第53話 『芳澤あやめ』

芳澤あやめは元禄から享保にかけての歌舞伎の名女形である。
 あやめの本姓は斎藤氏、通稱を橘屋權七と云い、初めは大坂道頓堀の色子だったが、嵐三右衛門について若衆方から立役に進み、やがて若女形に転じて芳澤あやめと改めたという。(『続役者論語』守随憲治編)
 色子というのは、蔭間茶屋に抱えられて男色を売り、歌舞伎の舞台にも出る少年のことで、女形はほとんどすべて色子出身だった。(『江戸語の辞典』前田勇編)
 また、関根只誠翁の『名人忌辰録』によると、あやめの立役の時の名は山下權七である。
 芳澤あやめの芸談を狂言作者の福岡彌五四郎が書き留めた『あやめ草』には、あやめ自身が自分の来し方について回想している所があるが、
「我身幼少より道頓堀にそだち、綾之助と申せし時より橘屋五郎左衛門様の世話に成たり」
 とある。色子の時の名を綾之助といったようだ。この橘屋五郎左衛門という人物は、丹波亀山近辺の筋目正しい、有徳の郷士で、能の上手だったという。
 以下、要約すると、
 あやめを色子として抱えていた親方は三味線方の人だったので、あやめに三味線を一生県命勉強しろという外に、五郎左衛門様がお客とはそれこそもっけの幸い、能を教えて貰え、といった。しかし、五郎左衛門はあやめが何度頼んでも、今は女形の修業に専念しなさい、能など生半可に覚えては却って狂言の為にはよくない、芳澤あやめの名が世に出るまでは他の事は無用だ、歌舞伎の舞いを充分にこなせるようになった上で、能をやりたいというのなら、それは勝手だ、と全く取り合ってくれなかった。その後、あやめは五郎左衛門の世話で、その親方の許を離れ、嵐三右衛門の取り立てで、吉田あやめという者と芳澤あやめの二人のあやめで一緒の舞台に立つことになった。吉田は贔屓の北国屋という客人から能を習っていて、能仕立ての所作で当たりをとろうとしていたが、自分は地道に狂言の修業に励んだ。その内、芳澤あやめの名は次第に世間に知られるようになったが、吉田の方は落ち目になり、やがて役者も廃業してしまった。さてこそと、五郎左衛門様の言葉が思い当たり、そのお心が忘れがたく、自分の家号を橘屋とつけ、五郎左衛門様の替え名を貰い受けて權七と名乗ることとした。(『あやめ草』)
 此処に出てくる嵐三右衛門は、元禄三年(1690)に五十三才で死んだ初代の三右衛門で、丹前六法を考案したのは此の人といわれている。
 この『あやめ草』は安永五年(1776)板の『役者論語』という芸談集に、『耳塵集』、『賢外集』、『佐渡嶋日記』などとともに収録されている。
 元禄というと、有名な坂田藤十郎が活躍した時代で、『あやめ草』にも勿論登場しているが、その一つに、
「(あやめが)藤十郎と共演する時はゆったりと大船に乗ったようだが、京右衛門と一緒だと気が張って精出してやらないとダメ、また三右衛門とだと、ひっぱってやらないと間が抜けてしまう」
 とよく云っていたとある。
 京右衛門とは山下京右衛門のことで、元禄前期の立役の随一といわれ、初代藤十郎亡き後は、京で唯一人の立役と謳われた。享保三年(1717)没、享年、六十三才。藤十郎より七才年下。
 三右衛門は嵐三右衛門だが、あやめを取り立てた初代三右衛門は元禄三年(1690)五十六才で死んでいる。その時、あやめは十八才だから、この三右衛門は初代の子の二代目三右衛門だろう。
 初代の坂田藤十郎は宝永六年(1709)没、行年、六十三才。菊池寛の『藤十郎の恋』の基になった、藤十郎が茶屋の女房に偽りの恋を仕掛けるというエピソードは『役者論語』の中の『賢外集』に出ている。
 藤十郎が死んだ時、あやめは三十七才。元禄十六年(1703)あやめ三十一才の時、女形の巻頭に挙げられ、正徳六年(この年、享保と改元、1716)あやめ四十四才で、三ヶ津惣芸頭、その翌年、享保二年の評判記には古今無類と載る。女形の頂点を極めたあやめは、十二年後の享保十四年(1729)、五十七才で亡くなった。
 あやめには四人の実子があり、長男は二代目あやめ。次男は山下金作の養子となった山下又太郎だが、後に離縁となって山下京右衛門を名乗ったという。三男は中村新五郎の養子に入った初代の中村富十郎で、「京鹿子娘道成寺」を初演した、有名な富十郎である。四男は初名万世から崎之助となった、後の三代目あやめである。
 宝暦七年(1757)付の序文がある馬文耕の『近世江都著聞集』に、このあやめ一家に関する記事が載っている。
