第69話 『古曲鑑賞会(一)、別会のプログラム』

 昨年の八月、永年住み馴れた自宅地にマンションが建つことになり、出来上がるまでの間、近所に仮住まいすることになって引っ越したが、何分、何十年ぶりの引っ越しで荷物の整理が大変だった。
 結局、整理がつかないまま引っ越しの期日が来てしまい、何も彼も一緒くたに箱に詰めて新居に運ぶ羽目になってしまった為、どこに何が入っているのか、さっぱりわからずに困っている。今年の夏頃までには新築のマンションの方へ移ることがわかっているだけに、どうせなら多少不自由な思いをしても運んで来た荷物をそのままにしておけば、持って帰る時の手間が省けるのではないか、と決め込んでいるのだが、一番困ったのはメモや資料類の行方で、おかげで原稿を書くのに苦労している。
 しかし、引っ越しのせいで嫌な思いばかりした訳ではなく、荷物の整理中に全く忘れていたものが思いがけず出て来たというハプニングもあった。
 昭和三十四年二月二十一日に新橋演舞場で催された古典鑑賞会の別会のプログラムもその一つだ。主催は古曲会である。
 現在の古曲会が財団法人になったのは昭和三十七年であるから、それ以前の古曲会の時代である。
 この別会は古曲会としては画期的な大規模な会で、昼夜二部、各十二番づつ、第一部の十二番の内、舞踊が八番。第二部十二番では舞踊が七番で、立方は、武原はん、神崎ひで、川口秀子、花柳寿輔、花柳寛(芳次郎)、西川鯉三郎、尾上菊之丞、藤間勘右衛門、藤間友章などの錚々たる師匠連の外、新橋からは、まり千代、小くに、染福、ゆみ、赤坂は時丸、柳橋は津満子、芳町は二郎、浅草は光乃、といった芸妓達が顔を揃えての出演となっている。これらには、古曲会の並々ならぬ意図があったようである。
 それについて、プロには「古曲鑑賞会別会開催の趣旨」という文が出ていて、その後に、河竹繁俊、久保田万太郎、町田嘉章、牧野良三、篠原治、吉田幸三郎などの方々の寄稿文が載っている。
 いずれも短文ではあるが、古曲や古曲会について重要で興味深いことが書かれている。
 こんな五十年近くも昔のプログラムを持っている人も殆んどいないだろうから、以下出来得る限り紹介させて貰うことにする。
 まず、最初の「古典鑑賞会別会開催の趣旨」だが、次のように出ている。(要約)
「古典鑑賞会は昭和八年に笹川臨風氏が創始、昭和十六年春までに十六回開催した。戦後笹川氏より田中啓文、篠原治、吉田幸三郎氏が再建を依頼され、昭和二十一年十一月に復活発会し各派の独立の会をつくり育成の事業と共に二十一回開催したが、昭和三十年に古典鑑賞会を改組し各派を挙って糾合し古典会を設立、古典鑑賞会は演奏会名として二回開催した。合計すると古典鑑賞会の開催回数は三十九回でこの別会は第四十回目に当たる」
 と古典会の歴史についての説明があり、続いて、
「古典は如何にも繊細な芸風のため、多く小さな会場で催されるので、多数の方々の鑑賞を願うことが出来ず、限られた鑑賞者のみの世界に置かれていたといえる。多数の新しい鑑賞者を得るためにも大きな会場で開催することは年来の希望だった。昔は古典も大劇場で踊りがついて演じられたものなのだが、芸が進歩して繊細になるにつれて座敷に移り、素浄瑠璃となり渋く難しくなって来たのである。この芸風はあくまで保存すべきであるが、一度昔の舞台に返して昔の如く踊りをつけてみるのも古典発展のために必要と思っていたので、この別会開催に当たり舞踊をつけた番組を多くした訳である」
 と開催の趣旨を述べている。
 最後に、古典会とあって、続いて、都会、菅野会、宇治会(以上、一中節)、十寸見会(河東節)、千之会、千寿会(以上、宮薗節)、荻江会(荻江節)と七行に各会の名が並んでいる。
 現在、古曲と呼んでいるのは、一中節、河東節、宮薗節、荻江節の四流だが、そのことについて、同じプログラムに載っている町田嘉章氏の寄稿文「古曲をもっと日の当る場所へ」に、次のようにある。(全文) 「河東、一中、宮薗、荻江などそれぞれ発生も伝承も異なっている音曲を一まとめにして「古曲」と呼ぶようになったのは大正の終わりから昭和へかけて以後のことで、大正十四年にラジオ放送が開始された当時は、これらの音曲を一般大衆は殆んど知らなかったので、その頃番組の編成のお手伝いをしていた私が便宜上附けたのでした。その当時のことを有体に申しますと河東や一中を他の長唄や箏曲等とおなじ扱いでプロに組みますと「放送局は何故あんな間のびのした面白くないものを放送するのか」といった攻撃の投書が山積したのです。