第62話 『長唄の成立(二)、ぬめり、楓江』

 前章では、享保十五年以前の座唄について、目につくままに関係資料を雑然と並べ立てたが、長唄成立以前の座唄がどういうものだったのか、大体の輪郭は伝わっただろうか。
 享保に入って東西文化の交流が盛んになると、座唄もそれなりに変わって行ったと思われるが、享保十六年(1731)の「無間の鐘」の出現によって大きく変化する。
 武太夫の覚書には、なかなか重要なことが書いてある。
 一つは、三下りという調子のことで、覚書の文句からすると、江戸の人々はそれまで三下りの音楽をあまり耳にしたことがなかったようだが、坂田兵四郎が唄った三下りの「無間の鐘」を聞いて、今までにない新しい音楽に触れて、その虜になった。「無間の鐘」大流行の最大の原因は、三下りという調子にあったのかもしれない。
 次に、「無間の鐘」はぬめりというものだと兵四郎が武太夫に語ったとあるが、ぬめりという言葉は、うかれ歩くという意味で、『声曲類纂』によると、「万治、寛文(1658~1672)の頃より元禄、宝永(1688~1710)に至るはやり言葉にして且唄にも作りし也」とある。ぬめり町というのは色里のことで、色里のはやり唄をぬめり唄といったようだ。
 初期の歌舞伎に、島原通いを扱った島原狂言というものがあり、それらは外題を「何々島原」といったのだが、いつの頃からか、「傾城何々」というようになった、と『歌舞伎事始』に出ている。傾城買いの芝居は人気の狂言だったようだ。「無間の鐘」が唄われた芝居の外題は「傾城福引名護屋」で、まさに、島原狂言ということである。
 その傾城の出に使われたのがぬめりで、元禄の頃の有名な三味線弾き、岸野次郎三(本名は次郎三郎、次郎三は通稱という)に榊山(小四郎)氏がぬめりを所望したところ、次郎三はその傾城の位によって弾きわけてみせたという。
「是傾城の出端にして、その太夫の位々を音色にて十七段に引分けたるよし奇妙の術を得たり」(『歌舞伎事始』)
 同様のことが『役者五雑爼』にも出ているが、榊山氏が桝山氏となっている。
 榊山氏の間違いだろう。
 岸野次郎三について、『歌舞伎事始』には「元禄年中、岸野次郎三といふものあり」といっているが、次郎三は生没年不明で、宝永二年(1705)京都早雲座の立三味線となり、その後、正徳にかけて榊山小四郎父子の座元の劇場に拠り、初代榊山小四郎と組んで「歌占」、「松風」、「道成寺」などの名曲を残した。
 この傾城の出端に使われていたぬめりが、後のめりやすとなるのだが、その過渡期的なものが「高尾懺悔」である。
 今、めりやすとして伝わっている「もみじ葉」は、「高尾懺悔」という長唄の一部分なのだが、高尾太夫の亡霊が現われる場面の唄であって、亡霊ではあるが確かに傾城の出には違いない。「高尾懺悔」は延享元年(1744)春、市村座で演じられたものだが、この頃には、まだ、めりやすという名稱はない。
 ぬめりが、めりやすになってしまえば、ぬめりが無くなって当然なのだが、ぬめりは芝居の世界に残って別なものになって行くのである。それは又、別な研究課題になるので、今は立ち入らないで置く。
 めりやすという名稱が初めて使われたのは、宝暦三年(1753)正月、中村座の「華のえん」で、唄い手は坂田仙四郎だった。「無間の鐘」で江戸に一大センセイションを捲き起こした坂田兵四郎は、坂田藤十郎の甥で、藤十郎から坂田という姓を貰ったといわれている。その兵四郎は寛延二年(1749)に江戸で亡くなった。行年四十八才という。
 その坂田の家の後継者が仙四郎で、『長唄系譜』によると、仙四郎は初名を藤治良と云い、「美声にして上け(?)あり「菊慈童」のタタキを唄ひ高銘となる。明和の頃横網町に住み、宝暦明和頃盛なり」とある。
「華のえん」も、「暮の鐘」という上方唄だった。「暮の鐘」は岸野次郎三の作である。
