第61話 『長唄の成立(一)原武太夫の覚書』

 長唄は歌舞伎の伴奏音楽が発展して出来たものである。
 今日、長唄といえば、江戸長唄を指すが、それについて『守貞漫稿』には、
「是も京坂等より江戸唄と云江戸にては座唄或は長唄と云也座唄と云は芝居座にて用ふる唄故に名とするなるべし」
 とある。長唄という名稱は古くからあり、元禄時代の有名な歌謡集『松の葉』の第二編に長歌目録として五十曲が載っているが、これらは、短い唄を端唄(歌)とか、小唄(歌)といったのに対して、長い歌という意味でそう呼んだと思われる。『松の葉』の上方長唄に対して、初めて江戸長唄の呼稱が見えるのは、宝永元年(1704)山村座の顔見世番附で、江戸長唄として、岡本源之丞、香川吉右衛門、鈴蟲勘兵衛の名があるが、これらも単に江戸の長い唄という意味で使われていたようだ。
 元禄以前の歌舞伎について書かれている河原崎権之助の『舞曲扇林』の中に出ている音曲の名稱を拾ってみると、拍子舞、上るりうた、小哥、伊勢踊などがみえるが、長唄という名稱は出てこない。
 斉藤月岑の『声曲類纂』に、「この時代のうたうたひは、うたをもうたひ上るりをもかたりしものありしならん」とあるが、『舞曲扇林』の頃の歌舞伎では、まだ役者と地方の分業は完全ではなかったようだ。『声曲類纂』の「江戸長唄」のところに、「元祖中村勘三郎は小諷の名人といふ。杵屋勘五郎、同六左衛門、同喜三郎等の三人は、勘三郎が狂言の脇師にして、ともに小唄をよくし一派をなせり。中村座の狂言に、猿若、新発意太鼓、門松などといふは三味線なし、舞ひながら小唄をうたふのみなりしが、喜三郎よりこのかた、小唄に合せてさみせんをひく事になれりといへり。承応の頃(1652~1654)、竹村市之丞座にて、京師より小唄さみせんの芸者を呼下し、一番づつの放れ狂言をなす。其時はせりふなし。海道下りなどといふものを、小うたに合せて舞しとなり。右近源左衛門も上方より三味せんひきをつれて下りしといへり」
 この右近源左衛門は『舞曲扇林』によれば、「源左衛門の舞はうつくしきばかりに曲なくはずむ事なく、いつも平なる舞にて見る所不足、是不及也」とあって、あまり権之助の評価はよくないが、人気は高かったようだ。
 津村淙庵の『譚海』に、
「芝居狂言のあへしらひ(あしらい)に、一口づつうたふはわか山ぶしと云もの也」
 とある、わか山ぶしとは若山節のことで、その祖は若山五郎兵衛である。五郎兵衛は『舞曲扇林』に鈴虫権左衛門と共に、
「是程びゃうしそろふたる者成べし。舞もののふりと拍子を能おぼへ目をはなたずその所作をまもって隙ありとはみへず、しかも自由をうたひ所作に移りて手を引がごとし。是舞をうたふ者也。さればこそ世上に名を高ふせり、舞と哥と和合せんことをおもふべき事にぞ」
 と出ている。これで見ると、この二人は地方として唄専門だったようにもとれる。前出の『声曲類纂』では、「和哥山五郎兵衛も浄るり、小唄ともによくせしよしいへり」といっている。『譚海』には、更に、
「うたうたひに中山佐世之助といふものあり。元来かぶきの役者成りしが、歌上手にて、後に万太夫と名を改て、うたの芝居を取立て、堺町に矢倉をあげて興行したり。万太夫が子ども両人有、小八、千吉といふ。皆歌の上手也。万太夫、半太夫と同時のもの也」
 と載っているが、『長唄系譜』によると、先の若山五郎兵衛は貞享元年(1684)の出勤で三代目杵屋勘五郎の唄門弟となっていて、「小歌の名人也勘五郎の門弟となり哥舞妓へ出勤す是芝居唄諷ひの元祖也」とある。
 三代目杵屋勘五郎については、「江戸男哥舞妓今様長哥三味線始祖として、美声にして小歌を諷ひ三絃を上手に弾」
 又、中山万太夫については、若山五郎兵衛の弟子の中にその名があり、他の若山平左衛門という弟子の弟子(五郎兵衛の孫弟子)から、若山の姓が和歌山となっているのは、平左衛門が名人で門弟も数人できたが、師家を憚って門弟には和歌山と文字を変えてその名を許したとしている。
 万太夫は半太夫と同時のもの、と『譚海』の記事にあったが、その初代の江戸半太夫は元禄時代に活躍した人で、享保に入るころ(1715)には既に亡くなっていたと思われるので、万太夫も同時代の人物ということになる。
 この時代の長唄は、まだ音楽的に確立されていないので、長唄とは呼びにくい。で、とりあえず、『守貞漫稿』にあった座唄という呼稱を使わせてもらうことにする。
