第59話 『山田検校(ニ) 墓表』

 源照寺の山田検校の墓の正面に刻まれた碑文は、前記のように太田錦城の草案を検校の子の孝恕が書いたものである。
 最初に、「瞽師山田検校墓表」とあって、漢文で書かれているが、かなりの長文なので、必要と思われる部分だけを恣意的に選んで要約する。
「山田検校は初め山田松黒について箏曲を学び、出監の誉れがあった。後に自ら歌曲を作り、その数は百に及んだ。上は諸公の家から、下は巷の人々まで、多くの人達が山田流箏曲の門下となった。旧曲を伝える検校達はそれを快く思わず、検校の才能をねたみ、山田流の新曲が広まって行くのをやっかんで、謗りや中傷も多かったが、その名を損ずることは出来ず、山田流は益々盛んになって行った。検校は諱は斗養一、号は幽樵、本性は三田氏で父は了任、母は山田氏。宝暦七年(1757)四月二十八日生まれである。幼時に視覚を失ったが、音曲が好きで諸家について筝を習った。後に山田松黒を師とした。師と母の姓が同じであることから、山田姓を名乗った。中田氏を娶り四人の男の子があった。文化十四年(1817)四月十日病卒。享年六十一才。浅草山谷源照寺に葬った。戒名は覚凉院殿一誉響和斗養居士。検校は人となり聡慧温柔、和順従容として迫らず、寛容で人と争ったり怒ったりすることがなかったので、人は皆、検校を愛して慕った。また大変に親孝行で、検校が五十才を過ぎても父親がまだ存命だったが、自分が盲目であるのにも拘らず父によく仕え、起居飲食に父の意に従って、その歓心を得ることに努めた。予(錦城)は検校の隣に住んでいて、お互いに好意を持っていた。山田流の子弟達の要請で此の墓表の文を作る」
 この後に、いかにも太田錦城らしい銘があり、最後に、「文化十五年戊寅四月望」と日付があって、下に「加賀太田元貞才佐撰、不肖子孝恕建之并書」と刻まれている。
 儒者の太田錦城は加賀の産で、名は元貞、字は公幹、号は錦城の他にもいくつかあるが、矢の倉に住んでいたので矢倉潜夫ともいった。矢の倉は前章で触れた通り、幕府は正保二年に矢の倉建設に着手している。矢の倉には船の出入りの為の堀があって隅田川と通じていたのだが、元禄十一年(1698)に矢の倉は火事で焼けて跡地は武家地や町家となり、その後、明和八年(1771)に堀の大半が埋め立てられて、その埋め立て地に医者が多く住んだことから薬研堀の名が起こったという。薬研とは薬の材料を細かく碎く器具のことである。
 三升屋二三治の『貴賎上下考』に、山田検校は薬研堀の石橋の角に住んでいた、と書いてあるが、錦城はその隣人だった訳である。
 錦城は儒家として三河の吉田藩に抱えられたが、後に生国の加賀藩に招かれ三百石を与えられたという。文政八年(1825)六十一才で没した。明和二年(1865)生まれの錦城は山田検校より八才年下である。
 墓表の文から、錦城が山田検校の人柄に感心して好意を抱いていたことが、そこはかとなく伝わってくる。
 錦城らしい銘の最後、それは碑文の最後でもあるが、次のように結ばれている。
「嗚呼世人 目明而心盲 師乎師乎 目盲而心明」
 意味は説明するまでもないと思うが、
「ああ、世の人は目は明いていても心は盲である。師よ、あなたは目は盲であっても心は明いている」
 碑文にそって補足を加えると、山田検校の師の山田松黒は生田流の長谷富検校の門人で安永八年(1779)に『箏曲大意抄』という書を出板している筝曲家であると同時に、医者だったといわれている。
 山田検校は自作の曲集を二度出板している。最初は寛政十二年(1809)に『山田の穂並』を、次いで文化六年(1809)に『吾嬬箏譜』(あづまことうた)である。
 山田流の流行について前章で引用した京山の『蜘蛛の糸巻』に、「琴曲の風三変して」とあったのは、「六段」、「みだれ」等を作曲した八橋検校、生田流の祖の生田検校、それに山田検校を加えて、この三者によってそれまでの箏曲が変革したといっているのである。又「天明に山田検校出でて」とあるが、宝暦七年生まれの検校は天明元年(1781)には二十五才になっている。山田検校の名が世に知られるようになったのは二十代の中頃からということなのだろう。
