第55話 『「ダンデイズム」東西(二) 粹・いき』

 ブランメルの小伝は『ダンディズム』(生田耕作著)によったが、環境が変化しても自己のやり方を全く変えない、頑なな傲慢さは日本的なセンスでは理解し難い。
 ダンディの日本語訳は「しゃれ男、伊達男」だが、伊達男などというと、どうしても女性にもてる男というイメージがついて廻る。
 ブランメルには生涯を通じて女性の影はほとんどなかったという。ジョージ四世の寵を受けたことから、二人の男色関係を疑う向きもあるが、今ではそれはなかったことになっているようだ。
 日本と西欧では、社会環境、身分制度、文化等々すべてが違い過ぎて、ブランメルのようなカリスマ的伊達男を日本で見つけることは難しい。
 日本で、しゃれ男、伊達男といえば、粹な男、いきな男ということになるだろう。

喜多村信節の『画証録』に載っている寛文年間(1661~1672)の屏風の古画
 図は、喜多村信節の『画証録』に載っている寛文年間(1661~1672)の屏風の古画である。
 江戸前期は武士の時代である。武士がおしゃれに身をやつすことなど思いもよらない。といって、町人階級が台頭してくるのは元禄(1683~1703)前後になってからである。
 関ヶ原の合戦後、半世紀以上経た此の頃になると、打ち続く太平の世に馴れ、廓通いに現つをぬかす武士も出てくる。
 図はその武士の姿を写したもので、『画証録』には、それについて『耳塵集』からの引用文が出ている。
「坂田藤十郎が話に云、明暦三年(1657)、故ありて京都の芝居止む、それより十二年すぎて、寛文八年三月朔日、再芝居興行、久しぶりのことなれば、見物の潤ひ、大坂の顔みせのごとし、其頃の狂言に傾城の出あり、今とは格別也、まづ口上出て、只今けいせい買の初り、と触てしまへば、村上八郎兵衛といふが買手にて、この出立、白加賀の衣装に、銀箔にて鹿角を蜂のさしたるところを総身につけ、一尺七寸許の脇差、向へ落るばかりに抜出してさし、左ははり臂、右手に扇の要をつまみ、橋がかりよりゆらりゆらりと出て、正面に立ながら、せりふに、八まん、是が買人です、と扇にて脇ざしの柄を敲けば、見物、そりゃ、買人の名人が出たは、と誉る声しばししづまらず(以下畧)」
 図の脇に、「脇差のさしやう迄も、件の狂言に合へり」とある。
 同書には、他にも、扇の要を同じように指で摘まんで持っている武士の図が出ていて、こんな恰好が当時の流行りだったと知れる。
 なんともユーモラスな姿だが、あまり粹(当時は、まだ「いき」という言葉はない)とはいえないようだ。突飛なしぐさで人目を引こうとしたものか。
 この図の武士が通うのは京の島原遊廓である。
 江戸の吉原、日本橋の今の堀留近辺にあった元吉原が、山谷に近い浅草裏に移されたのは明暦三年(1657)の江戸大火の後で、旧吉原の元吉原と区別して新吉原といっている。
 寛文八年とほぼ同じ頃の延宝六年(1678)に出た菱川師宣の『吉原恋の道引』に描かれている吉原通いの武士には、図のような姿は見られない。どうも、この流行は上方だけのものだったようだ。
『耳塵集』からの引用文について、つけ加えて置くと、これらは今の『耳塵集』には載っていない。(『耳塵集』については「芳沢あやめ」の章を参照)『画証録』の割注にも、「今、板本の耳塵集には、此の条なし、却て富永平兵衛が芸鑑に載たり」とあり、それに続けて、「柳亭云、此客の出立、寛文中の姿にあらず、正保、慶安(1644~1651)頃の古狂言伝はりしなるべし、といへり」とある。
 現在流布している『役者論語』は安永三年(1774)板のものだが、それ以前に『役者論語』の前身の原本があったらしいのである。(守随憲治編『続役者論語』)『芸鑑』も『役者論語』に所収されていて、それには確かに引用文と同様の記述が載っている。
 引用文の内容については異論もあるようだが、煩瑣にわたるので今は割愛する。又、「柳亭云」とあるのは、柳亭種彦が『還魂紙料』の中に、『画証録』と同じ文言を引用して、そう書いているので、種彦のいう通りだとすると、図の武士の姿は描かれたのは寛文年中かもしれないが、もっと古い時代の風俗ということになる。
