第70話 『古曲鑑賞会(二)、「古曲への案内」』

 牧野良三氏(1885~1961)の「おもい出」には、上野の芸大に邦楽科が創設された経緯が書かれているので、次に挙げる。
「日本音楽について、わたくしには深いおもい出がある。
 大正七年の秋のことである。
原(敬)内閣が成立して政党内閣というものが初めてでき上がると、その文部大臣に中橋徳五郎さんが選ばれた。世間は、原首相の文教一新に関する大きな志を知らなかったものだから、この意外な人選に驚いた。文部省というところは、宮内庁と相並ぶ別格な役所であって、その大臣には、華族とか、役人を長くしてきた特別な人物とか、何れにするも社会から別格扱いをされる人物でなければならないものとされていた。そこへ、関西の実業家で、長い間大阪商船の社長をしていた民間人を選んだのだから、驚いたのは無理もない。今の東宮妃が選ばれた驚きと喜びとを逆にしたような空気だった。それで、政界も、言論界も、意地の悪るい小姑のような態度で、新文相の一言一行を、目ひき袖ひきして問題にしたものだった。
 その際のこと、文部大臣が当時秘書官をしていたわたくしを連れて上野の音楽学校へ出かけた。一と通り見てまわってから、先生や、父兄や、それに新聞記者を前にして、この学校では西洋音楽は教えているが、なぜ日本音楽を教えないのかといわれた。すると、それが忽ち問題にされて、翌日の新聞にデカデカと書き立てられて、文部大臣は学校と待合をゴッチャにしている、卑俗な文相の面目躍如たりと悪口した。日本の音楽というものはそんな風に、全く卑俗なものとされていたのである。
 すると中橋文部大臣は、サンザン悪口をされた揚げ句のこと、一つ世間の眼を開いてやろうじあないかといい出して、音楽学校に邦楽科設置の立案を命じた。それが、その後いよいよ実施されることになって、音楽学校に長唄科、清元科、常磐津科、義太夫科といった意外な学科が設けられ、高輪の家元(清元延寿太夫)を始め各家元の代表者が官立学校の奏任待遇の先生に任命されたんだから愉快だ。全く驚くべき教育界の革命で、三味線音楽のために万丈の気焔を吐いたものだった。
 この革命を心から喜んだ人に、当時の東大の教授笹川臨風博士があった。笹川さんの喜びといったらたいへんなもので、それ以来わたくしは大の仲よしになったのだが、その笹川さんが、いつも心にかけていたものが、この古曲であった。古曲には大衆性がとぼしいから、このままにして置いたら亡びてしまうといっていろいろに苦心し、保存に鑑賞に、それから歌詞の整理に、その心つかいは並み大抵なものではなかった」
 牧野良三氏は、この当時、文部大臣の秘書官だったが、後に代議士となり(岐阜県選出)、第三次鳩山内閣では法務大臣を務められた政治家である。
 中橋徳五郎氏(1864~1934)は此処にあるように実業家としても秀れた手腕をお持ちだったようだが、政治家として数々の実績を残された方である。即ち、大正七年の原(敬)内閣の時、文部大臣となり、その在任中、大学の昇格問題を始め、その他新時代に適応すべき斬新な方策を実施して旧弊を打破した功は大きいといわれている。(平凡社『日本人名大事典』)大正十年、原首相が凶刃に倒れた直後、組閣された高橋(是清)新内閣でも、中橋氏は文部大臣として留任し、その後、昭和の初めにかけて商工大臣、内務大臣を歴任した。
 笹川臨風氏については別に後述する。
 以上のような諸氏の文の後に、一部、二部の番組と、その出演者名が出ている。
 それに続いて、「古曲への案内」として、「古曲とはどういふものか」、「古曲は現在どうなっているか」、「古曲はどう味はったらよいのか」についての懇切丁寧な解説が載っている。
 著者名がないので誰が書いたのか分からないが、文章やその内容からみて田中青滋先生ではないかと思われる。
 田中先生は河東節十寸見会の対外的な代表者でもあり、後に古曲会の理事長になられた方である。  最初の「古曲とはどういふものか」の冒頭に次のようにある。
「古曲といふ言葉は、三味線邦楽の内、常磐津、清元、長唄、乃至は義太夫節などと、何か一線を劃したい気持から、およそ大正はじめ頃から称へられた言葉で、一中節、河東節、荻江節、宮薗節を指し、その頃は上方の繁太夫ぶしなどもこの内に加へてありましたが、只今ではこれは地唄、箏曲の部にゆづり、前記四派を総括して古曲と呼ばれて居ります」

