第56話 『「ダンデイズム」東西(三) 「いき」のパターン』

 九鬼周造博士は、「いき」は「浮かみもやらぬ流れのうき身」という苦界にその起原をもっている、と『いきの構造』の中でいっている。前章で、粹は水であると書いたが、ここでは、同じ水であっても、流れる水になっているのが、面白い。
「浮かみもやらぬ流れのうき身」というのは、長唄「高尾懺悔」の一節である。
 同書には、「いき」の内包的徴表として、媚態(色っぽい)、意気地(張りがある)、諦め(さっぱりしている)の三つを挙げている。
 この三つの内、媚態は「粹」にも共通している。従って、「いき」が「粹」と異なる特徴といえば、残りの二つで、更に優先順位をつけるとすれば、「いき」という言葉は「意気地」から来たといわれているようだから、やはり「意気地」が先で、次いで「諦め」となるだろう。
 江戸時代の身分制度は厳しいもので、幕府は町人の奢侈を再三にわたって厳重に取り締まって来た。特に、町人階級と武士階級の経済力が逆転した江戸中期以降は、更にエスカレートして行ったようだ。
 七代目團十郎は、贅を尽した自宅の普請などを咎められて、江戸十里四方を追放になっているが、こうした例は挙げれば限りがない程である。
 しかし、そうした規制が厳しければ厳しい程、何とかその制約をくぐり抜けようとする工夫が生まれる。経済力に余裕を持つ町人達の智恵である。
 例えば、羽織の裏に凝るなどというのもその一例で、裏は外目では見えないから普通の羽織である。ここで、羽織を脱いで裏を見せて、自分がいかに凝っているかを自慢するのはヤボの骨頂で、「いき」な男はごく普通に振舞って決して自分から誇示したりしない。後刻、羽織を脱いだ時に初めて気がつき、人はびっくりする。金のかかった羽織をさりげなく着ている人物は奥床しくみえる。
 こうした場合、誰でも人に見せて自慢したがるものだが、「いき」な男はそうではないのだ。羽織を脱ぐ機会がなければ、羽織の裏は人の目に触れることはない。「いき」な男にとっては、それでいいのである。
 時代は江戸より少し遡るが、千利休と秀吉にまつわる次のような話が伝わっている。
 利休が朝顔を栽培していると聞いた秀吉が、利休の所へ朝顔を見に行った。
 当時、朝顔は大変珍しい花だったという。
 利休は目につく場所の朝顔をすべて抜いてしまい、秀吉が訪れた時には何処にも朝顔は見当たらなかったが、茶室に入ると、花活けに一輪の朝顔が活けてあったという。
 この話には、稀少なものをより稀少にみせる工夫がある。利休のやり方は多分に作意的だが、雅趣が感じられる。
 前の羽織の話でも作意を加えれば、同じようなパターンになる。
 自分から羽織を脱いで裏を見せるのはヤボだが、羽織を脱がなければならない状況を作り出せばよいのである。そういう場所に出かけて行くのも一つの手段である。
 これは、普通の羽織だと思っていたものが、脱いだ時にどんでん返しがあって、実は大変高価なものとわかる、という筋書のドラマといってよい。
 歌舞伎では、このどんでん返しがドラマツルギーとして、多く使われている。
 悪人と思われていた人物が、実は善人だった。不忠者が忠臣だった。女とばかり思っていたが、本当は男だった。等々。
 白黒、明暗のように、二元対稱的なものの方がはっきりしていて、効果的なようだ。
 白を目立たせるには、背景は黒い方がよい。二元的なものの一方を強調しておいて、返転させる。その振幅が大きい程、インパクトが強くなる。それには、善悪の悪をまず持ってくる場合、悪は極悪である程、振幅が大きくドラマチックな効果が期待できる。
 黙阿弥の芝居、「三人吉三」や「弁天小僧」のお嬢吉三、弁天小僧は、女である時は、より女性的で嫋々としていて、どんでん返しで男となったら、正反対のより男っぽい態度にがらっと変わるのが振幅を広げることになる。
 しかし、これらはどこまでも作劇上のテクニックであって、現実にはまずありえないことである。「粹」、「いき」に限らず、感覚を規定するのは難しいが、観客の受けを狙った極端な増幅は極彩色の絵画のようにどぎつくなって、却って「いき」から遠ざかってしまう。「いき」の要素の一つは、「どぎつさ」と相反する「さっぱりしている」ことなのである。
 出典は失念したが、次のような話もある。