 初めに、元祖あやめの若い頃の面白い話が出ている。それによると、芭蕉の「郭公(ほととぎす)鳴くや五尺のあやめかな」という句は、実は芳澤あやめを詠んだものというのである。それは、堀川の僧正という方が、郭公の声を耳にする度に珍しいので、いつも初音を聞く心地がするという和歌を詠んだことから、初音の僧正という異名があったのだが、あやめがまだ色子だった頃、堀川辺に住んでいた或る僧が、あやめを寵愛して入れあげ、自分の寺まで失ってしまったことを聞いた芭蕉が、初音の僧正に事寄せて、京都で戯れに詠んだのがこの句だというのだ。「郭公鳴くや」とは、あやめの為にすべてを失ったその僧のことで、また五尺のあやめとは、あやめは子供の頃から背が伸びて五尺を越す上背があったという。当時の女形としては背が高い方だろう。原文の小文字の注に、「今の慶子がごとくなり」とある。慶子とは初代中村富十郎の俳号である。元祖富十郎も親に似て大柄な女形だったと知られる。
 この後に、初代あやめの扇使いのことが出ている。
「この春水(元祖あやめの号)は歌舞伎役者たりといへども、本間の能の事能く弁へし者にて、当時四座(観世、宝生、金春、喜多)の人々の伝授する模様の乱れ、道成寺、石橋も悉く習ひ覚へ、扇子一通りは他の及所にあらず、故に、今富十郎、咲之助(崎之助)、中興あやめ(二代目あやめ)、いずれも、道成寺、石橋の移しをするに、又並々の歌舞伎の芸とは格別に違ふ事ぞかし」
 先年、古あやめ(初代あやめ)が大坂で海士の玉取りやつしを舞った時の扇子の手は格別だった。その手の中で、「チョット見れども底もなく」という所で、扇を上げて顔を振り上げてその扇子を見た。ある人がそれについて、あそこは海原を見やる体でやるべき所なのに、扇を振り仰ぐとは可笑しい、とあやめを難じたところ、あやめは次のように答えた。微妙な所なので、原文を挙げておく。
「凡扇の手と申習ひは、その舞台の飾にかまはず、海も山も波も花も雪も、惣て万物を扇を的に見る事也、たとへば、地謡、此松はと諷(うたう)時は、扇を上げて松にたとへけり、月は隈なく、照渡ると諷へば、扇子を月に見て大空へ心は移さず、扇子のみ気を取を舞の伝授と致す事也、それを扇へ心をば用ひず、月と云ば空に目をつかひ、山といへばあをのき、川といへば下をのぞく身振り、今皆々素人芸にて甚つたなく、本間事を一向しらぬ者のする所なり、(以下畧)」
 海士の玉取りとは「海人」(あま)の「玉の段」のことと思われるが、謡曲本では「直下と見れども底もなく」となっていて、文句が少し違っている。
 観世流の石井信子師に伺ったところによると、その文句の所は、右手に閉じた扇を持ったまま、「直下と見れども」で下を見る形(かた)が付いている、とのことである。
 元祖あやめの話に次いで、初代中村富十郎のことが出ている。
 「京鹿子娘道成寺」の初演は宝暦三年(1753)であるが、原文には近年中村慶子がせしとある、その「娘道成寺」で、富十郎は「月は残りて有明の」という唄の所で、扇を広げて、その扇子を見た。
 その富十郎の振りについて、八町堀の平井平右衛門[御部屋御役者也(能役者)]は、「さてさて、慶子の扇子の手はふしぎ」と賞賛した。その子細を自分(馬文耕)が尋ねたところ、「嵐和歌野も菊之烝(二代目瀬川菊之烝)も亀屋其外も、「月は残りて有明の」という文句の所では皆、彼方の空を見たが、慶子だけは格別だ、といっていた。(この「月は残りて有明の」という文句は、現在の「娘道成寺」の詞章にはないので、別な演目かもしれないが、今は思い当たらない)
 その他の本座(能の四座)の人々も、あやめ一流の扇子は奇妙、と誉めていた。
 江戸、京、大坂の歌舞伎役者の所作事師は数多くいるが、皆々歌舞伎扇子で本手ではない、素人は面白がっても、能楽師から見れば、小猿が鳥帽子をかぶったようなものだ、古春水(元祖あやめ)、中興あやめ(二代目あやめ)、富十郎、咲之助(崎之助、三代目あやめ)のような地舞は古今にはないだろう、と平井平右衛門も稱美していた。(『近世江都著聞集』)
 これらの話から、当時の歌舞伎と能の関わりが垣間見られて面白い。富十郎が踊った「娘道成寺」は能の色合いが濃いものだったようだ。
 長唄「京鹿子娘道成寺」の作曲者は、他の古い長唄と同様、はっきりしない。初演の時の唄い手、初代吉住小三郎という説もあるが、蜀山人は『一話一言』の中で、
「或云、京鹿子娘道成寺の節(ふし)は原富のつけし也と云」(同書、巻三十八)
 と書いている。原富とは、原富五郎と云った原武太夫のことである。武太夫については何度か触れて来たが、御留守番与力で三味線の名手だった。元禄十年(1697)生まれで九十六才まで長生きした。寛政四年(1792)没。寛延二年(1749)生まれの蜀山人は十六、七の頃、和歌の師の内山椿山の所で武太夫と出会っている。(『一話一言』巻三十八)
 長唄「娘道成寺」が原武太夫の節付けというのは単なる噂話かもしれないが、こんなこともいわれていたということで、一応書き添えておく。

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