第71話 『古典鑑賞会(三) 笹川臨風博士と山彦秀翁』

 笹川臨風博士は、人名事典には、文学博士で評論家と載っているものが多いが、俳人でもあり、また歴史書から美術批評、小説まで多数の著書があり、その活動は多岐にわたっている。
 博士は『明治還魂紙』(めいじすきがえし)という随筆を昭和二十一年に出しているが、それをみると、邦楽界はもとより、和洋画壇から文壇、学者など、その交遊関係の広さに驚かされる。
 此処では以下、主として邦楽関係のことに限らせて貰うことにする。
 博士の『明治還魂紙』には「十寸見会」という章があって、そこに邦楽関係のことがまとめられているので、以下要約して説明を加えていく。
 博士は初め謡曲を習った。その後、歌沢(寅派)を稽古し、長唄や清元もやったが、長唄は「吾妻八景」、「松の緑」、「娘道成寺」の三番、清元は「北州」、「梅の春」、「喜撰」の三番、いつでも三つ、だった。「傾城水調子」を見て、河東節がやりたくなり、山彦秀翁に入門して、「熊野」から始める。
 山彦秀翁は、幕末最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶(死後、九代目河東を追号)の息の秀次郎で、後に秀翁と稱した。
 天保十二年(1841)生まれの秀翁は、山彦秀次郎の名で三味線方として活躍したが、維新後、河東節に見切りをつけたのか、道具屋となって渡米する。
 明治八年の『諸芸人名録』には秀次郎の名はなく、河東節の頭取世話人には山彦栄子の名が挙がっている。
 明治十八年刊の『東京流行細見記』の「十寸見や河東」のところに、山ひこ秀次郎とあるので、その少し前には帰国したと思われるのだが、どうもアメリカではあまりよいことがなかったらしく、渡米中のことを秀翁は口にしなかったので、渡米の時期や期間はもとより、アメリカでのことは殆ど不明のようだ。
 秀翁の話はちょっとおいて、山彦栄子についてーーー
 山彦栄子は柳橋の藤岡という船宿の娘で本名を大深ていと云い、天保九年(1838)に生まれた。
 秀翁より三才年長である。
 栄子は初め河東節を藤岡の女主人である母親のとくから習ったという。
『十寸見編年集』には、とくも栄子も山彦文子の弟子として出ている。
 山彦文子は可慶の妻、つまり秀翁の母で、安政五年(1858)に亡くなっている。
 河東節の「秋の霜」はその追善曲である。
 栄子の母のとくは、藤岡のお徳として知られた女性で、明治十一年頃の新聞には、荻江節の家元の四代目露友と一緒に、その名がよく出ている。露友とかなり親しかったと思われ、近江屋喜左衛門が四代目露友を襲名した経緯についてはよくわかっていないが、もしかしたら、この藤岡のお徳が仲介をしたのではないか、と密かに思っている。露友が米沢町に待合を出したのも、お徳の世話だったのかもしれない。
 露友は明治十七年に、お徳は明治二十四年に亡くなった。享年は、露友は五十九才、お徳は不明である。
 お徳の話はこれ位にして、娘の栄子の方に話を戻すが、秀翁が外国へ行ってしまった留守の間、河東節の連中は山彦栄子が中心となって活動していた。『諸芸人名録』の頭取世話人に、河東節では山彦栄子の名があったが他流はいずれも家元の名が出ている。ということは、栄子が河東節の家元的役割を担っていたということである。
 秀翁は九代目河東の十寸見可慶の倅であって、本来ならば当然、家元になるべき人物だが、河東節を捨てて外国へ行ってしまった。その秀翁が突然、また戻って来たのだから、栄子達は驚き、困惑したに違いない。
 帰国した秀翁にしてみれば、糊口を凌ぐ手段として手馴れた河東節を教えるのが一番手っとり早い。そうした秀翁をどう扱ったものか、栄子達は戸惑ったと思われる。
 秀翁は河東節の師匠を始めたが、栄子達とは別行動をとった。
 元々、父親の可慶の下で盛んに活躍していたこともあり、芸は確かな上に何といっても栄子と違って男性だったので、次第に弟子も増えて行った。その中に、アメリカで知り合った平岡吟舟がいた。
 吟舟は明治大正時代の実業家で、本名を煕(ひろし)といった。安政三年(1856)生まれの吟舟は明治四年十六才の時に渡米、汽車車輌製造技術を習得して、明治十年に帰国、車両製造工場を起して巨利を得た。各種の音曲に通じ、遊芸に散財したので平岡大尽と稱された。明治三十五年以来、伝統的声曲諸派の粋を集めて「東明節」を創始した。東明節は昭和五年に東明流と改稱。吟舟は昭和九年に死んだ。享年、七十九才。(平凡社『日本人名大辞典』より要約)