 ある豪商が客を吉原へ招いて馳走することになった。
 勿論、客はどんな豪華な料理が出るかと期待して出かけて行ったが、出されたものは蕎麦切りが一枚だけだった。
 客はあまりの粗末な待遇に呆れ返ると同時に、内心大いに憤り、供の者を呼んで、主人への当てつけに、吉原中のそば屋の蕎麦を全部買い切って来い、と命じた。
 やがて、供の者が帰ってきていうには、吉原中のそば屋というそば屋はすべて店じまいをしていて、やっている所は一軒もない、といった。
 実は、主人が吉原中のそば屋はもとより、廓外の近辺のそば屋まで、すべて手を廻して買い締めていたのである。
 客がどんなリアクションをとるか、主人にはわかっていたのだ。要するに、想定の範囲だったわけである。

 この話には意外性があって面白い。
 安価なものが、それ自体何も変わりがないのに、高価なものになっている。
 ばかばかしい金の使い方だが、世の中の皮相的な一面を見事に突いている。
 これを「いき」な行為とみるか、どうか、それは人によって違うだろう。
 同じようなパターンについて書いてきたが、勿論、これだけが「いき」の対象というわけではない。
 江戸独自の文化が出てくるのは十七世紀の後半、元禄の頃で、初代團十郎の荒事が持て囃されたのもこの頃である。
 太宰春台の『独語』に、
「江戸の浄瑠璃は本より武家の好みに合はせたる故に、詞も節もいさ(勇)めるやうにてつよみあり」
 とあるように、團十郎の荒事は浄瑠璃ではないが、同じ理由で人気があったのだろう。
 ここにある「いさめる」、「つよみ」などという言葉は「いき」の三要素の一つ、「張りがある」に通ずる。
 江戸吉原の花魁道中の外八文字などは、三要素すべてに当てはまる。
 元禄の後、将軍吉宗の享保の時代には、音曲として河東節が出現して流行した。「河東裃」といわれたように、河東節は節も詞章も上品で、後世の蜀山人なども自著の『俗耳鼓吹』の中で、河東の文句の面白いところを挙げる、といって、かなりのスペースをさいている程だが、十八世紀に入ると、東西の往来も多くなり、上方の文物や文化がどっと江戸へ入ってきて、従来の江戸の文化、風俗に大きな変化をもたらす。
 前出の『独語』の続きに
「(元禄の後の)宝永の比、京より一中といふ浄瑠璃師来りて、京の浄瑠璃を弘めしより、江戸の人、やや是をよろこびあへりしに、享保の初に、又難波より竹本と云ふ浄瑠璃師来りて、難波の浄瑠璃を弘む。是より江戸の人、貴きも賎しきも難波の浄瑠璃を好みあへりしに、其の後又都路と云ふ浄瑠璃師難波より来りて、悲き声にて、いやしき諺の、浅ましくとりみだしたることどもを語り出だす程に、江戸の人又是に移りて、興じもてはやすこと限なし」
 都路という浄瑠璃師とあるのは、宮古路豊後掾のことである。太宰春台によると、
「元禄より以前は、何方の浄瑠璃も皆昔物語なりしほどに詞がらさのみいやしからざりき」(『独語』)
 それに対して、男と女の恋の世界を謳いあげる豊後節は忽ち江戸民衆の心を捉えて大流行をみる。民衆の心が情痴の世界へ急激に傾斜して行くと、心中、姦通などが増加し、幕府は、風紀を乱すものとして、元文四年(1739)九月に豊後節を禁止する。
 豊後掾が江戸へ下向してきたのは享保の末頃といわれているから、その五、六年後のことである。
 禁止になった豊後節は分裂して、弟子達が夫々独立して新しい流派を立てる。常磐津、新内、宮薗、繁太夫等がそれである。更に、常磐津から富本が出て、その富本から分かれて、文化十一年(1814)に清元が誕生する。これらは総稱して豊後節系浄瑠璃と云われるが、豊後節系浄瑠璃は江戸の浄瑠璃界の大勢を占めて今日に至るのである。
 今、清元を聞いて「いき」と感ずる人は多いと思うが、河東節を聞いて「いき」と思う人はいるだろうか。「粹」、「いき」の形相や内容も時代と共に変化して行くようだ。
 音曲に限らず、昔「いき」であったものが、世の移り変わりと共に、「いき」でなくなることもある。そればかりか、「ヤボ」になることさえある。
「いき」は、その言葉通り、「いきもの」なのだ。
            —————–この稿続く——————-

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