第67話 『九鬼周造の随筆(二)、歌沢節』

 歌沢節は端唄から出たものである。
 抑々短い唄を端唄とか、小唄というのだが、今使われているような邦楽の一ジャンルとしてそれを説明するのは難しい。前に長唄について書いたことがあったが、長唄も元々は長い唄という意味で使われていたものが、邦楽の一ジャンル名になったのと同じで、言葉は同一でも意味は全然違っている。江戸時代の端唄、小唄は、短い流行り唄と考えていいだろう。
 その端唄について、『守貞漫稿』に、
「端唄 はうたと訓ず時々変化流布する小唄の類を云惣名長唄に対する名目歟 嘉永の頃より歌沢某なる者初めて師匠となり一家をなし種々の小唄を三絃とともに教授す是亦浄瑠璃の類と同く名取と云て免許を受たる門人出来り江戸諸所に歌沢某と云う表札を掛けて稽古所を構ふ此行嘉永以前更に無之是亦今世一種遊民の業となる」
 とある。
 幕末(天保の終わり以後 1840~ )、本所割下水に笹本彦太郎という旗本の隠居が住んでいた。
 彦太郎は俗名を金平、寉賀と号したという。
 本所の割下水というのは南北あって、今は両方とも埋め立てられてないが、北の割下水というのは今の春日通りに当たり、南の方は両国の江戸博物館の前から東に伸びる北斎通りがそれである。
 ただ割下水といった時は南割下水を指し、北の場合は必ず北をつけて北の割下水と呼んだという。
 彦太郎というのは笹本家代々の名で、金平は隠居して笹丸と名乗ったというが、その他にも隠居する前は金十郎といったと書いてある本もある。
 以下は『伝衢事記』という本の記述によるが、
 ——金平は老娼妓二人を妾として暮らしていた。端唄が好きで江戸中の端唄上手を聞いて廻り、その者達を自宅に招いて馳走をしたりして隠居生活を楽しんでいたが、少しもおごりがましいところがなかったので、金平の隠居所に出入りする者は数十人に及んだ。声が自慢の端唄好きの連中ばかりで、興に乗って深更に及ぶと、金平は彼等を泊めてやり、翌朝、歯みがき一袋、楊子一本(歯ブラシ)、湯銭一人前分を渡し、朝食を振る舞った。その朝食の時、夫々の名を書いた紙の箸入れを渡した。食事の後、その箸入れを台所の箸さしに並べて差して置くので、後日来た者がその箸さしの名前を見て、あいつも来たのか、こいつも来たのか、と此の家に自分の名を書いた箸入れがあるのを、端唄自慢の連中は栄誉にした、という。
 やがて彼等は金平を盛り立てて歌沢節の始祖とした。即ち、歌沢笹丸である。
 金平には自分が家元になろうなどという気は更になかったようなのだが、公の認可を得る手続きの都合上、家元として届け出たという。安政四年(1857)、大和掾という掾号が下り、金平は歌沢大和掾となったが、すぐ家元を平虎といわれた畳屋の寅右衛門に譲り、その年に死んだ。享年、六十一才。『伝衢事記』には、金平は金十郎となっていて、金十郎は役職にある時の名、と割注がある。
 十九世紀初頭の文化、文政の頃から端唄、俗曲などが盛んになり流行した。都々逸が出来たのも此の頃である。
 水野越前の天保の改革の後も端唄ブームで、××連と稱する端唄愛好者のグループが多数あったが、その中でも歌沢節のグループが一番だったといわれている。
 そのメンバーというのは、いわずと知れた笹本の隠居所に出入りの連中で、主だった者には歌沢節の二代目家元となった平虎の畳屋寅右衛門の他、御家人の柴田金吉、は組の火消しの辻音、同じく稲荷の滝、木挽町の船宿の息子の吉川の藤七、い組の火消しの蛇の茂兵衛等、いずれも江戸で端唄の上手として知られた面々だった。
 この内、柴田金吉(金之丞とする書もある)の通稱芝金は、平虎が二代目家元となると、別れて哥沢芝金と名乗り、文久二年(1862)に土佐掾を受領して哥沢土佐掾となった。
 芝金は「歌沢」ではなく「哥沢」と稱したので、双方を総稱する時には「うた沢」というようになり、夫々の家元の名をとって、寅右衛門の方を寅派、芝金の方を芝派と呼ぶようになった。
 その他のメンバーの内、船宿の悴の吉川藤七は後に一中節の太夫、都以中となった。小唄の作曲もあり、「空や久しく」という唄は今でもよく唄われている。
 蛇の茂兵衛は明治になって小唄政寿と名乗って芸人の鑑札を受けた。
 初代歌沢節の家元笹本彦太郎については、旗本の隠居としか書いていない本が多いので、書き加えて置く。
 笹本彦太郎は五百俵取りの旗本で、御書院番だった。
 御書院番とは御小姓組とともに両御番といって、将軍の親衛隊ともいうべき役柄で、家柄の良い武士しかなれなかった。
 笹本家では、当主は代々彦太郎を名乗ったようで、金平の父の彦太郎は西丸の御目付を勤めていた。
 金平の彦太郎が家督を譲って隠居したのは天保十一年(1840)で、次代の彦太郎は嘉永三年(1850)十二月に御番入りして、西丸御書院番を命じられている。
 この新彦太郎は養子で、実父は大番を勤めていた戸田大次郎とある。
 禄高五百俵といえば、決して大身の旗本とはいえない。
 五百俵というのは所謂俵とりで、石高に直すと、大体一俵一石と換算して五百石取りの知行とりと同じと考えていいだろう。
 その旗本の隠居が、二人の妾を持って、大勢の連中を毎晩のように自宅へ呼んで馳走する程の余裕があるとは思えない。
 もしかしたら、旗本の株を自分の老後の保証を条件に売ったのかもしれない。
 つまり、新彦太郎は、侍になりたい裕福な町人の悴か何かで、金平の彦太郎は自分の老後を保証してくれる約束で、彼を戸田大次郎の息子ということにして養子にしたのではないか、ということである。
 これらは推測だが、金平の優雅な隠居生活には何か裏がなければ、とても五百俵という禄高だけで出来ることではない。
 笹本家は本所緑町に五百五十坪の屋敷を与えられている。
 緑町の北側は武家屋敷になっていたとあるから、その一部は南割下水に接していたと思われる。
 金平は南割下水に住んでいたというが、金平の隠居所は笹本の屋敷の外にあった訳ではなく、屋敷内の一隅にあったのだろう。

