第60話 『山田検校(三) 知られざる一面』

 山田検校について、『閑談数刻』という本に、その発句と、ちょっとユーモラスな逸話が出ている。
 同書は別名を『近世奇人伝』とも云い、種々の人物に関する聞き書きを集めたもので、編者は下谷竜泉寺町の料亭、駐春亭の息、田川幸次郎といわれている。
 山田検校が幽樵と号していたことは知られているが、その発句はあまり見かけたことがない。
 出ているのは、次の七句である。

 浮鳥や水も寐かさず夜もすがら
 はさミをバ持て牡丹の切おしみ
 気を長う持てバ聞なり時鳥
 日本の人は蜻蛉の腹ごもり
  附合前句、顔をしかめて習ふ浄留理
 しわん坊ちと又此世のうさはらし
  (河東ぶし神楽獅子の文句をとりたり)
 ひや酒も癪にきく時きかぬ時
 引け過に来る裸業平

 五行目の「附句云々」は、次の「しわん坊」の句に掛かる。
 第四句は、『日本書紀』巻三に出ている、神武天皇が大和の腋上ほほ間丘(わきのかみ、ほほまのおか)に登り、一帯の地を眺められて、「蜻蛉(あきつ)の臀なめ(となめ)の如くあるかな」と仰せられたという故事に因んだものである。あきつしま、という名稱はこの故事から起こったという。
 となめとは交尾のことで、日本人はそのとんぼから生まれた、という句意である。
 第五句は、七行目にあるように、河東節「式三献神楽獅子」下の巻(忍の段)の「今夜はゆるす、あすの夜は、ちとまた此世の憂さはらし」とある文句をとったものである。
 山田流と河東節とは、前章で述べたように、極めて密接な関係があり、今でも河東節をおやりになる山田流箏曲の方は多い。
 河東節が一方的に山田流に入っている訳ではなく、河東節にも山田検校作曲の「熊野」がとり入れられている。
 河東節の「熊野」はよく演奏される曲だが、この「熊野」を河東節にとり入れたのは三代目山彦新次郎ではなく、江戸時代最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶で、可慶は死後、九代目河東を追号されている。
 発句に続いて、次のようなエピソードが二つ出ている。
 (一) 片田勾当がまだ座頭だった頃、日々稽古に来る或る日、掃除をしてい た所へ来合わせて、立てかけてある琴をいじったのを聞いて、
 立てかけた琴に座頭の瀧のぼり 山田
 それに対して、片田の返し、
  座頭ほど人間近きものはなし
     むかしは人か目のあとがある
 (二) やんごとなき方からの仰せで、十二調子の風鈴を自宅へとり寄せ、駕籠の中へも持ってこさせて、二、三年かかって(音の調子を)相揃えてさし上げたことがあった。
 このエピソードの後に、例の太田錦城の「山田検校墓表」の畧文が載っていて、最後に、
「聞き置き候まま申し上げ候行状薫績は碑銘の略文にて御斟酌下さるべく候」
 とあり、続けて、
「此書は検校次男橘町琴師重本幸三郎当時四ッ谷に隠居して居候人に聞候へば自筆にて認参り候故さし上申候」
 という添え書きがある。この幸三郎は、源照寺の今の検校の墓を建てた人物で、検校の次男であったことが、これでわかる。
 山田検校が出版した二冊の曲集の内、『吾嬬箏譜』の方は、村田了阿の考証付きで『日本歌謡集成』に収録されているので容易に目にすることが出来るが、『山田の穂並』の方は残念ながら未見である。『吾嬬箏譜』の序文は重元房吉が漢文で書いているが、山田検校の事績を賞揚した内容に終始している。跋は普通の文章で、指月散人百泰という人の撰で、板の文字を書いたのは臨海主人となっている。『吾嬬箏譜』は文化六年に出板された後、文政七年(1824)に再板、更に天保十年(1839)に改板されて出ている。再板の時に、山登検校が跋に続けて漢文で再板の辞を書いている。『日本歌謡集成』の『吾嬬箏譜』は天保十年の改板のもので、最後に「蔵本仕立所 江戸橘町三丁目」として、「琴師重元平八」の名がある。
 平八は、天保十年頃の重元家の当主であったと思われる。とすると、重元と重本は同じと考えられるから、平八は幸三郎の子かもしれない。
 幸三郎の年令は不明だが、山田検校の三十才頃の子とすると、天明の末の生まれで、父の検校が亡くなった時には三十一、二才。天保十年には五十代半ばになっている。『閑談数刻』に、四谷に隠居しているとあったが、昔はその年令で隠居しても可笑しくない。源照寺の今の検校の墓を建てた嘉永二年は、更にその十年後に当たるから、幸三郎は少なくとも父の山田検校より長生きをしたといえそうだ。
 重元房吉は山田検校の弟で、検校と共に琴の改良に努めたといわれているが、手許の資料には、弟だったという確証はない。
 弟だったとすると、弟の房吉に子がなかったので、自分の次男を養子にやった、ということになる。
 弟でなかったとしても、琴の改良の協力者だった房吉の所へ次男を養子に出しても不思議はない。
  これらは、すべて推測で、はっきりしているのは、重本幸三郎が山田検校の次男だということだけである。
 さて、指月散人の跋だが、その中に、「自らも歌を作り、人をして作らしめつつ、夫にあらゆる曲節を尽せるもの」とある、この歌とは歌詞のことを指しているようだ。検校は節付けだけではなく、作詞もすべて人まかせにせず、自分でも手がけたということである。
 指月散人についてはよく分からないが、跋の中で、「師に浅からぬ因みあるをもって、この文を作る」といっている。
 山登検校の再板の辞に、「(初板の)その後、章句の内、先師(山田検校)の鉛槧を加へる所少なからず」とあるが、これによって、山田検校が既成の曲の歌詞に推敲を加えていたことが分かる。『吾嬬箏譜』には、これ以上の山田検校の個人に関する情報は載っていない。『山田の穂並』は未見なので何ともいえないが、序や跋に何か書かれているかもしれない。

