幸三郎氏、常任理事には田中秀夫(青滋)氏と池田鉄之助氏、理事には旧古曲会の委員がそのまま移行する形となった。委員という名稱が理事と変わっただけで、大きな変化はなかったが、一中節菅野派の五世菅野序遊師と河東節の二世山彦文子(岡田米子)師が物故されて抜け、菅野派の代表には代わって菅野序州の中村孟之氏が、また三世宮薗千寿(槍田ゆき)師に代わって宮薗千幸(水野ハツ)師が四世千寿を襲名されたので、宮薗千幸の名が、消えている。
 新古曲会の会長になった篠原治氏は、前にも書いた通り、新橋花柳界の菊村のおかみで又、二世都一広として一中節の人間国宝だった。一般には篠原治さんというより、菊村のおかみさんで通っていたので、以下、菊村さんと呼ばせて貰うことにする。
 菊村さんは、大正十二年の東京大震災後、新橋の花柳界を逸早く復興させ、一花柳界として新橋演舞場を建設する等、その卓越した政治的手腕は夙に知られたところである。
 菊村さんは一中節の他、清元の名手としても有名だったが、河東、荻江、宮薗等、古曲にも通じておられ、その古曲の保存と普及に大きな足跡を残されている。
 それについては菊村さんが昭和三十一年に出版された『菊がさね』という本に載っている様々な挿話から窺い知ることが出来る。
 前章で引用した笹川臨風博士の『明治還魂紙』の文中に、「荻江の中絶したのを荻江ひさ氏が再興したが、私は家に招いて稽古した」とあった。荻江節は四世荻江露友の死後、妻のいくが柳橋で守竹家という芸者家を営みながら教えていたのだが、明治三十七年にいくが亡くなった後、暫く絶えていたのを復活したのが、ひさ、うめの姉妹だった。
 その後、姉のひさは自ら家元とは名乗らなかったが、世間的には荻江節の家元格として扱われていたようだ。
 ひさは秀翁のところへ河東節を習いに来ていた。以下は、町田佳声氏の『荻江節の起こりとその芸を伝えた人々』による。
 ――明治の頃は、常磐津清元ならまだしも、馴染の薄い荻江節など習っても生活の道につながらない時代であって、ひさ女の修行時代の生活は相当に苦しかったらしく、或る日、秀次郎(秀翁)に苦衷を訴えたところ、秀次郎は「お前は荻江節という特技を持っているから、俺のお客様に頼んで何とか生活の道が立つようにしてやろう」と贔屓先の新橋、赤坂、日本橋、下谷の花柳地の人達に紹介してやった、という。(要約)――
 菊村さんの『菊がさね』の「荻江」のところに、
 ――荻江のおひささんは、河東節のお師匠さん(秀翁)が皆んなの処へ連れて来て、「この人が荻江の稽古をするから習ってくれ」と頼まれた。そんな関係上河東節をやる人はひとまず稽古についた。
 このおひささんの芸風は至極淡々たる芸風なので、荻江と言ふものをまだ解しない人には本当に面白くないと感じたのであらう。一人へり二人へり殆ど終ひには稽古する人がなくなってしまったので、私がすっかり背負ってしまった。例の師匠の終列車だから―――
 とある。この「師匠の終列車」というのは「荻江」の前にある「薗八」(宮薗)のところで、
「そんな訳で仕合せにも、明治時代の女の三名人と言はれた人の教へをうけたが、それがみんなお師匠さんがたの終わりに臨んでゐるので、終列車に間に合ったやうな気がする」
 と書いているのを指しているようだ。
 明治の三名人とは、清元お葉、一中節の都一広、宮薗節の宮薗千之(おさな)の三人のことである。
 荻江ひさは晩年、妹うめの子の柳原緑風氏が営む緑風荘という中華料理店に引き移って、そこで稽古を続けた。
 ――その頃から片山(荻江房)さん、佐橋(荻江章)さん、岡田(荻江よね)さん、竹村(荻江寿々、後に寿友)さん等が本気に稽古をする気になって緑風荘へ通ひ出した。
 お師匠さん(ひさ)は緑風荘で身罷った。本当に終わりがいい。立派なお弟子も出来てよかったと、万事はその時からこの四人にお任せした。
