第52話 『写楽』

 写楽が誰か、ということで、一時は随分世間で大騒ぎをしたものだが、その謎は解明されないまま、今は落ちついているようだ。
 写楽は僅か十ヶ月程の間に百数十点の作品を残して消えて行った幻の浮世絵師である。
 写楽の出現は寛政六年(1794)五月の江戸三座の狂言を描いた二十八枚の雲母刷り大判版画が最初である。
 この時、市村座、中村座、森田座の所謂、江戸三座は種々の事情から休座していて、その控え櫓の都座(中村座)、桐座(市村座)、河原崎座(森田座)の三座の興行だった。
 無名の新人が突然、金のかかる雲母刷り大判でデビューというのは、リスクも当然大きい訳だから破格の扱いといえる。そんなことから、写楽とは歌磨、北斎などの有名絵師の別号であるとか、或いは、板元の蔦屋重三郎自身であるとか、いった説が生まれたようだ。
 しかし、これらはいわば、状況証拠であって、文献などの裏付けは無い。
 十偏(返)舎一九の黄表紙本、『初登山手習方帖』(寛政八年刊)は画も一九が描いているが、その挿画の一枚に、五代目團十郎蝦蔵の「暫」を描いたと思われる写楽の凧の絵が出ている。凧の右上方に、東洲斎写楽画、と見える。しかし、作中にはそれについて何も触れていない。同様に、別の挿画に耳鳥斎画とある襖の画が出ている。耳鳥斎は大阪で鳥羽絵風の狂画を描く絵師であり、また浄瑠璃作者として知られている人物である。
 一九は大坂の材木商人に婿入りしたことがあり、寛政六年の頃には蔦屋重三郎の食客となって、その仕事を手伝っていたというから、写楽、耳鳥斎の両名にも面識があったと思われる。更に、江戸へ三百両という大金で引き抜かれて来た狂言作者、並木五瓶の新作を写楽はすべて取り上げていることから、五瓶との繋がりも感じられ、これも状況証拠かもしれないがこれら四人の関係から見て写楽は上方の人物という説もあるようだ。
 写楽の文献として欠かせないのは『浮世絵類考』(以下、畧して『類考』)という本である。『類考』は蜀山人の撰となっているが、何人もの人の追加、補記、書き入れなどが加わって、続、増補、新増補と出版されている。
 現在、手元にあるのは『続』と『新増補』の二種だが、『新増補』(慶応四年春刊)の序に、その成立の過程について書いてあるので、それを挙げておく。

 一浮世絵類考は、笹屋邦教、[割註]称新七郎、本銀町壱丁目に住して縫箔屋を業とす]山東京伝の編にして、式亭三馬の書入あり。
 一同附録は、寛政十二庚申年邦教の編にして、三馬の書入あり。
 一同追考は、享和二壬戌年京伝の編にして、三馬書入あり。
  以上三部の写本、大田蜀山先生の蔵本にして、文政の始め先生の書入あり。
 一続浮世絵類考は、天保四癸巳冬根岸の隠士無名翁の編とあり。按るに、浮     世絵師溪斎栄泉の輯なり。左に誌せる三部を一つとなし、洩たるを集めて二巻とせしなり。
 一弘化元甲辰白雪堂月岑子、此書を再び補ひて、増補浮世絵類考と題し、(以下畧)」

 以下は長文なので省いたが、その『増補』を更に補い、編輯したのが『新増補』であるが「未だ全しとするに足らず」と結んでいる。編者は竜田舎秋錦である。
 序文にある『続浮世絵類考』というのは俗称で、英泉編のこの本は『無名翁随筆』と云い、『燕石十種』に入っている。英泉は号を無名翁といった。
 白雪堂月岑子というのは斉藤月岑のことで、月岑は、『江戸名所図会』、『声曲類纂』、『武江年表』、その他、多数の著者がある著名な雑学者である。
 さて、前置きが長くなってしまったが、『無名翁随筆』の「写楽」のところには、
「俗称(空白)、号東洲斎、住居八丁堀、歌舞伎役者の似顔絵を写せしに、あまりに真を画んとて、あらぬさまに画なせしかば、長く世に行れず、一両年にして止む」
 最後に小さく「類考」とある。歌舞伎役者以下の文は『類考』にある記事をとったということだろう。
 『新増補』では、
「(写楽は)号東洲斎、俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州候の能役者也」
 とはっきり書いてある。
 元の『類考』に、写楽が八丁堀に住んでいる、と書き入れたのは式亭三馬で、写楽は斉藤十郎兵衛という蜂須賀家お抱えの能役者である、としたのは斉藤月岑である。
 式亭三馬は云うまでもなく、『浮世風呂』や『浮世床』の作者である。三馬は文政五年(1822)に四十七才(四十八才とも)で亡くなっているので、写楽デビューの寛政六年には十七、八才になっている。その三馬の享和二年(1802)刊の黄表紙『稗史億説年代記』(くさぞうしこじつけねんだいき)の中に、「倭画巧名尽」(やまとえしのなづくし)という図が出ている。図がそれであるが、日本地図に見立てた浮世絵師の名寄せである。