 四月の初めに、私は再度、源照寺を訪れることになった。
 それには、次のような事情があった。
 前回、源照寺へ行った時は雨に降られたこともあり、また助川君から貰ったコピーAに墓誌の全文が載っていたので、実際の墓の刻文とチェックせずに帰ってきてしまったのだが、『閑談数刻』に出ている墓表の畧文とコピーの文を突き合わせてみたところ、相違が見つかったのである。それは検校の妻についての記述の部分で、コピーには「娶中田氏」となっているのに、『閑談数刻』の方では「娶古筆氏」となっている。実際は、どちらなのか、確かめるために、再度の高砂行きとなったのである。
 前回とは打って変わった好天に恵まれ、歩いていると、ちょっと汗ばむ程の陽気だった。
 源照寺の境内には相変わらず人影はなかったが、山田検校の墓前には新しい花が供えてあった。前回と云い、今回といい、同じ人かどうかは分からないが、未だに検校を慕って墓に詣でる人がいるのを知って感慨も一しおだった。
 墓表の刻文はコピーAと同じで、中田氏となっていた。
 となると、『閑談数刻』の方は誤りなのだろうか。しかし、「中田」と「古筆」では、字としては間違いようがない程、異なっている。『閑談数刻』の記事を書いたのが、検校の実子の幸三郎だけに、一概に間違いと片付けられない気がする。検校の妻は幸三郎の母である。幸三郎が母についていい加減なことを書く筈がない。それならば、何故幸三郎が古筆氏と書いたのだろうか。幸三郎の母は碑文の通り中田氏だったが、もしかして、古筆氏一族の縁者だったのではないだろうか、例えば、古筆氏の女が中田氏に嫁いで生んだ子、といったようなことである。
 古筆氏は古筆了佐を祖とする名家である。
 了佐は関白近衛前久に従って古筆の目利きを伝授し、遂に古筆鑑定家の始祖となった。関白豊臣秀次より古筆と名乗るよう命ぜられ、琴山の印を賜わった。以後、代々極印にこれを用いたという。
 幸三郎は、母が古筆氏の血筋の者であることを誇りに思っていて、敢えて母の出自を古筆氏としたと思われる。
 不十分な資料しかないのに、山田検校について筆をとる気になったのは、『閑談数刻』に検校の知られざる一面を書いた記事を見つけたからである。
 太田錦城の碑文はよく知られていて、人名事典などの山田検校の項は、それが基になっているようだ。しかし、親孝行で真面目一辺倒で近寄り難い人という印象の強い検校が、実は茶目気もあり、ユーモアを解する人物だったとわかると、なんだか急に身近に感じられ、何となく親近感を覚えるのは私だけだろうか。
               —————–終わり——————  

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