第54話 『「ダンデイズム」東西(一) ボー小伝』

 三つ揃いの背広を着た時、チョッキの一番下のボタンは掛けないのだそうだ。
 これは、イギリスのジョージ三世の頃、後にジョージ四世となる当時の皇太子、プリンス・オブ・ウェールズが、居並ぶ群臣の前へ出座された時、プリンスのそのボタンが外れているのを見たボー・ブランメルが、咄嗟に自分のチョッキの同じボタンを外したことに由来するという。
 ボー・ブランメルとは通稱で、本名はジョージ・ブライアン・ブランメルである。
 ボー(beau)というのは本来フランス語で、美しい(形容詞)とか、伊達男(名詞)という意味だが、英語にもなっていて、同じスペルで、英語の辞書にも「洒落者、伊達男」と載っている。
 その「ボー」という名稱をつけて、ボー・ブランメルと呼ばれる男は一七七八年にイングランドで生まれた。
 少年の時、叔母の所に偶々立ち寄ったプリンスの目にとまり、大学を出た十六才の時、近衛第十騎兵隊の旗手に任命される。
 プリンスに出会った時、ブランメルはまだイートン校に在学中で、その年オックスフォード大学へ進学の予定だった。
 ブランメルの容姿、態度、物腰、会話の受け答えがプリンスの心をとらえ、
「オックスフォードを出たら私の所へ来たまえ。近衛連隊に君をを任命しよう」
 といった、と云う。
 その約束をプリンスは果たしたのである。
 一点の非の打ち所のない身ごなしの此の若者はプリンスの大のお気に入りとなる。
 ダンディズムというと、必ずブランメルの名が出てくるが、そのボーと呼ばれた男がどんな服を身につけていたのか、誰もが興味を持つだろう。意外にもブランメルの服は、専ら青や黒の地味な色だったという。それ以前の男性の衣服は、婦人用と区別が出来ないような派手な色彩の服地を使用して、それに模様を刺繍したりしていたものだったが、ブランメルがそれと相反する青や黒の色を選択したことには、それなりに理由があったようだ。
 ブランメルは名門の出ではなく、両親は資産家でもなかった。他のイギリス貴族の中で、財力からいえば、はるかに劣っていた。彼はそのことをよく心得ていて、賢明に金に糸目をつけない身の程知らずな贅沢で競うことを避け、独創的なやり方で、つまり乏しい資力を最大限に活用することによって、裕福な若者達と対等につき合い、資産不足が償いがたい不名誉に数えられるイギリス社交界で、着々とその地位を占めることに成功したのである。
 ブランメルの服の色は地味だったが、仕立てと着付けには十分に凝っていた。着手がよく見える為には、服が体にフィットしていなければならない。つまり、仕立てのよいことが絶対条件で、又その着付けには二時間もの時間を要したという。特に、今日のネクタイの前身であるネッククロスの結び方には神経質なまでに拘ったといわれている。
 ダンディという言葉は十八世紀末にイギリスで生まれたというが、辞書を引くと、「男のお洒落、おめかし」とある。これでは、表面的で物質的な意味しかないが、『ダンディズム』(生田耕作著)という本には、次のような引用文が出ている。
「ダンディズムは、思慮浅い凡人どもが考えているような、身だしなみとか物質的優雅さとかに対する、無際限の好みではない」(ボードレール)
「ダンディズムとは一つの在りかた全体である。けだし人間は具体的に目に見える側面だけで存在するものではない」(バルベー・ドールヴィリー)
「ダンディは衣装や、身のこなしや、言葉遣いといった、こまごましたしるしに、それらが本来持っていない一種の意味と力を授ける」(ジュール・ルメートル)
 また、同書には、
「ブランメルが同時代人を魅了したのは、服装と趣味と立居振舞の卓越によることは言うまでもないが、いまひとつ自信に充ちた傲岸不遜な態度も一役買っており、それを徹底させることによって、独特の風格を帯びるに至るのである」
 といって、内面的な部分をも強調している。
 しかし、この傲慢さから、ブランメルはプリンスの寵を失うことになる。