享和二年(1802)刊の黄表紙『稗史億説年代記』(くさぞうしこじつけねんだいき)の中に、「倭画巧名尽」(やまとえしのなづくし)という図
 これを見ると、同系流派の絵師は夫々まとめられているが、写楽は、歌磨、北斎などと同じく、一人だけの孤島に書かれている。
 三馬は写楽とほぼ同時代の人間である。写楽が八丁堀に住んでいたことなど、何処からか情報を得ていたものと思われる。三馬の「倭画巧名尽」から、少なくとも歌磨、北斎が写楽でないことがわかる。そうでないと、写楽が二人いることになってしまう。
 中野三敏氏は『江戸文化評判記』の中で、『諸家人名江戸方角分』(以下、畧して『方角分』)という書をとりあげて、写楽斉藤十郎兵衛説を展開されている。
『方角分』は江戸の文雅人名録ともいうようなもので、一人一行に氏名、字、号、通称、職種が書名の通り、地域別に載せてある。
 職種は記号表示になっていて、四角印は学者、三角印は詩人、バツ印は浮世絵師といった風に、十一種類の記号と更に故人を表す鉤印がある。
 写楽が住んでいたという八丁堀には十九名の記載があるが、写楽の所には通号や俗称などは空白で、ただ「写楽斎」とあり、小書きに「地蔵橋」とある。記号は鉤にバツ印、つまり故人の浮世絵師ということである。
『方角分』の著者は歌舞伎役者の三代目瀬川富三郎である。富三郎は前名を瀬川浜次郎と云い、寛政十一年(1799)に江戸へ下り、三代目瀬川菊之丞の門へ入り、文化十一年(1814)に三代目富三郎を襲名した。前代の二代目富三郎は「いや富」といわれた富三郎で、写楽はこの「いや富」の作品を六枚、三代目菊之丞は七枚、作成している。そんなことから、三代目富三郎が写楽を知っていたと考えてもおかしくない。
 私蔵の『方角分』は中野三敏氏監修の復刻本であるが、原本は写本で蜀山人 が持っていたという。蜀山人の奥書があって、「此書歌舞伎役者瀬川富三郎所著也 文政元年七月五日竹本氏写来 七十翁蜀山人」、これによって『方角分』の著者が三代目富三郎と知られる。(二代目のいや富は文化元年に死んでいる)『方角分』の記述から、写楽は少なくとも文政元年には故人になっていた。また八丁堀のその住居が地蔵橋という地域に限定されることになった。地蔵橋という地名から、近江屋板の『改正本八町堀辺図』(嘉永七年・1854)を見ると、村田治兵衛の隣家に蜂須賀家お抱えの能役者、斎藤与右衛門の名がある。
『江戸文化評判記』によると、斎藤家では代々、与右衛門と十郎兵衛の名を交互に名乗ってきたことが、最近わかったという。
 村田治兵衛は国学者の村田春海のことだ。
 問題は、通称などが何故空白になっているのか、写楽は東洲斎写楽であって写楽斎ではない、の二つである。
 寛政六年といえば、寛政の改革の最中で、その統制はかなり厳しかったようで、蜀山人なども四方(蜀山人は狂名を四方赤良と称した)の名を寛政八年に弟子の鹿津部真顔に譲って狂歌や戯作の活動を自粛している。従って、実名を出すのを憚る事情があっても当然といえる。また写楽斎というのも、『方角分』という書は富三郎個人の手控え的なもので、東洲斎写楽を単純に写楽斎としただけのことかもしれない。
 以上のことから、写楽斎藤十郎兵衛説はかなり有力と思われる。『江戸浮世絵を読む』(小林忠)にも、写楽斎藤十郎兵衛説を、「現在までのところやはりもっとも魅力的であり、合理的に解釈できるかと思っている」として、更に続けて、大変面白いことが書いてある。
 それは、斎藤十郎兵衛の「斉藤十」までをカナで書くと、江戸時代には濁点を打たないのが普通だから、「さいとうしふ」となる。これを並べ変えると、「とうしふさい」。言葉遊びの好きな江戸人が、変身の斎号を選ぶに際して、本名をいじったのではないかというのだ。
 同書によると、斎藤十郎兵衛の過去帳が最近発見されたそうで、それによると、写楽の斎藤十郎兵衛は宝暦十三年(1763)生まれで、文政三年(1820)没。享年五十八才という。
 しかし、そうなると、『方角分』の写楽の故人表示は可笑しなことになる。
 又、斎藤十郎兵衛は文化十三年(1816)の柳営能番組に宝生流能役者として出ているが、文政八年(1825)の蜂須賀家の能番組には喜多流ワキ師として出ているという。
 十郎兵衛が文政三年に死んでいるとすれば、文政八年の十郎兵衛は次代の十郎兵衛であり、斎藤家では、与右衛門と十郎兵衛を交互に名乗ったということと矛盾する。
 写楽斎藤十郎兵衛説は有力ではあるが、まだ幾多の問題を残しており、写楽の謎は完全に解決されたとはいえないようだ。
 以上、最近の写楽研究から目につくままに拾ってみた。
 下の図は写楽の珍しい扇面画である。
図は写楽の珍しい扇面画

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