 それで荻江といふものが、この四人の手にかかって面白くなった。
 或る時、「深川八景』をこの四人で放送した事があった。四人とも芸が円熟しきってゐた頃なので、この放送を聞いて実に荻江の前途を喜んだ。その後、片山さん、佐橋さんなどが亡くなられて今残ってゐるのは竹村さん、岡田さん位のものだ。
 この頃は荻江も少し面白くなり過ぎたのではないかと思はれる―――
 筆者の私は、戦後の昭和二十五年に竹村さんについて荻江節を習い始めたが、片山さんと佐橋さんは戦後間もなく相次いで亡くなられたので、お二人の至芸に直に接することは出来なかった。
 私が入門した時、竹村さんは喜寿の祝いをすませたばかりだった。
 その頃、新橋の花柳界では、河東節の師匠は岡田さん、荻江節は竹村となっていた。
 お二人とも河東、荻江に通じておられた筈であるが、新橋ではその分担が決まっていたようだ。
 亡くなられた片山さんと佐橋さんは両方教えておられたようで、門下のお名取りさんから古曲の師匠になられた方々も、いずれも両方教えておられるので、それで河東をやる人は大抵荻江もやっている方が多い。どちらに比重を置くかは人によって違うだろう。
 以前、河東節の師匠はどうして荻江節の師匠も兼ねているのか、という質問を受けたことがあるが、それは以上のような事情によるのである。
 竹村さんについての思い出話を二つ、三つ。
 竹村さんの話によると、おひささんの荻江節は水調子(調子が低いということ)で、単調でつまらないものだったが、それを今のように面白く聞けるようにしたのは自分だ、といっておられた。
『菊がさね』では、おひささんの芸風は淡々としていて、荻江をまだ解さない人にとっては本当に面白くないと感じたのだろう、といっているが、それを面白くしたのは片山、佐橋,岡田、竹村の四人としている。
 竹村さんが,他の三名の名を出さずに,自分がやったというのには,それなりの自負があったと思われる。
『菊がさね』には、竹村さんが菊村さんと同じ清元やなので、何度もその名が出てくるが「余興の盛んな頃,今の古曲の竹村さんが,まだ〆子さんと言ってゐた頃,今でも(昭和三十年頃)高い声が出る位だから,この方の三十代は大した声だった」
 とある。
 本当に大した声で,私が入門した頃,竹村さんは既に喜寿を超えた小柄なお婆さんだったが,初めてその声を聞いた時、その小さな体全体が共鳴するかのような響きにすっかり圧倒されてしまった。
 私蔵の録音テープの中に、昭和二十年代の後半にNHKで放送した竹村さんの「深川八景』がある。三味線は下谷のおやなさんこと、荻江やな(渡辺やな)師である。「深川八景」は三下りであるが、調子は八本で、八十才の人の唄とはとても思えない。
 清元の「かさね」の聞かせどころの「夜や更けて」の節は、五世延寿太夫が竹村さんのために今のような節に直した、というのが、竹村さんのご自慢で、そのことは『延寿芸談』に出ていると私に教えてくれたのは、竹村さん御自身だった。
 五世延寿太夫の『延寿芸談』には、次のように載っている。
 ――(「かさね」の)「夜や更けてノノ」の歌が昔はチントンシャンというようなものであったのですが、私が節をそっくり取り替えて今の節に直したのです。それはこの時には新橋の芸妓連中が清元を勤めたので〆子が非常に高い調子の出る人でしたから、こういう高い調子のものにしたのですが、それが後に市村(羽左衛門)や寺島(梅幸)が演るようになると、私が語らなければならなくなったのですから、女の高調子をそのままやるのはかなり苦しみました ――
 この、新橋の芸妓連中が清元を勤めたというのは、竹村さんの話では、東をどりの前身である東会の時だそうである。
 菊村さんが『菊がさね』という本を出されたその年、昭和三十一年、荻江節の世界に歴史的な事件が起こるのだが、それについては次回に―――

コメントを残す