 その原因について、後のジョージ四世は衣服や身だしなみに狂気的な関心を持っていたが、その為に、やがて流行界の王者として君臨しているブランメルを快く思わなくなって来た、という説もある。つまり、ダンディズムの世界でも自分がトップでありたいと思った。しかし、例えば、ジョージ四世お気に入りの仕立て屋メイヤーは、戸口に<王室御用達>と記すよりも、<ブランメル氏御用達>の看板を掲げたがっていたといわれている。そんなブランメルが憎くなったのかもしれない。
 また、こんなエピソードが伝わっている。
 プリンスの夜会でのことである。
 デザートの席でシャンパンがなくなったのに気付いたブランメルは、主人公であるプリンスに向かって、召使いを呼ぶベルをあごで指し示しながら、
「ジョージ君、ベルを鳴らしたまえ」
 といった。プリンスは命じられた通りにしたが、現われた召使いに向かって、
「ブランメルさんの馬車をお呼びしなさい」
 といった。一説には、このセリフは、
「この酔っぱらいを寝床に連れて行きなさい」
 だったとも云う。(前出の『ダンディズム』)
 プリンスの機嫌を損じた後も、暫くはブランメルの社交界での地位に変動はなかった。
 その後、いくつかの賭けに勝ったりして大金を手にしたというが、それが彼の賭博熱を一層掻き立てたのかもしれない。
 一八一四年、ナポレオン戦争が終焉して、長い間戦争に従事していた兵隊達が続々と帰国して来た。明日をも知れぬ戦場で日々を過ごして来た彼等は、向こう見ずな大金を賭けて賭博熱を煽った。ブランメルは競争を強いられて敗れ、莫大な借金を負う。やがて金策につまったブランメルは、一八一六年五月にイギリスを離れ、ドーヴァー海峡を隔てた対岸のカレーに移ったが、その後、二度とイングランドの土を踏むことはなかった。
 一八二〇年、プリンス・オブ・ウェールズは即位してジョージ四世となった。
 その翌年、九月にジョージ四世はハノーヴァー訪問の途中、カレーに立ち寄り、デッサンホテルに投宿した。
 曾てのプリンスとの関係を修復する最後の機会だったが、ブランメルはそれを放棄してしまう。
 彼はわざと、王の留守を選んでホテルに出向き名刺を置いて帰ってしまう。
 その晩、ホテルでは王を歓迎する盛大な晩餐会が催されたが、ブランメルは、ホテルの主人の依頼で自分の従僕を手伝いに出し、王が愛好するマラスカン酒を何本か、その召使いに託けただけで、自身は出席しなかった。
 その後、王は二度とブランメルの名を口にしなかったという。
 この暗愚な王、ジョージ四世は一八三〇年に退位し、ウィリアム四世が跡を継いだ。
 貧しい亡命者だったブランメルを救ったのはウィリアム四世で、王はブランメルをフランスのカーンに新設の駐在領事に任命したのだった。
 これは勿論、友人達の陰の尽力があってのことだった。
 ブランメルは死ぬまでブランメル流のやり方を貫いた。その傲慢な態度やファッションも。
 彼は気まぐれに書いたのだというが、パーマーストン卿への報告書の中で、カーン駐在領事は不要である、と書き送ったという。
 すると、大臣はその部署を廃止することによって、この不勤勉で傲慢な部下に報いたのだった。(ブランメルに対して反感を持つ者も多かったのだろう)
 資力を断たれたブランメルに債権者達は容赦しなかった。彼は刑務所に入れられてしまう。ブランメル投獄の知らせを聞いたロンドンの友人達は醵金を募り、それで彼は釈放される。その残りの金で暫くは食いつなぐことが出来たが、それも長くは続かなかった。
 晩年のブランメルは哀れだった。もう彼は、いくら生地がよくて仕立てもよいものの、摺り切れた衣服を身にまとった年老いた時代遅れの洒落者に過ぎなかった。
 一八四〇年三月三十日、保護者もなく老衰のため養老院でボー・ブランメルは死んだ。六十二年の生涯だった。
 ブランメルは知人のアルバムに、キューピッドと折れた弓の絵を描き、そこに次のような言葉を記しているという。
 The broken bow[折れた弓(ボー)]

            ——————この稿、続く—–

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