第64話 『桜餅屋の娘(二)、おとよ』

 三田村鳶魚は、長命寺の桜餅屋を始めたのは、この、「桜のばば」と云われた老婆だったとしている。彼女の名は書いていないので分からないが、隅田川の土手の工事があって桜が植えられた寛政二年(1790)には、彼女は番茶も出花の十七才だった。
 山本屋の一族は美人系の血筋だったようで、彼女も美しかったと思われる。
 看板娘として評判になり、店も繁昌したことだろう。彼女の跡目は息子の金五郎が継いだ。
 その金五郎には男女二人の子があり、三代目は弟の新六が継いだが、姉のおとよは天保十一年(1840)生まれで、無類の美人と評判が高かった。
 その評判を聞いて、田安慶頼は牛島神社参詣にかこつけて、おとよに桜餅を持参させたといわれる。
 牛島神社は、今は昔の場所からかなり南の吾妻橋寄りに移っているが、当時は山本屋のすぐ脇にあった。
 田安慶頼とは、田安家の徳川慶頼のことで、文政五年(1822)生まれで、明治三年(1870)没、行年四十九才、と平凡社の『日本人名大事典』にはあるが、文政十一年生まれ、明治九年没、とした人名事典もある。(行年は同じ)慶頼は安政五年(1858)に将軍家茂の後見役になっている。
 田安家から出て、十五代将軍徳川慶喜の跡を襲って徳川宗家を継いだ徳川家達は、慶頼の三男である。
 長命寺桜餅は、天保七年刊の『江戸名物詩』にも出ていたように、その頃にはすっかり隅田堤の名物になって、安政元年(1854)三月には芝居にも取り上げられた。河原崎座の新狂言「都鳥廓白浪」で、作は黙阿弥である。
 市川小團次の忍の惣太が大当たりだったが、その惣太の家が桜餅屋になっていたので、狂言の方も都鳥とか、桜餅とか云うようになった。それで、山本屋では、この芝居の上演中、毎日桜餅五箱を贈って抜け目なく自家宣伝をしたという。この時、おとよは十五才である。
 鳶魚は、十四才と書いているが、これは間違いだろう。
 おとよの一枚絵が出たのは安政四年(1857)、おとよ十八才となっている。安政元年に十四才だったとしたら、安政四年には十七才である。
 一枚絵が出た安政四年十一月には、おとよは既に実家の山本屋にいなかった。
 おとよを手活けの花にしたのは、老中阿部伊勢守正弘である。
 福山十万石の藩主、阿部正弘は天保十四年(1843)閏九月十一日に廿五才で老中になった。天保改革の水野忠邦が失脚した後で、外国船の来航が相次ぎ、国情不安の最中である。
 正弘は、これまでの幕府専制の政治体制を改め、合議制とし、国内意見の統一を目指した。鳶魚によると、
「阿部閣老は評判のいい人で、落首にさヘ褒めたのがありますが、これは苛酷であった水野越前守の後を承けて、人気取りの匙加減で一時を瞞着したのではない。寛猛の間を通るだけの政治が施せる人物だったらしいのです。大奥との関係も巧妙を極めたもので、後宮の権威と知られた上臈姉小路とも、適当に連絡が取ってありましたから、阿部内閣は決して背面の攻撃を受けませんでした。奥女中等は一斉に阿部に傾倒して居りましたが、それには彼の美貌が甚だ好都合であったと思はれます」
 阿部正弘は美男だったのである。しかも、大変女好きだったらしく、鳶魚が引用している安政三年のちょぼくれの一部を又引きさせて貰うと、
「端反の裏金、立派にかむって、仮宅めぐりは、妾の目立か、あきれたことだよ、人の口には戸がたてられねぇ」
 これには、「端反の裏金、執権阿部勢州どの、悪説あり」という注が付いているそうで、「はぞり」とは陣笠の端が反っていることで、その陣笠の裏は金塗りだというのである。普通の陣笠の裏は朱塗りで、裏金の陣笠は幕府の高官に限られていたという。
