第66話 『九鬼周造の随筆(一)、小伝』

『いきの構造』を書いた哲学者、九鬼周造は、男爵九鬼隆一の四男として明治廿一年二月十五日に、東京の芝で生まれた。
 周造の父の九鬼隆一は、明治政府の高官で、特に美術行政に大きな足跡をのこした人物として知られているが、周造が生まれた時はまだ男爵になっていない。男爵になったのは周造が八才の時という。
 隆一の妻のはつが周造を身籠った時、隆一は駐米全権公使としてワシントンに駐在していた。
 隆一は、はつを日本で出産させるため、岡倉天心に頼んで、天心と同じ船で帰国させた。
 その天心について周造の随筆『岡倉覚三氏の思出』に、次のようにある。覚三とは、天心の本名である。
「私が八、九歳で小学校の一、二年の頃、父は麹町の三年町に住んでいたが、母は兄と私を連れて下谷の中根岸の御行の松の近所に別居していた。そのころ岡倉氏の家は上根岸にあったがよく母を訪ねて来られた。上野の美術学校の校長の時代である。当時、母は凡そ三十六、七歳で岡倉氏よりは一つ二つ年上だった筈だ」
 また、『根岸』という随筆にも、同様の記述があり、続けて、
「父が米国で公使をしている時に岡倉氏に托して母を先に日本へ帰らせた。母と岡倉氏とはそれ以来の親しい間柄である」
 と出ている。
 天心が東京美術学校の校長になったのは、明治廿三年である。
 はつと天心は、やがて恋に陥り、大きなスキャンダルとなる。
 はつは離縁となり、天心も明治三十一年、美術学校での排斥運動により、校長の職を退く。
 はつとのスキャンダルが、それにどれ程影響していたのかは知らない。
 隆一は天心について、
「父は岡倉氏に関して、公には非常に役に立ってもらった人だが、家庭的には大変迷惑をかけられたという風に云っていた」(『岡倉覚三氏の思出』)
 と周造は書いている。
 後先になったが、周造の母のはつは、京都の花流界にいた女性で、それを隆一が引かせて妻としたのである。
 はつは様々な面で、周造に大きな影響を与えたようだ。
 大正の末頃、留学先のパリで詠んだ短歌に、

