第65話 『桜餅屋の娘(三)、その他の娘達』

おとよのその後について——–
 阿部正弘が死んだ後も、おとよは福山藩邸の奥に住んでいたが、維新後、向島の実家に戻って来た。四十二、三の頃というから、明治十二、三年頃と思われる。(というのは、鳶魚の計算違いで、明治十四、五年としないとおかしい)
 内縁の夫と共に長命寺の裏門脇に二階建ての家を建てて、桜酢を始めたという。
 おとよには娘が一人あったが、その娘が伝染病に罹って、隔離病院に入れられると聞いて倒れ、大正三年九月十九日に、おとよは七十五才で亡くなったという。
 以上、おとよの死で三田村鳶魚の『桜餅』は終わっている。
 山本屋の美人娘は此のおとよだけと思っていたところ、思いがけない記事を見つけた。
 篠田鑛造の『幕末明治女百話』の中である。「岩亀の鑑札娼妓の朝帰り」という項があるが、この岩亀とは横浜の有名な妓楼、岩亀楼のことである。
 東海道の品川宿には、勤皇の志士達が盛んに遊んだ土蔵相模とか、島崎楼とか、いった表向きは旅籠屋だが、売女を抱えた遊女屋が軒を並べていたが、その中に岩槻屋という店があった。
 安政五年(1858)、日米修好通商条約締結。翌年、横浜港が開港され、更にその翌年の万延元年(1860)、横浜の太田新田の埋立地に外人相手の遊廓が出来た時、そこへ岩槻屋が出店を出したが、それが岩亀楼である。
 品川の岩槻屋に喜遊という娼妓がいた。
 喜遊は岩亀楼が出来ると、そちらへ移って行った。
 岩亀楼を有名にしたのは此の喜遊である。
 喜遊はどうしても異人に馴めず、
「露をだにいとう倭(やまと)の女郎花
    ふるアメリカに袖はぬらさじ」
 という辞世を残して、自ら命を断った。
 時に喜遊十七才、文久二年(1862)のことと云う。
 喜遊については、江戸深川の医師、太田正庵の娘で、嘉永六年(1853)、十五才の時に新吉原甲子屋に売られ、‘子の日’という名で遊女に出たが、その後、横浜の岩亀楼に移った(『温古見聞彙纂』)ともいわれている。
 これが正しいとすると、文久二年には喜遊は二十四才になっている。
 又、「露をだに—–」の辞世は、吉原松葉屋の遊女花岡の作ともいう。
 要するに、喜遊に関する話の真偽は不明で、喜遊という遊女がいたことは確からしいが、朝倉無声氏によると、実はこれは大橋訥庵が、勤皇の志士の志気を鼓舞するために創作した話で、訥庵自身から、そのことを聞いたという者がいたそうだ。
 確かに、そういわれてみると、辞世と云い、出来過ぎた話ではある。
 大橋訥庵は勤皇の儒者で、坂下事件の計画を立てたのは大橋訥庵だという。
 坂下事件とは、井伊直弼の遺志を継いで公武合体のため和宮の降嫁を実現させた老中安藤信正を、水戸の浪士達が坂下門外で襲って傷を負わせた事件である。
 文久二年正月十五日のことである。
 しかし、大橋訥庵は、宇都宮藩士等の一橋慶喜を擁立して義兵を挙げる計画を援助して、その上書を一橋家の近習に取り次ぎを依頼したことが発覚して、坂下事件の三日前に逮捕投獄された。
 同年七月に獄中で発熱、宇都宮藩に預けられたが、七月十二日に病死した。一説には毒殺されたともいう。行年、四十七才。
 話を岩亀楼に戻すが、岩亀楼があったのは今の関内の辺りで、楼内に日光の朱塗りの橋が拵えてあり、異人が珍しがって、よく遊びに行ったという。一人分、二朱と五百の見物料を取って見せたが、一両出すと、同楼一番の大広間の「扇の間」へ通して立派な茶菓子を出した。横浜見物で岩亀楼を見ないと、見物甲斐がないといわれる程だった。
 扇の間というのは、襖から何から何まで、すべて扇の絵で、窓の形まで扇型で、その綺麗さは目を驚かすばかりだった。他にも、竹の間、鶴の間、松の間といろいろあったが、竹の間は竹、鶴の間は鶴、松の間は松の絵が夫々描いてあった。喜遊が自害したのは松の間だった、という。
 以下の引用文はいずれも『幕末明治女百話』の「岩亀の鑑札娼妓の朝帰り」からのものである。
「この岩亀の娼妓は、大てい西洋人の相手が多く、その向うの内意も含んでいましたが、岩亀楼へ出向かれない、身分のある異人のためには、同楼から娼妓を、異人館へ駕篭で送り込んだもので、ソレは毎晩のように御用があったんですから、吉原では「男の朝帰り」が目立ちますが、横浜ではアベコベに、異人館から「娼妓の朝帰り」があったんです。この異人館行に二タ通りありまして、月極めの女と、一夜妻の女とありまして、月極めは普通の扮担(なり)で、ラシャメンみたいなものですが、一夜妻の方は、やはり仕掛(しかけ)を着て、花簪をさし、花魁(おいらん)風で出かけました(以下畧)」
「岩亀楼では、異人館通いを特権(ひとりじめ)としてしまいました。岩亀楼からでないと、異人さんのとこへは行かれないんですから、果ては鑑札を出して、鑑札料を取ったんです。これで同楼はうまい汁を吸っていました。ソレが同楼の娼妓ばかりでなく、素人の娘でも、金になりますから、異人の妾を望むものがありますと、表面は同楼の娼妓となって、鑑札を貰って行くんで、みんな相当の金子を、同楼へ納めました」