つまり自分が高度な鑑賞能力が無いため理解することが出来ず、放送局を攻撃してきたのです。それでこれからの音曲は一般聴取者が理解する能力が出来るまでは娯楽番組としてではなく寧ろ教養番組として一ヶ月に一回位は「古曲の午后」とか「古曲の夕べ」というようなタイトルにして故笹川臨風博士などに簡単な解説をお願いするようにしたものです。然しその後間も無く「古曲鑑賞会」が結成され、関係者諸氏の異常なる努力により保存ということより寧ろ積極的に大衆を教育してその芸の妙味を理解させようとする啓蒙運動が着々として進んでいたのは、誠に心強い次第でした。然しそれも戦争という不祥事のために一時中絶を余儀なくされましたが戦後は古曲鑑賞会も復活、それが更に古曲会となって総ての点が整備されたのは嬉しい限りです。また放送などの場合にも、もう以前と違って長唄や清元などの種目に伍して宮薗や荻江の名が出ても別に聴取者は苦情を言わなくなったということは大変な進歩で、昔から邦楽ファンと呼ばれる人達の間でも非常な向上が見られている一つの証左だと思っております。
 今や古曲は日蔭の片隅に置かれるべきでなく堂々と堂々と日の当る所へ出て自己の存在を主張すべき時期に到着したと思います」
 古曲と言う名稱は町田嘉章氏がつけたと聞いていたが、この文から正にその通りとわかる。文中に出ている笹川臨風氏は、前出の「別会開催の趣旨」にあったように古曲鑑賞会の創始者である。古曲会の歴史について述べている同じ文中に出ている人名の内、田中啓文氏については全く存じ上げないが、篠原治氏は有名な新橋の菊村さんで、一中節の人間国宝、都一広師でもある。又、吉田幸三郎氏は古曲会の大恩人ともいうべき方で、表立つことを嫌って陰で経済的援助も含めて古曲会のために尽力された。古曲関係者で氏の恩にあずかった者は数知れない。我々は氏を吉田先生と呼んでいたが、先生は目黒の大地主の跡取りだった。先生は今村紫紅等、日本画家の後援もしておられたが、その中に速水御舟もいた。その御舟は先生の家に滞在して画を描いていたのが縁で、先生の妹の弥さんと結婚した。
「御舟はボクの義弟なんだよ」
 と先生が私にいわれたことがあったのを思い出す。
 先生は裏方に徹しておられたので、人名事典などには載っていないが、西の武智(鉄二)に東の吉田、といわれたこともあったようだ。
 町田嘉章氏に続いて、河竹繁俊氏の「国宝的な古曲」と題する文を次に挙げる。
 文の前後の半分位は儀礼的な祝詞やお定まりの挨拶なので、その部分は省畧する。
「(前畧)さてまた、古曲がいかに大切な無形文化財であるかは申すまでもありません。今の世の中にジャズや歌謡曲のように、むやみにワイワイされずとも、江戸時代の音楽の中での古典的価値あるものとして、また現行邦楽の源泉としてこれほど大切なものはないと信じております。これを保存し研究して下さることは、国の文化財——国宝をまもっていただくことに相当します。そうしてこの古曲が保存されていてこそ、新らしいよい音楽も生まれてくるのであります。
 一例をあげますと、長唄の「勧進帳」がいいたとえです。歌舞伎十八番の「勧進帳」が初演されるときの作曲者杵屋六翁は、一中節の「勧進帳」を大変参考にしたということは広く知れわたっております。わたくしどもが聴きましても、至るところに一中節の「勧進帳」のにおいがいたします。つまり名曲と呼ばれる長唄の「勧進帳」も一中節があったればこそ生まれてきたのでありました。ここに古曲のネウチ有難味があるではありませんか。ちょうど法隆寺や桂の離宮その他の国宝建造物が、文化財として保存されていたればこそ、新らしい時代の日本建築が生まれるのと少しも変りありません。(以下畧)」
 久保田万太郎氏の「春立の———」は、一ひねりしてはいるものの、内容はお付き合いに書いた御祝いの辞といった感じで、特に記すべき程のものはない。最後に出ている俳句だけを挙げておく。
 ——立春の日かげあまねき障子かな
 後先になったが、この時の古曲会の委員長は篠原治氏、常任委員として、吉田幸三郎、田中青滋、池田英之助の三氏が名を連ねている。
 この別会のプロに載っている篠原治氏と吉田先生の文は、夫々、委員長と常任委員を引き受けたことについての弁で、特筆すべきことはない。
 その他の牧野良三氏の「おもい出」と田中青滋先生が書いたと思われる「古曲への案内」については次回に——-

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