   私が古曲鑑賞会に行き始めたのは昭和二十年代の後半だったが、その頃の古曲鑑賞会の会場は美術倶楽部で、椅子席ではなく畳敷きの広間に一段高い舞台があって、出演者はそこで演奏し、聴衆は畳の上に座ったり胡座をかいたりして、それに耳を傾けたものである。
 その時分には、確かに演奏曲目の中に地唄が入っていて、いつも富崎春昇師が出演されていた。時には富山清琴師を伴って演奏されることもあった。繁太夫節の「千鳥」とか、「荒れ鼠」とか、聴いた記憶がある。
 いつ頃から地唄が無くなったのか、はっきり覚えていないが、昭和三十年に古曲会が設立されて古曲鑑賞会が演奏会名になってしまってからのことかもしれない。この「古曲とはどういふものか」の後の方には、一中、河東、宮薗、荻江について夫々簡単な説明があり、次の「古曲は現在どうなっているか」と合わせて、古曲各流派の成立から昭和三十四年に至るまでの歴史がコンパクトにまとめられていて、これらを読むと、古曲に関する基礎的な知識が得られるように書かれている。
 一般的にあまり知られていないことも書いてあるのだが、それにはいずれ後で触れることにして、以上で「古曲とはどういふものか」と「古曲は現在どうなってゐるか」については終わる。さて次の「古曲はどう味はったらよいのか」の章だが、なかなか含蓄に富んだ文で、古曲を鑑賞する上でのヒントにでもなればと思って、全文を挙げることにした。
 「古曲は武蔵野の紫(植物)である。放っておけば亡びてしまふ。それは何故か。
 わからないからである。ぴったり来ないからである。退くつである。くすみすぎている、等々々。
 それは一々御尤でありますが、およそ芸術には、早わかりのする芸術と、熟視玩味してはじめて味の出る芸術と、両様が存するやうです。古い芸術品は、とかく、さう易々と門戸をひらいては居らぬもののやうです。古曲は音楽を極めた人とか、芸術鑑賞に造詣の深い人とかから讃嘆の声を放たれることが屡々でありますが、これは古曲に、どこか古美術のよさに通ずるよさが蔵されている証左であります。一時、短歌の世界で、万葉にかへれ、といふ運動があった事がありました。古曲に対する私共の認識も、万葉にかへれ、のあの声に似、古いものに新しい美を見出しておどろくそれがあるのであります。この復古主義の精神は決してただ単なる老人好み、古さのみを求める頑迷な自己陶酔でないことは、古曲とお親しみ下さることによって、徐々に諒解して頂くことが出来るでありませう。
 各派鑑賞の基礎となるヒントを申上げておきますと———
 古曲は大別して上方系のものと江戸系のものとの二つに分けられます。一中、宮薗を上方系、河東、荻江を江戸系とします。
 上方系は大体情感を主とし、江戸系は情意を主としています。上方系の三味線の糸は太めなので、さわりと余韻がつけ易く、味が出ます。江戸系は三味線の糸が細いので、余韻がつけにくく、きっぱりとか、さらりとか、さうした音以外に生命を託します。化粧の濃くない、水髪の女などの好まれた、あの嗜好でせうか。
 一中節には師宣の絵の、あの大まかな、温いものが一本通って居ります。宮薗はただ嫋々と情痴の世界を語ります。河東は張りと意気地の吉原とか、市川団十郎の芸風に似ています。荻江は深川の素足でせうか。
 勿論、この基礎的なものを、各時代、各作曲者、各演奏者によって、千姿万様の差違を生ぜしめているのであります。
 これらの点を、古曲とお親しみ下さることによって、お究め下さることを望ましく存じます。
 以上がごく駆け足の、古曲の国御案内でありました」
 別会のプロでは、この「古曲への案内」に続いて、「古曲会会則」が出ているが、その最後に、古曲会とあって、次いで、前出の委員長、篠原治氏と三名の常任委員の名があり、更にそれに続いて、委員として各流派を代表する十五名の人達が並んでいる。カッコ内は筆者の注。
 都一中(十一世)、菅野序遊(五世)、宇治紫文(五世)—–[以上、一中節]
 宮薗千寿(三世)、宮薗千幸(後の四世千寿)、宮薗千之(四世)、宮薗千富—–[以上、宮薗節]
 中川とり(山彦寿美江)、山彦文子(二世)、山彦静子(新橋五郎丸)、山彦やな子、山彦河良(六世)—–[以上、河東節]
 荻江阿く里、荻江いね(山彦紫存)、荻江玲(新橋美代菊)—–[以上、荻江節]
 いずれも名人上手と誉れの高かった方々であるが、以来今年まで四十七年、半世紀になんなんとする歳月が流れて、今は皆、鬼籍に入られてしまった。
 時の重みを感ぜざるを得ない。
 別会のプロには、この頃の古曲鑑賞会のプロのすべてそうだったように、一番最後に各流派の名取の名簿が載っている。
 いま頁を繰ってみると、懐かしい人々の名前が数多くあり、今昔の思いに耐えない。

   次回は、笹川臨風博士について——-

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