 仮宅というのは、前年の安政二年の大震災で潰滅した吉原の娼家が、深川で仮宅営業をしていることで、そこへ阿部正弘が行ったというのだ。
 事実か、どうかは分からないが、正弘にはそういう噂を立てられるような素地もあったようだ。
 阿部正弘は、安政四年(1857)六月十七日に卒去した。享年、三十九才。
 正弘の病気について、種々の噂が流れた。桜餅屋の娘のおとよが阿部家の奥へ入仕して間もないことでもあり、若い娘を寵愛するあまり精力を消耗し過ぎたのではないか、と専らの評判だった。
 吉原の仮宅は、『武江年表』を見ると、安政の大地震があったのは安政二年の十月二日で、その年の十二月から五百日間ということで幕府の免許が下りた、とある。
 安政三年の初め頃までは、阿部正弘は元気だったようだが、急激に体調を崩し、みるみる内に痩せ細っていった。
 三田村鳶魚の『御殿中女中の話』の中の「烈公の女寵講和」のところに、水戸の徳川斉昭が側用人の安島弥次郎に宛てた安政四年閏五月三日付の書面が出ているが、面白いので次に挙げる。
「昨日中納言(斉昭の長男で、水戸藩主の徳川慶篤)咄ニテ聞候へバ、勢州(阿部伊勢守正弘)モ実ニヤセ衰ヘ、中納言ニテ二月引候以前見候トハ相違ニテ、夜中ニテハ指向咄モイヤナ位、絵ニカケル幽霊ノ如ク、居立モ六ヶ敷ヨシ故、同人医師ハ福岡縁故、是ヨリモ承セ、又清事ハ三沢別懇ノヨシ故、此者ヲモ中納言ニ遣シ、三沢ニ承セ候処、三沢モ甚心配ノヨシ申聞候ヨシ、常ニ夏ニ相成候ヘバ下痢致候ガ、クセノ由ニ候処、万々唯今ノ姿ノ処ニテ、下痢来リ候ハバ大変ノヨシ申聞候ヨシ、今朝我等心付ニ牛酪可然ト心付候、只今清、三沢ヨリ帰リテノ申聞ニハ、牛酪モ今日ヨリ用候ヨシニテ、我等今朝心付候処用候ト承リ候テハ、先々安心致候、薬ハ手医伊沢磐安ノヨシ、養脾湯(証治準縄)即六君子(砂仁麦芽神曲山査)ノヨシ、中納言咄ニテハ御城坊主杯ハ十五ノ新妻(向島桜餅の娘)出来候故云々、酒モ登城前ヨリ二升位ヅツ用候ヨシ云々申候ヨシノ処、御役モ勤候程ノ人、左様ノ事モ有之間敷ト我等申候処、今清ノ咄聞候へバ、酒モ一切不用、養生専一ニ致シ候トノ事ニ候ヘバ、新妾トテモ命ニカヘテ云々致共、タトヘ三千寵愛有之トモ交リノ数サヘ定メ置候ヘバ、身ニ障リ可申筈モ無之、全ク右等ハ人ノ悪口ト存候ヘ共、衰ヘ候儀ハ無相違候」
 此処に出てくる人名については、鳶魚は何も書いていないので、調べてみないと分からないが、斉昭のいっていることは大体理解出来る。「十五の新妻」とあるのが、おとよのことで、十五とあるが、天保十一年生まれのおとよは、安政四年には十八才になっている。
 いかにも、漁色家で名高い烈公らしい書翰で、思わず笑ってしまう所もある。
 阿部正弘はこの約一ヶ月後の六月十七日に不帰の人となるのだが、鳶魚も正弘の死因を腎虚としているようだ。この後に続けて、
「この阿部正弘は腎虚して死んだとも云われて居りまして、今の烈公の手紙で見ても、どうもそうらしく思われます」
 と書いている。
 随分前の話で、雑誌名も著者名も覚えていないが、医療関係の雑誌で、ある医師が、阿部正弘の死は、伝えられている病状からすると、明らかに癌である、と書いているのを読んだ記憶がある。
 確か、胃癌といっていたような気がする。二升からの酒を毎日飲んでいたとすると、胃癌になっても可笑しくない。
 阿部正弘は政治家として有為な人物だったという評価が高い。
 彼が若くして死んだことにより、幕府の崩壌が早まったという人も多い。

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