第63話 『桜餅屋の娘(一)、長命寺山本屋』

 東京の甘党で長命寺の桜餅を知らない者は、まず、いないだろう。
 長命寺の桜餅は江戸時代から有名で、方外道人の『江戸名物詩』(天保七年刊-1836)という漢文の狂歌集には、当時の江戸の名店、名物が詠み込まれているが、その中に、

         長命寺桜餅
   幟高長命寺辺家 下戸爭買三月頃
   此節業平吾妻遊 不吟都鳥吟桜餅

 とあり、その人気の程が知られる。
 長命寺桜餅の店は山本屋と云い、今でも墨東の隅田公園内にある。
 桜の名所の隅田公園は、吾妻橋から上流に向かった隅田川の両岸にある。
 浅草側の入口は吾妻橋の袂だが、本所側の方は少し上流に源兵衛堀という河童伝説のある掘割があり、それに掛かっている枕橋を渡った辺り、東武鉄道のガード下を潜った所が南の入口になっている。本所側の公園を北の方へずっと歩いて行くと、北の外れの向島口近くに桜橋という歩行者専用の橋が掛かっているが、その少し先の右側に山本屋がある。
 桜橋が出来てから、川の両側の公園の往来が容易になって、桜の頃は勿論だが、普段でも散歩やジョギングの人達で結構賑わっている。
 長命寺は山本屋の裏の土手下にある。虚子の句に、「桜餅食ふてぬけけり長命寺」とあるように、昔は山本屋のすぐ脇の小道を下りて行くと、長命寺の裏門で、そこから境内へ入れたものだが、今は抜けられなくなっているようだ。
 現在は公園の上を高速道路が通り、昔日の景観はすっかり失われてしまったが、山本屋の店先の縁台の緋毛せんの上に腰掛けて、茶をすすりながら枡の片隅に盛られて出される桜餅を、川を眺めながら食べた記憶がある。
 桜餅というと、普通の桜餅は柏餅と同じで一枚の葉で包んであるが、長命寺の桜餅は一個に二、三枚の葉を使っていて、まず香りがよい。あまり香りがよいので、葉っぱごと食べる人もいるようだが、私はやはり葉は食べない。一口話に、「カワを剥いて食べろ」といわれて、川の方を向いて食べたという笑い話がある。
 長命寺の正門は、隅田公園に沿った土手下の通りに面していて、同じ通りのすぐ脇に興福寺があり、少し言問寄りの所に三囲神社がある。
 隅田川七福神巡りというのは、文化元年(1804)に百花園を開いた佐原菊塢と、その周辺の文人墨客達の遊びから始まったといわれているが、その七福神の大黒とえびすが三囲神社に、布袋が興福寺、長命寺には弁天と、ごく近距離の間にあるため、正月にはお詣りの客でごった返す。隅田川七福神詣でというハトバスのツアーもあるようだ。
 因みに、残りの三福神は、百花園に福禄寿、白鬚神社に寿老神(白鬚明神は神格が高い神なので、寿老人ではなく寿老神と書く)、この二神は墨堤通りの地蔵坂近くにあり、毘沙門天を祀る多聞寺だけは少し離れた鐘ヶ淵にある。「野ざらし」という落語を得意にした先代柳好の、その「野ざらし」の中に出てくる入相の鐘は隅田堤の多聞寺の鐘となっている。
 さて、長命寺に話を戻すが、長命寺の開基ははっきりしない。三代将軍家光が鷹狩りに来た折、気分が悪くなり、当時まだ小さな庵室に過ぎなかった長命寺で休息して庭前の井戸水で薬を呑んだところ、立ち所に回復したので、その井戸に長命水という号を与え、寺の名を長命寺と改めるよう命じた、と『江戸名所図会』にみえる。その割注に、それ以前の寺の名を常泉寺といった、とあるが、常泉寺という同名の古刹(日蓮宗)が言問近くに今も実在している。しかし、常泉という名前は、良い井戸があったからの名ではないかと想像がつく。
 長命寺の長命水の井戸は既に無く、碑だけが残っている。
 山本屋の先祖は銚子の者で、元禄四年(1691)に江戸へ出て来て、長命寺の門番になったという。墨堤に桜を植えたのは将軍吉宗で、幕末の隅田村名主坂田氏の書上に、『向島隅田村寺島村須崎村小梅村大堤通桜埴附原本』として、享保二年(1717)五月に関屋にあった隅田川御殿の庭へ赤松、つつじ、桜などを植え付けた折、「御見通御慰薄き故、木母寺門前より寺島村内橋場渡船場脇御上り場迄、大堤左右へ桜百本御植附相成候」とあり、同じく十一年中に、同所へ桃、柳、桜共、百五十本植え増した、と出ている。
