第58話 『山田検校(一) 源照寺』

 山田流箏曲の流粗、山田検校の墓は都内葛飾区の源照寺にあると聞いていたので、葛飾区に住んでいる友人の助川君に案内を頼んで、源照寺を訪れたのは三月の末の雨の日だった。
 京成電鉄の高砂駅で待ち合わせて、駅前の踏み切りの広い通りを柴又方向へちょっと行った最初の信号の所が旧佐倉街道だそうで、そこを東京方向に左折して暫く歩いて行き次の信号の交差点に出ると、向こう側の角に崇福寺という大きな寺が見える。そこが柴又街道との交差点で、右折して柴又方向に向かって崇福寺の塀に沿って行くと、隣の寺が源照寺である。高砂駅から普通に歩いて五、六分というところだろうか。
 山門を潜って中へ入ると、がらんとした平坦な空間が広がっている。正面が本堂で、境内に人影はなかった。見廻すと、左手奥に立っている大きな石碑が目についた。
 傍へ寄って見ると、「山田検校の碑を移すの記」とある。
 碑文は長文なので概畧を記す。
「山田検校の墓は山谷新鳥越の源照寺にあったが、大正十二年の関東大震災で霊龕(レイガン)は壌れてしまった。しかし、幸い碑は無事だったので、震災後の区画整理でこの地に移転することになった源照寺に、寄付を募ってその碑を移すことにした」
 といった内容で、昭和三年の日付けがある。
 霊龕というのが、どういうものか、よく知らないが、龕には、佛壇とか、寺の塔の下の室とか、いった意味があるようだから、元の検校の墓所は単に墓石があるだけではなく、石で造られた大きな厨子のような構築物の中に墓や石碑が収められている立派なものだったと思われる。それが大正の大地震で崩壌してしまったが、碑だけが僅かに損壌を免れたということなのだろう。
「山田検校の碑を移すの記」の石碑の裏面には醵金者の名が出ているが、荻岡松韻、今井慶松、高橋栄清といった当時の山田流の錚々たる師匠方の名が並んでいる。

 助川君は私の為に、区の図書館の蔵書の中から、源照寺と山田検校に関する記事のコピーをとって来てくれていた。どうやら、コピーは二冊の本からとったらしく、書名は載っていなかったが、二冊とも葛飾の史跡について書かれた本のようだ。このコピーのことに後で何回か触れるので、一応、二冊の本をA,Bとして置く。
 そのAのコピーによると、浅草山谷にあった源照寺は、宗円和尚の開山で、寛永三年(1626)に蔵前鳥越に創建されたが、明暦三年(1657)の江戸の大火で類焼して、山谷の新鳥越に移った、とある。
 それに続いて、元禄の『蓮門精舎旧詞』には、「寛永三丙寅年起立、正保三丙戌年、移今地也」とあるといっているが、この引用文では正保三年(1646)に今の地、即ち浅草山谷新鳥越に移ったと記されている。そうなると、前にあった明暦の大火に類焼して移って来たというのと、どちらが正しいのか、という疑問が当然出てくる。調べてみると、幕府は正保ニ年に両国橋の下手に矢の倉を造営する工事を始めている。その時、鳥越の鳥越神社の境内と付近の丘陵を崩して、その土砂を矢の倉建設に使用したが、そのため、鳥越神社を除く町屋や寺院の多くを山谷に替え地を与えて移したことから、新鳥越の名が起こり、元の鳥越の方はそれと区別するために元鳥越と稱したという。これでみると、源照寺が正保三年に鳥越(元)から新鳥越に移ったという記述の方が筋が通っている。
 さて、山田検校の墓だが、本堂の左手の道を本堂に沿って奥へ入って行くと、道の左側に墓地が続き、やがて本堂の建物の裏へ出る。裏は墓地がずっと広がっているが、その本堂の建物が終わった取りつきに検校の墓はある。
 石で囲った墓域はそれ程広くはない。墓も小さくはないが、それ程大きくもない。誰が供えたのか、黄色い花が雨に打たれる度に僅かに震えていた。
 墓の正面は、太田錦城撰の漢文の墓誌が刻まれている。長文なので、墓石の面にぎっしりと漢字が並んでいる。助川君のコピーの中に、この墓誌の全文が載っていたので、雨の中、碑文を写す手間が省けて助かった。この碑文については後で委しく触れることにする。
 墓の右面には、中央に「覚凉院殿一誉饗和斗養居士」と戒名、その右に、「文化十四年丁丑四月十日卒」、左に、「前総録山田検校之墓」とある。
 墓の左面には、四行に、「重元幸三郎孝恕」、「山登松和一」、「高木政次郎樸恒」、「嘉永ニ年己酉四月建之」。