 九鬼周造が誰から歌沢節を習ったのか、調べればわかることかもしれないが、大体の想像はつく。
 周造の家の環境からみて、一流の師匠についたに違いない。
 又、その時期は、学生時代の明治の末年から洋行する大正十年までの間と考えられる。
 周造は、短歌の中で「歌沢」といっているので、そのまま受けとれば寅派の師匠についていたことになる。
 しかし、一般的な「うた沢」のつもりで、そう書いたとすれば、芝派の師匠だった可能性もある。
 そこで、派にとらわれず、以上に該当しそうな師匠を捜すと、次の三名になる。
 寅派ならば、明治三十八年に家元を襲名した三代目歌沢寅右衛門、芝派ならば、明治四十一年に四代目を相続した哥沢芝金か、或いは、その姉の芝勢以。
 明治から大正にかけて、盛んだったのは芝派の方で、寅派の方は二代目寅右衛門が一時その活動を止めていたこともあって、芝派に遅れをとっていた。
 そう考えると、普通には芝派のうた沢を習ったと思われるのだが、「歌沢の師匠も恋し」という文句から、ただ過ぎし日を懐しがっているだけでなく、妙に艶っぽい女性を想像してしまう。
 三代目寅右衛門については、よくは知らないのだが、美和といった二代目(三代目の母)は大変な美人だったというから、三代目も美人だったと思われ、何か周造が短歌に詠んだ歌沢の師匠は三代目寅右衛門ではなかったかという気がしないでもない。
 周造が短歌の中に挙げている「しんむらさき」、「うす墨」という曲名からも、筆者よりうた沢に委しい人なら、彼が何派の師についたのか、わかるかもしれない。曲がその派固有のものであればの話だが——–。残念ながら、私にはわからない。
 うた沢節は端唄から出たもの、と此の章の冒頭に書いた。
 初期の頃は、普通の端唄とそれ程唄い方に大きな違いはなかったと思われるのだが、今では聞けばすぐ分かる程違っている。
 テンポがゆっくりで、息を長く、節を細かに唄うのがうた沢節の特徴である。
 三味線はあしらいで、唄が主の音曲である。

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