第57話 『「ダンデイズム」東西(四) 大和屋文魚』

 この稿のタイトルを「ダンディズム東西」として、西はボー・ブランメルをとり上げたが、そのブランメルに対抗できる日本の伊達男を見つけることは難しいと前に書いた。
 この稿を書いている内に、思いついた人物がいる。それは、十八大通の一人、大和屋文魚である。
 文魚については、河東節に関する章で何度も触れてきたので、重複するところもあるが、此処にまとめて置く。
 文魚の姓は吉田、通稱を大和屋太郎次と云い、蔵前の札差だった。(蔵前の札差については、第二十九章「河東節」(二)を見て戴きたい)
 文魚は河東節を五代目の平四郎河東に学んで、段数多く覚え、声、節、拍子共に揃った名人といわれた。初め、浅草御蔵前片町に住み、後に森田町代地河岸通りに移った。寛政十二年(1800)に七十一才で死んだというから、享保十五年の生まれである。
 三升屋二三治は『十八大通』(別名『御蔵前馬鹿物語』)の中に、蔵前の札差達の馬鹿遊びを書いている。十八大通などといい始めたのは立川焉馬で、その中には、魚河岸の豪商、鯉屋藤左衛門の鯉藤や、吉原で初めて、芸者を管理する見番というものを設けた大黒屋庄六(正六とも)など、札差以外の人物も入っていたが、その多くは札差だった。
 十八大通の中で有名なのは、大口屋暁雨と大和屋文魚で、暁雨は大の團十郎(二代目栢莚)贔屓で、芝居の助六の出で立ちで吉原通いをしたという。文魚について二三治は「此人十八大通の頭にして」と書いている。『十八大通』には、文魚に関する話がいくつか出ているが、その一つに、
「文魚といふ人は、享和(十九世紀初頭)の年末迄有し足代方御用達、大和屋太郎次といふ」
 とある。足代(あししろ)方御用達とは、よくわからないが、足代とは建築の足場のことだから、文魚は札差の外に、幕府の普請に係わる足場の調達も請け負っていたものか。
 文魚は金にまかせて、取り巻きを大勢連れて吉原に出入りしていたようで、文魚の所は、女郎買いの稽古所といわれた。文魚と彼の取り巻き連中は、親分子分、兄弟分といった関係で、彼等は文魚から文の一字を貰って表徳とし、大通の仲間に入れて貰った。
 文魚は、自分が河東節の名手だったこともあって、周りに河東節をやらない者がいると機嫌が悪く、誰彼となく河東節をやらせたので河東節が流行ったが、これは文魚のお陰である。
 その文魚の取り巻きの一人に文蝶という髪結いがいたが、この文蝶が結った髪でなければ、文魚は気に入らなかった。文魚は本田という髪形に結っていたので、その髪を文魚本田といった。本田というのは、本田忠勝の家中の者達が結っていた髪形で、前七分、後三分と厚さを定めて、紙捻り七つ宛で、「もとどり」を結んだ髪形が初まりだという。(三田村鳶魚『江戸芸者の研究』)その後、様々な本田風のヴァリエイションが出来た。文魚本田もその一つだが、文蝶が結ったものでなければ、文魚本田とはいわなかったという。
 京伝の弟の京山が書いた『蜘蛛の糸巻』に次のような話が出ている。
 ある時、十八大通が集ったことがある。
 その時、文魚は銀のはりがねの元結で髪を結って行った。それを見て、通人の一人が、どうせ今日一日だけ格好をつけて来たんだろうから、別に誉める程のことじゃない、といった。それを聞いて文魚は以後、ずっと銀の元結を用いたという。
 一事が万事、こんな調子で贅沢が次第にエスカレートして行ったら、金がいくらあっても足りなくなるのは当たり前である。
 二三治は『十八大通』の序文の最後に、
「野暮なれば無事に暮して目出度けれ、とをりものこそ金につづまる」
 と自作の狂歌を載せているが、「とをりもの」とは「通り者」で、通人のことである。
 通人といわれた人物が、豪遊放蕩の末、産を失って没落して行った例は数多いが、文魚もその例に洩れず、晩年は神田川に住んで、そこで死んだという。
 その零落した文魚のエピソードが『十八大通』に出ている。
 文魚が、これから丸の内の屋敷へ行く、というのをそこに居合わせた百路坊という俳諧師が聞いて、途中までお供しましょう、といって付いてきた。百路坊というのは、同じ二三治の『貴賎上下考』に大上総屋治右衛門という吉原の遊女屋の息子だったとある。
 文魚には実は何のアテもないのである。
 昔、丸の内辺に屋敷を構える大名などに金を貸していたことがあったので、そういったと思われるのだが、そんなものはとっくに回収済みで、屋敷へ出向く用事などないのだ。
 あちこち歩き廻った揚げ句、文魚は鍋島家の土手で立ち小便をして、元の道を帰り始めたので、百路坊はびっくりして、丸の内の御屋敷へいらっしゃると先程いわれたが、一体何処へいらっしゃるんですか、と尋ねると、文魚は、今は銭無しだが、人前を飾るため、折々御屋敷へ出る顔をして、用がなくても丸の内までわざわざ小便をしに来るのだ、といって、このことは人には絶対に云うな、と念を押したという。