 墓の裏面は、黒く、ごつごつと粗くて、何か字が刻んであったものが麿滅損爛してしまったのか、或いは、初めから何も彫らず、石の面を地のまま残してあるのか、どちらとも判断しかねる状態でよくわからない。
 右面に、「前総録山田検校之墓」とあるから、検校の墓はこれに違いないが、「山田検校の碑を移すの記」にある、その碑とはこの墓のことを指しているのか。碑を移すと書いてあるが、墓を移すとはいっていない。しかし、他に、それらしいものは見当たらない。総録というのは、江戸に於ける盲人の総取締役のことで(『守貞漫稿』)、山田検校は亡くなる年の文化十四年二月に第六十八代総録となったが、四月に死去した。戒名の「覚凉院殿一誉饗和斗養居士」の一誉の一が、式という字によく似た一の異字(式の中のエを一と書く)になっているので、多分取り違えたのだろう、助川君から貰ったBのコピーでは、戒名が、「覚涼院殿式誉饗和斗養居士」となっていて、凉の字も又、涼とサンズイになっていた。
 墓石正面の墓誌の内容は後述するが、その最後の行に、「文化十五年戊寅四月望、加賀太田元貞才佐撰」とあり、それに並んで、「不肖子孝恕建之并書」とある。太田才佐とは太田錦城のことで、錦城は著名な儒者である。その錦城が文を作り、それを書いたのが検校の子の孝恕で、孝恕がこの碑を建てた、つまり碑の文字は孝恕が書いた文字ということである。
 左面に最初に出ている重元幸三郎孝恕がその同じ孝恕で、次にある山登松和一とは、山田検校の高弟の山登検校で、初代山登検校は本名を高木清吉と云い、天明二年(1782)に生まれ、元治元年(1864)に没した。享年、八十三才。松和一の一は一名(いちな)と云って、『広辞苑』によると、「鎌倉末期の如一を祖とする琵琶の流派は一名を付けるので一方(いちかた)と呼んだ。後世は一般盲人もつけ、市、都の字も用いる」とある。
 この山登検校について、山東京伝の弟、京山の『蜘蛛の糸巻』に、
「扨天明に山田検校出でて、寛政、享和を盛りに歴て妙音なりし上に、風雅もありて、文墨の名家にも交り、自作の琴曲、或は名家の作もありて、文句みやび、且つ艶色もありて、調の手、雅俗に渡りておもしろければ、生田の森は落葉して、山田の稲いやさかえて、琴曲の風三変して、門人多かりし中に、今の山登検校出監の聞えありて、山田も我が跡をつぐべきものと慈愛せられ、十三四の比より、師にしたがひて、しばしば瓊殿錦堂へも館入せりとぞ。是寛政の比なり。(中畧)今琴の音するところ、山田流にあらざるなきは、山田、山登ニ検校の名誉といふべし」
 とある。
 三行目の高木政治郎については、今のところどういう人物か不明。高木という姓からして、もしかすると山登検校の縁者かもしれない。
 さて、四行目の「嘉永二年已酉四月建之」の日付だが、嘉永二年(1849)は、文化十四年になくなった山田検校の三十三回忌に当たる。一方、正面の碑文の日付は、「文化十五年四月望」であり、「不肖子孝恕建之并書」とある。
 これらのことに関して何か書かれたものでもあれば別だが、今のところは推測するしかない。
 一つ、はっきりしていることは、山田検校の一周忌に本格的な墓が建てられたということである。その時、錦城撰の墓誌を刻んだ碑が造られた、或いは墓に直接彫られたのか、どちらかは分からないが、その碑が何らかの事情で損傷を受けていたと考えられる。三十年の間に地震、火事などの被害を蒙ったのかもしれない。
 それで、三十三回忌に当たって、錦城の碑文を刻み直して今の墓石を造ったものか。

 ごつごつして真ッ黒な墓石の裏側も気になる。「山田検校の碑を移すの記」の、移すのは碑であって、墓といっていないのは、検校の墓は霊龕と共に壌れてしまったからで、今の墓石がその碑だとすると、右面に、「山田検校之墓」とあるのは、供養墓として建立したものだろうか。  こうして想像すると切りがなくなる。

コメントを残す