因みに、山登検校は天明二年(1782)生まれであるから、十三、四の頃から師に隨って立派な御屋敷に出入したとあるのは、寛政六、七年頃のことになる。山田検校は寛政十二年に最初の曲集『山田の穂並』を出している。
 式亭三馬の有名な『浮世風呂 二編巻之上』に、
 きち「お釜さん(いぬの娘)はお琴もなさいますネ」
 いぬ「ハイ。生田を習わせましたが、此間は尼駄(あまだ)さまのほうへ上ました。モウ中許(なかゆるし)を取りましたヨ」
 と出ているが、この尼駄とは山田のことで、生田流をやめて山田流に入門したといっているのである。まだ他にも出ているところがあるかもしれないが、気がついたので挙げておく。『浮世風呂 二編』は文化六年(1809)の刊である。
 その文化六年に山田検校は二冊目の曲集『吾嬬箏譜』を出板している。
 京山の『蜘蛛の糸巻』に、山田検校作曲の曲の歌詞には「名家の作もありて」とあるが、名を挙げていないので、誰が何を作詞したのか、よくわからない。村田了阿が『吾嬬箏譜考証』という書を残していて、『吾嬬箏譜』の歌詞について丁寧に考証しているが、それを見ると、作詞者は勿論複数であると思われるが、いずれも相当に学識のある人物の作に間違いない。
 村田了阿は国学者で、浅草黒船町にあった有名な村田という煙管屋の次男だったが、二十五才で法体となり下谷坂本に隠棲して長屋暮らしをした。博学で話が面白いので了阿を招く人が多かった。白河楽翁からも声が掛かったが、了阿は、堅苦しい所は御免、と断ったという。その時、了阿が詠んだという狂歌が伝わっている。
「三ぜんの膳を二ぜんに減らすとも、ごぜんごぜんとへつらふはいや」
 というのである。
 山田検校は、河東節、一中節、富本節を自作に積極的に取り入れて作曲したといわれている。
 筆者の亡くなった母は娘時代、山木芳賀という師匠について山田流の箏曲を習っていたというが、結婚後中断していたのを晩年になって再開して楽しんでいた。勿論、昔の琴や稽古本などは震災や戦災で焼失してしまったが、母の遺品の『箏曲歌集』(昭和二十三年刊)という山田流の唄本を見ると、河東節は「源氏十二段」、「助六ゆかりの江戸桜」、「常陸帯」、「七草」(山田流曲名は「河東七草」)の四曲、一中節は「松の羽衣」、「賎機帯」の二曲が載っている。富本はちょっと分からないが、節をとり入れただけなのかもしれない。
 前の河東節について書いた所(第二十九章「河東節(二) 蔵前河東連」を参照)で述べたように、山田検校に河東節を教えたのは河東節の三味線弾き、三代目山彦新次郎である。
 新次郎は吉原の引手茶屋、桐屋の三代目(四代目とも)五兵衛の倅だったが、芸事が好きでそれに専念するために、家業を妹聟に譲って河東節の三味線弾きになった。初め、山彦文次郎と云い、文化二年(1805)に三代目山彦新次郎を継いだ。新次郎は『名人忌辰録』によると、文政六年(1823)に六十三才で亡くなっているから、宝暦十一年生まれで、山田検校より四才年下である。この新次郎は後に五代目都一中に望まれて相三味線となり、一中節の三味線弾きが山彦新次郎では可笑しいからと菅野序遊と名乗った。一中節菅野派の祖、初代菅野序遊である。一中の三味線弾きとなっても、河東節をやめた訳ではなく、両流併行してやっていたようだ。幼い頃から芸好きだった新次郎は何でもござれで、義太夫は三百余段を覚え、長唄は勿論、琴も堪能で山田検校について奥許しをとる腕前だった。山田検校に、琴爪を丸くした方がよいと進言したのは新次郎だといわれている。山田検校が誰から一中節を習ったのかは分からないが、案外やはりこの新次郎からかもしれない。
 新次郎が芸熱心だったことは次のエピソードからも知られる。
 文化年中、駒形に住んでいた新次郎は類焼に遭って焼け出され、箔屋町(今の日本橋三丁目辺)に仮住まいをしていた時、一中節の「天の網島」の作曲に没頭しているのを見た或る人が、こんな災難に遭った時に節付けでもないでしょう、といったところ、宝物や家財などは火事に遭えば焼けて無くなってしまうが、芸にはそんな心配はいらない、といったと伝えられている。
             —————-この稿続く——————-

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