  母うへのめでたまひつる白茶いろ
     流行はやりと聞くも憎からぬかな

   というのがある。周造は『いきの構造』の中で、いきな色として白茶いろを挙げている。
 彼の書いたものには、時折、母が影が見え隠れするようだ。
 天心について委しく触れている間はないが、明治三十七年にボストン美術館の顧問として渡米、翌年、同館の東洋部長に就任、日米間を頻繁に往来する。明治四十三年、天心は帝大の講師となり、東洋美術史を講義することになる。
 周造は明治四十二年に帝大の哲学科に入学して、当時、帝大に在学していた。
 たまたま、校内で、天心と出会ったことがあった。周造が天心に会うのは十年ぶりだったが、すぐに天心とわかった。しかし、子供の頃の周造しか知らない天心には周造のことはわからなかったようだ。周造は下を向いたまま、お辞儀もしないで、天心と行き違った。
 それについて、周造は、
「私がいったいひっこみ思案だからでもあるが、母を悲惨な運命に陥れた人という念もあって氏に対しては複雑な感情を有っていたからでもある」
「岡本氏が非凡な人であること、東洋美術史の講義も極めて優れたものであることはきいていたが、私は私的な感情に支配されて遂に一度も聴かなかったのは今から思えば残念でならない。西洋にいる間に、私は岡倉氏の『茶の本』だの『東洋の理想』を原文で読んで深く感激した。そうして度々西洋人への贈物にもした。やがて私の父も死に母も死んだ。今では私は岡倉氏に対して殆どまじり気のない尊敬の念だけを有っている」(以上、『岡倉覚三氏の思出』)
 これに続いて、五浦在住時代の天心から隆一に当てた書簡が出ていて、それについて、「家庭上複雑な関係があったにも拘らず、父と岡倉氏とが終始親交を続けていたことを如実に語っている点に私は喜びを感じている」
 と周造はいっている。
 はつとの不倫騒動があった後も、隆一と天心との付き合いは、喧嘩別れすることもなく、ずっと続いていたようだ。
 後年の美術行政のやり方をみると、隆一という人は、強引頑固で柔軟性に欠ける性格のように見受けられるが、こうした天心との関係からみると、案外、懐の広い、大きい人物だったのかもしれない。
 大正元年に、周造は帝大を卒業して、大学院へ進む。
 大正七年、周造は次兄一造の未亡人、九鬼縫子と結婚する。時に、三十一才。
 周造の女性関係については、旧制高校から大学まで一緒だった親友の岩下壮一の妹とのことが知られている。
 熱烈に恋して結婚まで考えたというが、後にカトリックの神学者となった兄の壮一同様、信仰心の厚い彼女は修道院に入ってしまい、周造の恋は終わった。
 大正十年から、周造は足掛け八年に及ぶ西欧留学へ旅立つ。
 大正十一年から、ハイデルベルク大学でリッケルトに学ぶ。
 大正十三年秋にパリへ移り、約三年間滞在。
 大正十四年、短歌集『巴里小曲』などを『明星』に発表する。
 大正十五年(昭和元年)、詩集『巴里心景』などを『明星』に発表。  昭和二年、四月よりフライブルク大学でフッサル、オスカー・ベッカーに学ぶ。十一月にマールブルグ大学に移り、ハイデッガーに学ぶ。
 昭和三年、六月にパリへ帰り、この年の暮にアメリカ経由で帰国の途につく。その間、パリでベルクソンを訪問。
 昭和四年、帰国した周造は西田幾太郎の招きにより、京大哲学科の講師となる。
 昭和五年に主著『いきの構造』を刊行。
 昭和六年、八月に父隆一が逝去。行年、八十才。次いで、十一月に母はつが他界。行年、七十二才。
 昭和八年、京大助教授となる。周造、四十七才。
 昭和十年、京大教授となる。周造、四十九才。
 九鬼周造は、昭和十六年に、ガンのため死去。五十四才だった。(年令はいずれも数え歳とした)
 周造は結婚生活では九鬼縫子とはうまくいかずに離婚。後に祇園の芸妓、中西きくえを入れて伴侶とした。
 九鬼周造には、京大での講義の時に微醺を帯びて教壇に立った、という伝説めいた話が伝わっている。
 今そんなことをしたら大変である。忽ち糾弾され、首になりかねないだろう。
 本当だとしたら、時代がよかったのか、或いは京大という所は細かいことに拘らない大らかで自由な校風だったのか。
『いきの構造』については、『ダンデイズム東西』のところでとりあげて書いたが、読んでみると、周造の広範囲にわたる江戸に関する造詣の深さに驚かされる。
 邦楽についても、ただ知識として持っているだけでなく、自身でも何か邦楽を実際に習っていたに違いない、そう思って気をつけて見ていたら、次のような短歌を見つけた。
 大正十四年、『明星』に発表した短歌集『巴里小曲』の中の「ノクターン」と題した短歌の内の一首である。先に挙げた「母うへのめでたまひつる——」の歌も此処に出ている。

  ふるさとのしんむらさきの節恋し
      かの歌沢の師匠も恋し

 同じくパリでの詠草を集めた『巴里心景』(短歌集。同名の詩集もある)に、

  「うす墨」のかの節廻し如何なりけん
      東より来て年経たるかな

「しんむらさき」、「うす墨」共に、歌沢節の曲名である。
 これらの歌から、他の邦楽を習ったこともあったかもしれないが、少なくとも歌沢を師匠について稽古していたことがわかる。
 歌沢節は最近はあまり耳にしなくなったが、幕末から明治、大正、昭和の初めにかけて、大変に流行った音曲である。
 九鬼周造の話から少し脇道へ逸れることになるが、たまたま歌沢節が出て来たので、次回は、その歌沢節について——–

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