 その座唄だが、享保の終わり頃になって大変化が起こる。
 享保十五年(1730)十一月に江戸へ下ってきた初代瀬川菊之丞が翌十六年の正月に市村座で演じた「傾城福引名護屋」の中で、坂田兵四郎が独吟で唄った「無間の鐘」が江戸で大流行をみる。この「無間の鐘」が後のめりやすの嚆矢とされるが、まだこの時代にはめりやすという名稱はない。
 この「無間の鐘」は新曲ではなく、「時雨笠」とか「笠の段」ともいわれた上方唄だったが、当時の記録によると、「江戸遊所、並びに屋敷町まで、誦し翫.するところ夥しく、享保十八年に至も、いまだすさめず」(『童謡雑録』)といった流行ぶりだった。
 めりやすというのは長唄の短い独吟物のことで、「宵は待ち」や「黒髪」などを今でもめりやすといっている。
 御留守居与力という武士でありながら三味線の名手だった原武太夫については何度か取り上げて書いてきたが、その武太夫の『なら柴』の中に次のようにある。
 それまでの座唄の経緯を含めて、なかなか重要なことが書いてあるので、少し長いが原文を挙げることにする。
「又、近世の歌も皆三下り也、芝居などの賑やかに繁昌なる場にては、三下りの調子甚嫌ひたる事也、故いかんといふに、本調子二上りと違ひて、三下りは恨ねたむ吟にして、こんくわい(狐のこと)、猫杯の類、皆々此類ひ、三下り也、芝居など繁昌なる場にては、古来本調子二上りを第一とするに、先年、上方より坂田兵四郎といふ者下り、菊之丞所作にあはせて、無げんといふ、少し計りの小歌を謡ひし也、これをぬめりといふよし、兵四郎予に出合咄たり、本うたは松島庄五郎勤、あいあいのぬめりを兵四郎うたひし也」
「又、近世長歌と芸者も思て居る長うたとは、意味ある事也、去るによって、古代の役者附などにも、小うたとは記せしが、長唄といふ事はなし、長うたといふはふしをながく引ずりて謡ふゆへに、長うたと覚へしが、少しの三下りのうたを、今はながき所作にもうたふゆへに、長歌と覚へしや」
 武太夫の『なら柴』は、武太夫が役者や三味線弾きなどに書き与えた覚書を集めたもので、この引用文が載っている覚書もその一つなのだが、日付がないので何時書かれたものか、はっきりしない。この覚書の最後に、
「右書面、市村羽左衛門懇望に付自筆して遣、尾上松助も芸に志深切にて、望にまかせ、跡のかたみにもと、筆をうごかしぬ
  先達て懇望に付、自筆して遣し名面
   尾上菊五郎 西川奥蔵 佐々木市蔵
   市川團蔵 杵屋佐次郎 杵屋喜三郎」
 これらの名前から覚書の書かれた日付を推測してみると、手掛かりの一人は市村羽左衛門で、八代目羽左衛門は武太夫より一才年下の元禄十一年(1698)生まれで、宝暦十二年(1762)に亡くなっている。市村座の座元として、武太夫と同じ時代を生きてきた八代目が、自分の目で直接見、経験してきたことについて、武太夫に覚書を懇望するとは思えない。とすると、この羽左衛門は宝暦十二年に亀蔵から羽左衛門を継いだ九代目と思われる。昔のことを知りたいと思っても話してくれる父は既に泉下の人であり、そこで武太夫に覚書を懇望したと考えると、筋は通る。
 この推定が当たっているとすると、覚書の書かれたのは宝暦十二年以後ということになる。『なら柴』自体の最後に明和四年(1767)の日付があるので、宝暦十二年から明和四年までの五年間に書かれたものと考えられる。
 尾上松助は初名を松助といった後の初代尾上松緑と思われる。松緑は子役として十二才で初舞台、宝暦十二年に娘方、明和元年に若女形になったというから、覚書の時期は十九才から二十四才の間となる。
 武太夫が覚書の最後でわざわざ松助について、「芸に志深切にて」と触れていることからみて、松緑は若い頃から芸熱心で武太夫に覚書を懇望したことが窺える。
 尾上菊五郎は初代、市川團蔵は三代目、西川奥蔵は長唄の三味線弾きで、『長唄系譜』では七代目杵屋喜三郎の弟子となっている。杵屋佐次郎は『長唄系譜』にそれらしい名はなく不明、佐々木市蔵は常磐津の三味線弾きで、杵屋喜三郎は、七代目は宝暦二年に死んでいるので、八代目の喜三郎である。(『長唄系譜』)
 武太夫の覚書の内容については次回に————

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