 山本屋の先祖は、これらの桜の落葉を見て、桜餅を売ることを思いついたのだという。
 とすると、山本屋の創業は享保の末か、その後の元文、寛保頃と思われるが、長命寺桜餅が世に知られるようになったのは文化、文政時代なので、諸説がある。
 三田村鳶魚は『桜餅』と題した一文を草しているが、山本屋の創業を寛政二年(1790)としている。それによると、寛政元年の冬から翌二年の春にかけて、中洲の取り払いと同時に大川筋の浚渫工事が行われ、その泥土が隅田川の土手普請に使われた。「屋根船も屋形も今は御用船ちつつんは止みつちつんで行」という狂歌は、その時出来たものである。云うまでもなく、「ちつつん」は三味線の音で、それが、「土積んで行く」になったというのだ。
 中洲は隅田川の下流にあった洲で、明和八年(1771)に其処を埋め立てた後、月の名所として水茶屋などが建ち並び、大いに賑わった。しかし、洪水に弱いため、寛政元年に再び掘り返して、中洲を取り払ったのである。
 鳶魚は、次のような『後見草』の文を引用している。
「隅田川の堤より桜の並木をうへしも此の頃の事也、むかしは此の堤高からず、三囲稲荷石の鳥居笠木の堤の上へ来たりし也、三股中洲の新地とりはらひになりし時、其土を以て高く築上たり、さるゆへに今も此辺をゑがくには、堤の上より鳥居見ゆる図あり、是にておもひはかるべし」
 その鳥居と同じものか、どうか、わからないが、今も三囲神社の裏門の前に大きな石の鳥居が建っている。鳥居の前がすぐ土手で、石段を上がって上に出ると、其処はもう隅田公園である。
 享保の頃の、河東節と一中節の掛け合いの曲「隅田川舟の内」に、「葉にうへし鳥居こそ、かさ木ばかりをみめぐりの、のびあがらねば見えぬなり」とある。
 寛政の初めに土手が高くなって見えなくなったのは分かったが、それ以前でも三囲の鳥居は伸び上がらなければ見えなかったのである。
 余談になるが、『末摘花』に、「女房の口のび上がらねば吸へぬなり」という句がある。蚤の夫婦を詠んだ句だが、岡田甫氏は、この句を「隅田川舟の内」からの文句どりとしている。
 鳶魚は山本屋の創業を寛政二年に桜が植えられた時以後のこととしている。
 川柳研究家の西原柳雨氏は、「やきながら女房の食ふ桜餅」という句から、天明の頃まで逆のぼって考えているようだが、それに対して、花咲一男氏は、「桜餅」という下の句は間違いないだろう、といっている。
 といった具合で、長命寺桜餅の起源ははっきりしない。
 因みに、「やきながら——–」の句は、山谷の葬式を詠んだものという。
 山谷の葬式では、葬式饅頭の代わりに桜餅を出したそうである。山谷から見れば、長命寺は川向こうで、渡しがあるのでそれ程遠くはない。
 葬式がすめば、弔問客は家に帰るのだが、何せ山谷という場所がよくない。吉原が近いのだ。それで、つい、悪友連は誘い合わせて吉原へ繰り込み、泊ってしまう。朝帰りの亭主が持ち帰った桜餅は、一夜経って固くなっている。その桜餅を女房は焼き(嫉き)ながら食べるのである。
 何でもないような句だが、奥があって、説明を聞かないとわからない。
 三田村鳶魚の『桜餅』によると、天保八年(1837)十一月二十五日に「桜のばば」といわれた長命寺桜餅の老婆が死んだ。
 その時、村田了阿は、
   寺の名も長き命もあだ桜
       葉っ葉六十四出の山風
   始には唯腰かけの御茶の水
       後は桜のばばと云はれつ
 という二首の狂歌を詠んで贈ったという。
 村田了阿は国学者である。有名な村田という煙管屋の次男として生まれたが、早くから佛教に帰依し、書、画、詩、俳諧、狂歌をよくした。了阿は法号である。博学で、さばけた人物だったらしく、多くの人から愛され、親しまれた。前出の『江戸名物詩』に、了阿の実家、村田煙管も出ているので、次に挙げる。

     村田喜世留  浅草御蔵前
   店自繁昌品自鮮 風流仕込在村田
   近来新製文人張 吸出詩歌幾首烟

                      ————続く————-

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