第6話 『六条河原院その2』と『夕顔』

源融が河原院で催した酒宴

源融が六条河原院の邸に陸奥の塩釜の景色を模した庭を造り、毎日難波の浦から海水を運ばせて塩焼きをして楽しんだという話は前号に書いた。

江戸時代の京都の地図を見ると、五條の今の麩屋町通り辺りに塩釜町の名が見え、そこが河原院の塩釜の跡だったという。又、高瀬川にかかる五條小橋の畔に「河原院跡」の石碑が建っている。

それから推定すると、河原院は南北は五條から六條にかけて、東西は鴨川から少なくとも麩屋町通りの辺りまであったと思われる。

源融は河原院の他、宇治や嵯峨にも別邸を持っていて、宇治の平等院、嵯峨の清凉寺がその跡だという。『伊勢物語』にも河原院のことが出てくる。(第八十段)

源融が十月晦日に親王方のお出ましを頂いて夜を徹して酒宴を催した。夜が明ける頃、人々はその御殿の奥床しい様を褒めたたえる歌を詠んだが、そのとき、そこにいた乞食のようにみすぼらしい老人が、人々が詠み終わるのを待って、次の一首を詠んだ。

「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに 釣りする舟はここによらなむ」

今昔物語にみる河原院

源融は宇多天皇の寛平七年(895)に死んだが、その没後、彼の子孫が河原院を「宇多の院に献じた」ということが『今昔物語』にみえる。

宇多天皇は寛平九年(897)皇位を醍醐天皇に譲って太上天皇となり、昌泰二年(899)落飾して法皇となった。

延喜四年(904)に仁和寺へ移られた(それで御室の稱が起きたという)ので、それ以前のことになるが、献じられた河原院に住まわれたようだ。醍醐天皇も父君の御住居となった河原院へ何度も行幸されたという。

その河原院に源融の亡霊が出てくる話が『今昔物語』に載っている。(巻二十七の第二)宇多法皇が崩御(931)された後、河原院は住む人もなく荒れ果てていたようだ。

紀貫之(?~946)がその荒廃した河原院を訪れた時のことが同じく『今昔物語』の巻二十四の第四十六に出ている。

「土佐より上がりて行きて見ける」

とあるので、貫之が土佐守の任期を終えて京へ帰った承平六年(936)頃のことだろう。その京へ戻る道中の日記が有名な『土佐日記』である。貫之は河原院で次の歌を詠んだ。

「君まさでけぶりたえにし塩がまの うら寂しくも見えにけるかな」

この歌は『古今和歌集』の巻十六にも載っているが、君というのは勿論、左大臣源融のことである。

『源氏物語』の『夕顔』

『源氏物語』の『夕顔』では、乳母の見舞いに行った光源氏が夕顔の花が咲いているのを見て手折らせたところ、花を載せてきた、香を焚き込めた白扇に歌が書きつけてある。

「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」

あなたは光源氏様でしょう、といった意味が込められているようだ。それに対して、光源氏は、

「寄りてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見つる花の夕顔」

と返す。このくだりは能の『夕顔』にはない。能には『源氏物語』を題材にした作品が少なくないが、『夕顔』もその一つだ。

能の『夕顔』は、豊後から男山八幡へ参詣のため都へ上がって来た僧が、五條辺りに来かかると、

「山の端の心も知らず行く月は 上の空にて影や絶えなん」

と、女の歌を吟ずる声が聞こえるところから始まる。(この夕顔の歌は、地唄や荻江節の『山姥』の冒頭にも出てくる)出て来た女に、

「此処はどこか」

と僧が尋ねると、

「源氏物語にはただ何某の院とあるが、実は源融の河原院の跡である」

と女は答える。(『源氏物語』には確かに、何某の院とあるだけで、はっきり河原院とは書いていないが、『源氏物語』の古注では、河原院としてあるようだ)

女は、その場所こそ夕顔が六條御息所の生霊とおぼしき物の怪に襲われて死んだ所だと云い、光源氏と夕顔の物語をして消える。

後ジテでは、月下で読経をしている僧の前に夕顔が現れて舞いを舞い、僧の回向のお陰で成佛出来たことを喜んで、かわたれの雲に紛れて消えて行く。

以上が、能『夕顔』の粗筋である。

紫式部の頃の河原院は『源氏物語』の記述からすると、かなり荒廃しているものの、まだ所有は天皇家のものだったようだ。(『源氏物語』の中で、河原院と思われる「何某の院」へ光源氏が夕顔を伴って来た時、管理人を呼んで、中へ入っている)

紫式部の生没年ははっきりしていないが、長保三年(1001)に夫、藤原宣孝と死別して、その後『源氏物語』を書いたといわれているから、『源氏物語』に書かれている河原院の様子は十一世紀のごく初頭のものだろう。
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その後の河原院

その後の河原院については同じく『今昔物語』の巻二十四の第四十六に、寺になって安法君という僧が住んだとある。安法法師は歌人で、源融の曾孫に当たる。天皇家から源融の子孫に再びお下げ渡しになったということか。

「冬の夜月いみじくあかかりけるに、かくなむ読みける」

と、安法が詠んだ、

「天の原そこさへ冴えやわたるらむ 氷とみゆる冬の夜の月」

という歌が出ている。安法の生没年は不明なので、年代を特定するのは難しい。

『今昔物語』のその続きに「その寺の西の対の西面」に大きな松があって、能因法師がその寺へやって来て、

「年ふればかはらに松は生ひにけり 子の日しつべきねやの上かな」

という歌を詠んだという。そのあとの記述に源道濟(歌人)の名が出てくる。

能因の生年は永延二年(988)らしいが、没年はわからない。道濟の生年は不明だが、没年は寛仁三年(1019)のようだ。とすると、その頃までは安法の寺はあったのだろう。

その後、安法の寺(河原院跡)は更に荒れ果てて、その松もある年、風で倒れてしまった。

「その院今は小宅どもにて堂ばかりとなむ語り伝へたるとや」(巻二十四の第四十六)

とある。

『今昔物語』の成立は平安末期といわれているから、その時分には河原院は跡かたもなくなり、小さな家や寺が建ち並ぶ、ごく普通の町並みに変わっていたのだろう。枳穀邸の辺りにのみ、わずかに昔の河原院の面影を残して—–。

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