第68話 『九鬼周造の随筆(三)、煩悩の色』

 九鬼周造には、哲学の論文以外に、随筆や詩、また前稿に挙げたように短歌の作もある。
 個人的な好みでいうと、短歌はいいが、詩はあまり好きではない。
 好みの問題だから別に理由など要らないのだが、強いていえば、短歌には、周造の哲学者としての表の顔の知とは対稱的な情の面が、勿論全部が全部ではないが、素直に出ていて共感を覚える。しかし、詩はそれと比較して、饒舌で理屈っぽく、あまり好きになれない。
 彼の短歌集から、いくつか挙げると、

 世に反く癖を見つめてさびしくも
    つむじまがりが笑ふ一時

 書棚(ふみだな)の認識論を手にとりて
    いつしか積みし塵を払ひぬ

 灰色の抽象の世に住まんには
    濃きに過ぎたる煩悩の色

 範疇にとらへがたかる己が身を
    我となげきて経つる幾とせ

 現実のかをりのゆえに直観の
    哲学を善しと云ふは誰が子ぞ

 「悪の華」と「実践理性批判」とが
    せせら笑へり肩をならべて

 時にまたヅアラトゥストラの教へたる
    のどけき笑ひ内よりぞ湧く

 ——以上七首は『巴里小曲』の「スケルツォ」の中から、哲学的な歌を撰んだ。

 若盛りもえつつ匂ふ恋をせし
    その日を今日になす身ともがな

 加特力(カトリック)の尼となりにし恋人も
    年へだたりぬ今いかならん

 ——同じく「セレナード」の中の二首だが、後の歌は修道院に入ってしまった初恋の人、親友の山下壮一の妹のことを詠んだものである。
 別な『巴里心景』という歌集から四首。

 老いたまふ父を夢みし寝ざめより
    旅の枕のぬるる初秋

 とぼとぼとわが辿る道ひとすぢの
    真理に喘ぐ心は寂し

 ドン・ジュアンの血の幾しづく身のうちに
    流るることを恥かしとせず

 かぎりなき矛盾のなかに悩みつつ
    死ぬ日の鐘や哀しからまし

 これらの中の「灰色の抽象の中に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色」という歌は、九鬼周造について書かれたものには大抵載っている。歌の巧拙は別にして、彼の心の奥が覗いてみえるからかもしれない。
 九鬼周造を評して、文学的哲学者といった人がいるが、彼は冷徹な哲学者たりえず、生涯、知と情の葛藤に悩んでいたようにみえる。それだけ感情が豊かだったのだろう。
 周造に『小唄のレコード』という随筆がある。四百字詰めの原稿用紙で三枚程の短文だが、今迄目を通した彼の随筆集にはどれにも載っていた。彼の随筆の代表作とはいえないが、哲学者でありながら、また情の人でもあった九鬼周造の一面がよく出ている作品である。
 その『小唄のレコード』の初めに、
「林芙美子女史が北京の旅の帰りに京都へ寄った。秋の夜だった」
 とある。林芙美子は作家で、『放浪記』や『浮雲』の著者である。彼女は、ドイツ文学者の成瀬無極と同道して、周造宅を訪れた。
 この訪問を昭和十六年のこととした本を見たが、九鬼周造はその年の五月に亡くなっているので、十六年の秋である筈がない。
『小唄のレコード』の、その後に続いて、
「(林芙美子は)日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や支那女性の現代的覚醒を驚嘆していた」
 とあるので、日支事変の後であることは間違いない。しかも、排日問題などとあるところを見ると、事変勃発直後というより、もう少し後のことのようだ。
 この『小唄のレコード』の執筆時期は不明となっているが、以上のことからすると、林芙美子が周造宅を訪ねたのは昭和十四、五年頃の秋のことで、筆を起こしたのはその後になるから、周造の最晩年の作といってよさそうだ。
 その時のことである。
 林芙美子が何かの拍子に小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた、とある。勿論、当時はまだ、CDやLPもない、SP盤の時代である。
 以下は、原文を引用させて貰う。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」
 と女史(林芙美子)がいった。私(周造)はその言葉に心の底から共鳴して、
「私もほんとうにそのとおりと思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」
 といった。すると無極(成瀬)氏は喜びを満面にあらわして、
「いままであなたはそういうことをいわなかったではないか」
 と私に詰(なじ)るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の目から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。
 無極氏は、
「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」
 といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは、黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる二人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。

 私は端唄や小唄を聞くと全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。(中略)私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる。

 ——この昭和十四、五年頃といえば、戦争の足音がヒタヒタと身近に迫っていた時代である。そうした背景を想定しながら、この『小唄のレコード』に書かれた場面を心に思い浮かべると、何ともいえない感慨に打たれる。
 三人が聴いた小唄がどういう唄だったのか、わからないのが残念だ。
 文中には、それを捜す手がかりらしいことは何も書かれていない。
 小唄の流派は今でこそ何十とあるようだが、戦前は数える程しかなかった。
 そのレコードといえば、蓼胡蝶とか、春日とよとか、いった人達のものと思われる。
 SPの小盤は片面三分位しか入らないが、小唄は短いので片面に二、三曲入っていた。SPプレヤーの大きなものは電気蓄音機、通稱[電蓄]といった。針は金属製で片面をかける度に交換した。
 戦争が激しくなった昭和十八年頃以降は、金属はすべて軍事用に供出となり、レコードの針も竹針となったのを覚えている。
 音質も今のCD、MDなどとは勿論、LPなどよりも比較にならない程悪く、特に針の音がひどかった。
 そういう悪条件の中で聴いた小唄に三人は感動したのである。
 そのことについて、周造は、
「(小唄を)肉声で聴く場合には色々の煩わしさが伴ってかえって心の沈潜が妨げられることがあるが、レコードは旋律だけの純粋な領域をつくってくれるのでその中へ魂が丸裸で飛び込むことができる」(『小唄のレコード』)
 といっている。
 小唄のレコードを聞いて、ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる、と書いている周造は、灰色の知の抽象の世界より、むしろ情の流れに身を任せたいと思っていたのだろう。
 九鬼周造は『小唄のレコード』の最後を、誰かの詩の一節かもしれないが、次のようなフランス語で結んでいる。

 Avalanche, veux – tu mユemporter dans ta chute?
 ( 雪崩よ、汝が落下の裡に我を連れよかし )

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