 粹について、万治三年(1660)刊の『吉原鑑』の冒頭に「水月」とあって、三浦屋の高雄太夫が、或る人の「月なる男はやく水になる事、是如何」という問いに答えている。
 月(がつ)は野暮で、水は粹である。粹を辞書で引くと、「遊里の人情・風俗・習慣等に通じ、諸事によく気づくこと」(『江戸語の辞典』)とあるが、その他にも、「世態人情に通じて、物事に拘泥せざること」(『広辞林』)という意味も出ている。
 水はどんな形の器にも入れることが出来る。その融通無礙で、一つの形に囚われないところは正に粹である。
 話の序でに高雄太夫の答えを簡単に述べておくと、「よき(粹な)けいせいにかかりたるは、はやく水と成」とある。
 万治といえば、新吉原になってまだ間もない頃で、『吉原鑑』は吉原細見の元祖といわれている。
 前に町人階級が台頭してくるのは元禄前後と書いたが、有名な奈良屋茂左衛門の奈良茂や紀の国屋文左衛門の紀文が産をなしたのは五代将軍綱吉の時代だったといわれている。
 その奈良茂と紀文が、一人の吉原の遊女をめぐって争った話は大尽舞の唄に残っている。
 二人が奪い合った几帳という遊女は、二人が名高い豪商だったことから、最高級の太夫という位の遊女と思われているが、実はその下の格子という位の女だった。まだまだ、武士の時代だったということだろうか。
 寛文以前の吉原の遊女は、太夫、格子、端の三階級だったが、寛文の中頃から散茶という遊女が出てくる。その経緯については、「扇面亭伝四郎」の章に書いた。
 紀文と几帳を取り合った奈良茂の悴、五代目奈良茂は、玉菊燈籠で知られる玉菊のパトロンだったが、その玉菊は散茶だった。
 太夫、格子などの高級遊女の客は、大名や財力のある高禄の武士だったようだ。
 江戸も時代が下がるにつれて、武士と町人の経済力が逆転して、吉原の遊客の層も変化していく。宝暦(1751~1763)年中に、太夫、格子が相次いでいなくなり、揚げ代が昼夜三分だったことから、俗に昼三と呼ばれていた散茶が最高級の遊女になる。
 そうした世の中の変化は風俗や習慣にも反映して、粹も昔の粹ではなくなってくる。
 「ダンディズム」という言葉が出来たのは十八世紀というが、「いき」という言葉が出て来たのもほぼ同じ十八世紀後半のようだ。
 明和七年(1770)刊の『辰巳之園』は深川の遊里を舞台にした初期の洒落本だが、その中に通言として、「いきな男 男にかぎらずすいだといふ事也」とある。「いき」という言葉はこの時分から深川あたりで云い始めて、次第に広まって行ったものか。
 更に、幕末になると、「いなせ」という言葉が出てくる。
 「いなせ」は「鯔背」とも書き、意味は「いき」の延長で、ほとんど同意である。
 「いなせ」の語源は、「いき」を気取る男達が鯔の背に似た髷を結っていたことからとか、或いは、「いなせともない別れ際」という投げ節を乙に唄って行く地廻り(土地のならず者)がいて、その男のことを「いなせ」といったから、などと諸説あってはっきりしない。(「いなせともない」というのは、「去なせともない」で、行かせたくない、という意味である)
「いき」に関しては『いきの構造』(九鬼周造著)という有名な本がある。
 文学的な哲学書で、所謂一般の哲学書とはまるで趣が違うが、やはり簡単に読み流せる本ではない。
 しかし、『いきの構造』については、『いきの構造を読む』(安田武・多田道太郎共著・朝日選書)とか、『「いき」の構造 全注釈』(藤田正勝、学術文庫)等の懇切な解説書が出ていて参考になる。
『いきの構造を読む』の中で、多田道太郎氏は、
「江戸のいきに対して、上方は、「粹」ですが、「粹」というのはどうも中国から入ってきた概念のようで、そのまま漢字を使っているわけでしょう。ところが「いき」になると大和言葉になって、独特の色合を帯びてくるんですね」
 といっている。
             —————-この稿続く—————–

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