 めりやすという名稱については、そのしんみりとした曲調から気が滅入り易いということから来たとか、当時流行の莫大小の手袋が伸び縮みがして大きな手にも小さな手にも嵌めることが出来ることから、めりやすが役者の所作に合わせて長くも短くも唄えることを付会して、めりやすといった等、諸説あるが、当時漸く川柳や狂歌などが生まれる時代に当たり、江戸の洒落気が入っている莫大小説が有力視されている。
 武太夫の覚書に「本唄は松島庄五郎勤、あひあひのぬめりを兵四郎うたひし也」とあったように、長い本唄や短いぬめり(めりやす)などをすべて総括したものを長唄というのだが、武太夫の覚書の後の方にある「少しの三下りうたを、今はながき所作にもうたふゆへに、長歌と覚へしや」とは、まさにめりやすのことで、この覚書の書かれた頃に長唄という総稱が世間でいわれ始めたものと思われる。
 前章で、覚書の書かれた時期に拘ったのは、いつ頃から長唄という長短の唄を引っ括めた呼稱が使われるようになったのか、はっきりさせたかったからである。
 最初の長唄集ともいうべき座唄集が出版されたのは宝暦七年(1757)のことで、書名を『女里弥寿豊年蔵』(めりやすほうねんぐら)という。『女里弥寿豊年蔵』という書名にも拘らず、所収の曲はめりやすばかりではなく、「京鹿子娘道成寺」や「執着獅子」など、いわゆる普通の長唄まで含めて七十四曲が載っている。
 そのことから、様々な論議を呼んでいるのだが、雑学の大家として名高い山崎美成は、昔は長唄はすべて、めりやすといったのでゃないか、といった説を述べている。
 この頃までは、まだ長唄といえば長い唄のことであって、今日使われているような総稱としての長唄という呼稱は一般的ではなかったと思われる。
 仮稱として使用した座唄という言葉も古い書物には出てこない。では、何といったか、というと、私見ではあるが、座がかりといったのではないだろうか。
座がかりというのは、『江戸語の辞典』(前田勇編)によると、長唄用語で、「歌舞伎芝居に出演する長唄演奏者。転じて、長唄の名人、上手」とある。他の江戸語の辞書には、別の意味が出ているが、音楽用語とは無関係で、長唄用語としているのは『江戸語の辞典』だけである。
 此処では、長唄の演奏者のことになっているが、彼等が演奏する音楽も座がかりといったのではないかと思うのである。
 『女里弥寿豊年蔵』に続いて、堰を切ったように次々に座唄集(長唄集)が刊行されるのだが、その序文の一部を挙げてみる。
 まず、『女里弥寿豊年蔵』だが、「当世の長唄めりやすのやさ唄」という文句がみえる。また、跋には、「松島、杵屋の流を汲で云々」とある。
 宝暦九年に出た『歌撰集』の序には、「長唄座がかり新古の書キ木」
 とあり、座がかりという言葉が使われている。更に宝暦末頃の刊と推定される『女里弥寿袖鏡』(めりやすそでかがみ)の序には、「誰れか長哥短哥(ながうためりやす)を唄ハざらんや」
 とあって、長短の歌を対比しているようにとれる。
 明和三年(1766)に出た『常盤友』(ときわのとも)には、「夫長歌の名は古今集に起りて今歌曲(うたいもの)となして世に翫も稍これが句法を摸せるゆへに其名ありとかや」
 と出ていて、此処には、特にめりやすという言葉も出てこず、唄の長短にも触れていない。この頃になって、やっと長唄という呼稱が一般化して来たような印象を受ける。
 以上のことを考え合わせると、めりやす等まで含めた長唄という総括的な呼稱が定着したのは明和の初めといってよさそうだ。
 武太夫の『なら柴』の中の他の覚書の日付も明和元年、明和四年など、いずれも明和の初期なので、引用した覚書も同じ頃に書かれたものに相違なく、前の推測を裏付けている。
 では、その長唄という呼稱を定着させた立役者は誰か、というと、符合するのは富士田吉次楓江である。