 文魚の没落した時期がはっきりわからないが、この話は産を破って間もない頃のことだろう。文魚の作詞、作曲と伝えられている河東節「筆始四季の探題」の開曲が天明三年(1783)であるから、少なくともそれ以降のことになる。
 金をばら播いて、人がチヤホヤしてくれていた頃のプライドは、なかなか捨て難いもののようだ。
 幕末の大通、細木香以の話だが、今紀文といわれたような放蕩の末、隠居を余儀なくされ、寒川といった現在の千葉で細々と暮していた時に、海辺で江戸から興行に招かれた相撲取り達と出会ってしまった。力士の中に曾て香以の贔屓になった者がいて、砂浜に手をついて香以に挨拶をした。香以は彼等に肴の盛り籠を贈って祝儀としたが、そのために一ヶ月の間、切りつめた生活をせざるを得なかったという。
 同様の話が、香以以外にも、いくらもあるが、こうした見栄や痩せ我慢から出た話は「いき」とは程遠く、むしろ聞き苦しい。
 文魚の銀の元結の話に続いて、『蜘蛛の糸巻』に、傾産後の文魚の話が出ている。この話がなかったら、文魚をとり上げる気にならなかったかもしれない。
 落ハク後の文魚が御厩河岸に住んでいた頃、とあるが、文魚が死んだのは神田川の住居であるから、その前のことになる。
 御厩河岸というには今の厩橋近くの川べりのことだが、本所側なのか、浅草側なのか、はっきりしない。
 ある貴人の隠居が、文魚が河東節の名手であると聞いて、文魚を自宅に招いて河東節を語って貰った。
 浄瑠璃がすんだ後、別座敷で酒肴が振舞われ、お礼として、文魚は芸人ではないので八丈縞五反、文魚が同道してきた三味線引き二人には夫々、目録が贈られた。
 文魚はその場で、貰った反物を、これは寸志だ、といって、立三味線の者に三反、脇三味線に二反、分け与えたという。
 立三味線は山彦源四郎で、その翌日、京山の兄の京伝に、その話をしているのを傍で聞いていた、と京山は書いている。
 この源四郎は、時代からいって寛政四年(1792)に没した二代目の源四郎と思われる。
 京伝が一流作家として認められるようになったのは、黄表紙『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)が出た天明五年(1785)頃からであるから、この話はそれから源四郎が亡くなる寛政四年までの間のことだろう。
 もっとも、文魚が死んだのは寛政十二年(1800)だから、寛政四年以後の可能性が全くないとはいえない。その場合の源四郎は二代目の息の三代目源四郎ということになる。
 源四郎はこの話を京伝にして、文魚のことを何といって誉めたか知らないが、大いに讃えたとある。
 この話には、丸の内の小便や細木香以の相撲取りとの話のような見栄や痩せ我慢といったものをあまり感じさせない、何か、さっぱりとした爽やかさがあって心地よい。
 勘ぐれば、勘ぐれないこともないが、現場に居合わせた源四郎が賞賛したというのだから、文魚のその時の態度は嫌味のない立派なものだったのだろう。時と共に文魚も変わって行ったのかもしれない。
 文魚を「いき」な人物と思うか、どうかは、ブランメルをダンディと考えるか、どうかと同様、人によって違うだろう。
「いき」と感じたり、思ったりすることは、その対象が客観的な自分以外のものについては問題ないが、自分自身のこととなると、違ってくる。なぜなら、自分を対象として擬する時、客観であるべき対象が自分という主観体と入れ替わってしまうからである。マイナスとマイナスを掛け合わせると、正反対のプラスに変わる。これは、禅でいうところの道と酷似している。
 趙州禅師が、まだ修行中の若い頃、師の南泉に、道とは何か、と尋ねた話が『趙州録』という本に載っている。
 南泉は、平常心だ、といった。趙州が更に、それを目指して修行すべきでしょうか、と訊くと、南泉は
「擬すれば即ち乖く」(求めて目指すと、その途端に外れてしまう)
 と答える。
「いき」も全くその通りで、誰かが、自分自身を「いき」だと思ったら、その瞬間、その者は「いき」ではなくなるのである。
 自分で自分を「いき」だと思うのは、それこそ「ヤボ」の骨頂だ。
 ここにも最後のどんでん返しという「いき」の図式が生きている。
 この稿を哲学的表現で締め括らせて貰うと、「いき」は「いき」によって止揚されているのである。
                           おわり

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