「向島の桜餅のおちょうさんと、妹のおきんさんが、オランダ公使館に引取られ、おちょうさんが公使、おきんさんが書記官の愛妾となったことは、有名な話なんですが、日本の素人娘が、異人のお妾となったのは、これが嚆矢だということです。ですから、外国奉行の水野筑後守へ願い出たところ、奉行所でも先例がないんでしょう。お役人のうちでは、恐しくお憤りになって、日本の女の面汚しだ、斬って棄てるという頑固な役人もあったんですが、トドの結局(つまり)岩亀楼の娼妓としたら、すでに娼妓は出入りしているんだからよいということになって、例の鑑札で公使館へ入ったんです。横浜本町の塗物屋の娘おこうさんも、この縁で米国領事の妾となったんです」
 向島の桜餅といえば山本屋だが、その山本屋の二人の娘、おちょう、おきんの姉妹が、オランダ公使と書記官の妾になった、というのである。
 いつ頃の話なのか、と考えると、カギは外国奉行の水野筑後守である。
 水野筑後守忠徳は、二度にわたって外国奉行を勤めている。
 最初は、安政五年(1858)七月に新設の外国奉行に就任したが、翌六年七月に起きたロシヤ士官暗殺事件の処置のまずさから軍艦奉行に遷任。二度目は、文久元年(1861)五月に外国奉行に再任。翌二年七月、函館奉行となるまでの二回である。  岩亀楼の出来たのが万延元年(1860)であるから、当然、再任の文久元年五月から、翌二年七月までの一年二ヶ月の間のこととなる。
 喜遊の事件は文久二年のことというが、実際にあったとしても、何月にあったのか、はっきりしないので、はたして水野忠徳の再任中の出来事だったか、どうか、わからない。
 おちょう、おきんの姉妹が、オランダ公使館の妾になったのを、仮に文久元年とすると、阿部正弘の思い者になった、おとよは二十三才になっている。山本屋三代目の新六はおとよの弟であるから、まだ廿才そこそこで、妾奉公にあがる程の子供のある筈がない。
 おちょう、おきんの年令は不明だが、少なくとも十五才にはなっていると思われる。
 とすると、山本屋二代目の金五郎には、おとよ、新六の他に、おちょう、おきんという二人の娘があったことになる。つまり、二人の姉妹は、おとよ、新六の妹ということである。
 岩亀楼は、慶応二年(1866)十月廿日の朝、土堤道(どてみち)の豚切売業鉄五郎方から出火した、俗に「豚屋火事」といわれる大火事で、焼失した。この火災で関内一帯は焼け野原となり、岩亀楼の他、神風楼、金石楼、岩里楼などの大妓楼もすべて焼けてしまった。
 おちょう、おきん姉妹のことを調べていたところ、更に次のような記事を見つけた。
 昭和元年に出た『漫談明治初年』の中の田中智学という僧籍の師の談話であるが、桜餅屋の娘、お花のことが出ている。
 お花は、長命寺境内の藁葺の二階家、長命寺桜餅の娘となっているので、山本屋の娘に間違いない。談話の表現を借りると、お花は非常な美人で、昔の笠森お仙のように一枚絵が出る程の騒ぎだった。背のスラリとした、品のよい美人だった、という。
 山本屋の娘だとすると、三代目の新六の娘である。新六が仮に廿才位で結婚して、すぐ娘が出来たとしても、その娘が十五、六才の年頃になるのは明治十年以降になる。従って、お花が美人と評判になったのは、その頃のことである。
 明治新政府の中枢である三条、岩倉のお歴々がオランダ公使と共に、向島の花見に出かけて、長命寺の桜餅で休憩したが、その時、オランダ公使がお花を見初めたのである。
 その後、オランダ公使はお花のことが忘れられず、仕事も手につかない状態になってしまった。日本の外交当局者はその様子に気がついて、いろいろ聞いてみたところ、事情がわかり、何しろ維新前から日本の為に種々尽力してくれたオランダの公使のことではあり、
何とか願いを叶えてやりたいと、内々に人を遣って、お花をオランダ公使の嫁にやってくれないか、と頼み込んだ。
 山本屋は苗字を小山といったようだ。
 お花の父親の小山は、政府の高官達から、御国の為だから、と頼まれて、当人に話してみたが、当時はまだ、異人と云えば、取って喰われる、と信じていた時代で、お花は身慄いして、いくら公使さんが立派な方でも、異人さんはイヤ、と首を横にふるばかり。
 ダメという返事を聞いて、公使はすっかり塞ぎ込んでしまった。そうなると、外交上の微細な打ち合わせに支障が出てくる。何か相談に行っても以前のように話が直ぐまとまらない状況になってしまった。
 三条はじめ大官達は大いに困ってしまい、結局、もう一度、よく事情を話して、お花を納得させようということになって、再度使いを小山家へ遣わした。使いから話を聞いた小山は、再び娘を、異人は嫌いでもあろうが、これも日本の為、皇国(みくに)の為だと思って承知してくれ、と説得した。
 この時、お花は初めて覚悟を決めて、妾のような者でも皇国の為になるというのなら、どんないやなことも決していといません、と云ったという。以下、次のようにある。
「公使の喜びは察すべしで、其後は、いよいよ日本の為になる様に働いてくれたが、此人は確か其後日本で死没した。お花さんは、寺島村に隠居の身となって住って居た。丁度例の喜遊と裏表ながら、ここにも矢張一人の犠牲者があった訳である」
 おちょう、おきん姉妹のことを調べている内に、このお花の話が出て来た。オランダ公使が両方に出てくるので、初めは同じ話ではないか、と思っていたが、どうやら全く別の話のようだ。今のところ、此処に挙げた本以外、これらの話の出ている本に行き当たらない。機会があったら、山本屋で確かめてみたいと思っている。

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