 楓江については、前に書いた(『せんすのある話』第二章)ので、補足的な説明に止めるが、楓江が役者を罷めて一中節の太夫になったのは宝暦七年(1757)で、更に長唄の唄うたいに転向したのは宝暦十年(1760)のことである。以後、亡くなる明和八年(1771)までの十二年間、その名声を恣にした。享年は五十八才という。
 三升屋二三治は、『戯場書留』の「長唄」のところで、 「松島庄五郎は、世に長歌の元祖、名人といふ、後に流行せしは、其頃銘人富士田吉次楓江といふ、始佐野川千蔵女形を勤しが、後長唄の名世に聞へて、楓江所作の歌うたへば、木戸にて、今は楓江じゃ、楓江じゃ、とよぶゆへ、見物此まくをまって、楓江を聞に来る人、見物を呼ぶ歌うたひ、古今の稀ものなり」
 と書いている。
 松島庄五郎は生没年不明だが、享保の終わり頃から宝暦年中まで、芝居の番付にその名がみえる。享保十六年、「無間の鐘」が唄われた「傾城福引名護屋」で、本唄を唄っていたのは、この松島庄五郎である。『飛鳥川』に、庄五郎は初め野菜市場の呼び込みをしていたが、あまりに声がよいので、唄うたいになったら、と人に勧められて長唄の唄うたいになったという。『飛鳥川』の著者、柴村源左衛門は享保七年(1722)生まれであるから、「無間の鐘」の頃はまだ十才位だが、庄五郎が活躍していた時代を知っている人物といってよいだろう。
 庄五郎は『長唄系譜』では、初代鳥羽屋三右衛門の唄門弟となっているが、別に松島源左衛門門弟とも書いてある。
 楓江は同書では庄五郎の弟子となっているが、『声曲類纂』では、「師不詳」としている。『長唄系譜』には、庄五郎には三人の門弟がいたが、いずれも名人で、一派の流儀を立てた、と書いている。その三人とは、荻江露友、富士田吉次、松島茂平治で、
「荻江露友は諷ひさまいかにも位とり節を細かに諷ふを流儀とす、富士田吉次は諷ひさまはでにして浄瑠璃節をも用ひて唄浄瑠璃と云を流儀とす露友は吉次が上にたたん事かたく吉次は露友が下に立ん事かたく龍虎の勢ひ也と云」
 朋誠堂喜三二という黄表紙作家で、秋田佐竹家の留守居役だった平沢常富の『後はむかし物語』に、
「長唄、路考(初代瀬川菊之丞)が時は坂田兵四郎、仙魚(路考の弟)が時は松島庄五郎なり、此両人は此ころの唄の上手なり、此後、富士田吉次出て一家をなす、継て荻江露友出るといへ共、楓江におよばず、」
 とあるところをみると、龍虎といわれた露友も楓江には及ばなかったようだ。
 天明五年(1785)生まれの三升屋二三治は楓江を知らない筈だから、楓江については故老に聞いた話を書いたのだろう。
 一方、平沢常富は、楓江が死んだ時、三十七才であるから、全盛期の楓江を知っていたに違いない。
「襲名披露興行(六)」の章で、「楓江はかうだとあごで二つゆり」という『柳樽』第十九篇の句を紹介しておいたが、同書は天明四年(1784)の刊行で、楓江の死後、十三年も経っている。
 それにも拘らず、楓江を知っている老人が若い者に向かって、名人楓江はこんな風に唄ったものだ、といった昔話をしているところなのだろう。
 死後十年経っても、昔語りにその名が引き合いに出される楓江の人気の程が偲ばれる。
 山崎美成は、世に長唄を広めた元は楓江である、といっているが、楓江が初演した「鷺娘」、「吉原雀」、「安宅の松」などは、今でも舞踊会や温習会でよく聞かれる、所謂ホット・ナンバーである。
 松島庄五郎や坂田兵四郎などが築き上げて来た長唄を大成させたのは富士田楓江で、楓江によって、邦楽の一ジャンルとしての長唄が、その名稱を含めて名実ともに確立されたといえるだろう。
                       

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