 吟舟と秀翁はアメリカで知り合ったというのが通説だが、それ以前に既に知己の間柄で、秀翁は留学のため渡米した吟舟の跡を追ってアメリカへ渡ったと書いてある本を見たことがある。どちらが本当なのか。日本出国の時、吟舟はまだ十六才だから、やはりアメリカで知り合ったという方が自然な気がする。
 帰国後、吟舟は熱烈な河東節の後援者となる。
 明治二十九年歌舞伎座での九代目團十郎最後の「助六由縁江戸桜」の時、頼まれて河東節連中として出演した吟舟の江戸時代の十寸見連を彷彿させる数々のエピソードは今でも語り草になっている。
 その時の助六は勿論、九代目團十郎で、揚巻は福助(後の五代目歌右衛門)、意休は有名な四代目芝翫で、古今無双の意休と評判が高かった。
 吟舟の他にも、愛知県選出の代議士の三浦逸平(十寸見東甫)、大和田主人の味沢貞次郎(十寸見東和)など、秀翁には有力な後援者が大勢いた。
 そんなわけで、河東節は自然、秀翁の派と栄子の派の二派に分かれることになった。
 栄子のグループを藤岡派と云い、秀翁のグループを真澄派といった。
 両派は反目し合っていた訳ではなく、両派の間には交流があって、芝居や河東節ゆかりの故人の追善会などには一緒に出演して協力し合っていた。
 山彦秀翁という人は奇人で数々のエピソードが伝わっているが、芸の方は正統派で、稽古はなかなか厳しかったという。
『明治還魂紙』に秀翁の奇行がいくつか出ているが、ある時、演奏の途中で突然三味線を下に置いて立ち上がってどこかへ行ってしまい、暫くして戻って来て演奏を続けた、という話などは中でも傑作だ。演奏仲間が後で、どうしたんですか、と訊くと、何小用に行ったのげす、と平気な顔で答えたという。
 秀翁はアメリカで生活したこともあってソーセージが好きというハイカラな一面もあったが、やはり生来の江戸っ子で、金持ちの贔屓や後援者より、当時の笹川臨風氏のような若い書生っぽが好きというつむじ曲がりの所があった。
 臨風博士は秀翁に好かれて、
「時々モンぺの股引に尻っぱしょりで、首に小さな風呂敷包を巻きつけた、翁の不意の訪問を受ける。風呂敷の中から取出すのは小鴨で、お土産である」
 と『明治還魂紙』に書いている。
 昨今の河東節の師匠は大抵、河東節と共に荻江節も教えている。実は、これには秀翁が係っているのだが、それについては長くなるので、次号で委しく触れることにする。
 秀翁は大正八年四月に不帰の人となった。行年、七十九才。
 秀翁の長男は河東節とは無縁で他家へ養子に行き、次男の猛次郎は山彦小文次といったが、父の秀翁との折り合いが悪く、喧嘩別れをして出て行ってしまい、その後間もなく秀翁は死んだという。秀翁の死後、小文次は家元を襲名、主として上方で活動していたが、昭和九年に亡くなった。
 以下、『明治還魂紙』に次のようにある。
「不思議な縁で、私(臨風)は最後まで出入をして、其(秀翁の)面倒を見てゐた。
 翁の歿後、此の流儀の絶えんことを遺憾とし、三浦東甫君と謀って十寸見会を起した。又翁の追善のために長命寺に碑を建て、後に之を三囲神社の境内に移した。(この碑は三囲神社に現存)邦楽調査会邦楽会も夙くに廃絶してゐたから、私は古曲鑑賞会を起して河東節の他に薗八、一中、荻江及地唄の保存を謀り、第一回を三越のホールに開催し、後には産業組合中央会館のホールを用ひ、事変まで二十何回となく開いた。正会員五百名余、臨時会員二三百名、此う云ふ会合では最も盛んであった。
 或時は京都の松本おさださんを招いて地唄舞をやり、又或時は文楽座の吉田文五郎、桐竹紋十郎を聘して薗八節の「小春治兵衛」を演じたりした。荻江の中絶したのを荻江ひさ氏が再興したが、私は家に招いて稽古した。振をつけたらば盛んになるだらうと、古曲鑑賞会で初めて若柳吉与志に「八島」を踊って貰ったが、果して之は中って盛になった。薗八の家元は都一中が之を預ってゐたが、一中歿後は私が之を預ることにした。
 斯ういふわけで警視庁が芸事を統制することになると、素人の私は実行委員にさせられ、長唄と三曲とを除いた邦楽のために邦楽協会が設けられて、其会長に挙げられ、一昨年(昭和二十年)の三月まで在任した」(以上、『明治還魂紙』の「十寸見会」より)
 山彦栄子はその後新富町に居を移したので、藤岡派は又、新富派ともいうようになった。栄子は秀翁が没した三年後の大正十一年、八十五才の生涯を終えた。
 古曲を心から愛していた笹川臨風博士は昭和二十四年四月十三日に死去した。享年、八十才だった。博士は亡くなったが、しかし、その遺志は現在の古曲会に受け継がれ、今も脈々と生きている。
                       —–この稿続く—–

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