第51話 『襲名披露興行(六)続河東節連中』

 現在の「助六由縁江戸桜」で河東節連中が御簾内で語ることは古例通りだが、昔と違うのは、御簾内に明かりが点き、御簾の目もかなり粗くて、出演者の顔が見えるようになっている。(決して見易いとは云えないが)
 出演者が、自分が舞台に出ていることを観衆に知って貰いたいと思うのは、ごく自然の欲求と思われる。はっきり顔を見せたいのなら、出語りをすればよいのに、何故顔の見えない御簾内で語ったのか、それには江戸時代の身分制度が大いに関係しているようだ。
 江戸時代には士農工商という階級があり、その下に更に非人と呼ばれる賤民階級があって、弾左衛門という非人頭が支配していた。
 宝永五年(1708)に京都四条河原の操り師、小林新介という者と非人の間でごたごたがあり、その裁判で、歌舞伎狂言座の者が弾左衛門の支配に属するか(非人であるか)、どうか、が争点となって、結局、一定の場所に特設した劇場で入場料を標示して興行する者達は賤民ではない、という裁定が出た。つまり、非人ではないということが明らかになった。『勝扇子』という書の冒頭に、
「歌ブキ狂言座之輩、えたの手下并に非人の類に無之証書、宝永五年之公事荒増(あらまし)を記し、二代目團十郎これを勝扇と号し家蔵す」
 とある。
 二代目團十郎はその裁決が余程うれしかったのだろう。とは云うものの、役者達が制外などと呼ばれたのは、士農工商の階級制度外という意味で、常人の中では最下級の者として河原乞食などと蔑まれた。『譚海』によると、京と江戸の往来に必要な関所の通行手形は通常、大家などの町役人が発行したものだが、役者の手形は江戸から京都へ上る時は非人頭の弾左衛門が、反対に京から江戸へ下る場合は京都の天部という非人頭が、夫々出したという。
 江戸時代の河東節連中の主なメンバーは蔵前の札差や富裕な商人達で、札差達は武士の禄米を担保に高利の金を貸付けて法外な利息をとってその懐を肥やし、大商人達は支配階級の武士と結び付いてその権力にとり入り、独占的な商売で巨万の富を得ていた。
 彼等は芝居好きであって役者を贔屓にしていても、自分達は芝居者と同じ階級の人種ではないと一線を画するやり方が御簾内の出演という形をとったのではないか、と思われる。
 江戸時代、時代が下がるにつれて武士達は次第に経済的に苦しくなって行き、幕末には、小禄の旗本や御家人、又その二、三男坊などで芝居の舞台裏で笛を吹いたり鼓を打ったりしている者もいたようだ。
 遠山の金さんもまだ部屋住みの若い頃、木挽町の森田座で吉村(芳村とも)金四郎といって笛を吹いていたという。
 武士には能楽の素養のある者が多かったので、特に囃子方の技術がある者にとっては、芝居の裏方などは好きな道で金が稼げる恰好のアルバイト先だったのだろう。
 しかし、これはどこまでも内々のことであって、それが公然となったらタダでは済まないのである。
 森鴎外の小説で有名な渋江抽斎の親友だった森枳園は福山藩阿部家のお抱え医師だったが、芝居が好きで、遂に見るだけでは満足出来ず、初めは使者とか通行人のチョイ役で舞台に出るようになった。
 ある時、阿部家の女中が宿下がりの折、芝居を見に行って舞台に立っている枳園に気が付き、枳園が芝居に出ていることが知れ、枳園は阿部家を首になったという。
 江戸時代には、こうした表と裏、本音と建て前がうまく使い分けられていたようだ。
 小身の武士のアルバイトを厳しく規制したところで、困るのは彼等で何の解決にもならない。それで多分、内々のことには目を瞑っていたのだろう。
 しかし、森枳園のように階級制度を公然と乱すような行為は許し難かったのかもしれない。
 枳園を首にしたのは幕府ではなく阿部家だが、或いは阿部家にしてみれば、そんなことで、もし幕府から何かお咎めを受けるようなことになってはたまらない、転ばぬ先の杖の処置といったところか。
 普通の町人が芝居の舞台へ出て顔を見せたところで、別にどうということもないかもしれないが、札差とか豪商達はいずれも支配階級の武士を通じて幕府を相手にして大儲けをしているので、もし何かあって、その関係が断たれると、莫大な富を得て来た権益を一挙に失いかねない。
 大商人の中には札差同様、大名や旗本などに金を貸して暴利を貪る者もあった。
 幕府は暫々、その貸金の金利を規制したり、棄捐令を出したりしている。
 河東節連中の札差や豪商連にしてみれば、芝居には出たいが、幕府の忌諱に触れるのも恐い。
 御簾内の出演には、そんな彼等と彼等より上の武士階級との関係、下の芝居者達との関係、それらがからみ合った複雑な思惑が見え隠れしているようだ。
 以上が私の推測だが、身分制度が関係していることは確かである。
 さて一方、半太夫節連中についてだが、前に書いたように半太夫節と半太夫節から出た河東節は、芝居の方では江戸節として一緒の扱いになっている。
 半太夫節にも素人の旦那衆による半太夫節連中があって、主として中村座の助六の時に出演していた。「河東節」(第二十八回)の稿で、鶴迺屋主人という人が、嘉永三年中村座で八代目團十郎が助六を演じた時、半太夫節連中として出演した父親のことを書いているのを紹介しておいたが、この時の助六は「助六廓の花見時」で、半太夫節連中も又、御簾内出演となっている。
 半太夫節も河東節も、江戸の中期以降、やる人は殆ど老人達ばかりになっていたようだ。
 川柳に次のようにある。

 河東節どれも朝湯にはいる人
     (一九、天明四年 1784)

 河東節上手のはから水がもり
     (四〇、文化四年 1807)

 半太夫天命を知る人ばかり
     (一四、安永八年 1779)

 この稿の初回で挙げた『川柳江戸歌舞伎』という本の付録に「歌舞音曲」の章があって多数の句が載っているので、その中から半太夫と河東に関する句を拾ってみる。

 真闇な簾の内で頤を振り
     (安永年中 1772 ~1780 )

 簾の内、とあるから、河東節か、半太夫節の連中を詠んだ句に違いない。
 同じような句に、

 長唄の上手といっぱあごを出し
     (明和元年 1764)

 楓江はかうだとあごで二つゆり
     (一九、天明四年 1784)

 いずれも長唄の句だが、楓江とは明和八年(1771)に亡くなった長唄の名人、富士田吉治のことである。「いっぱ」とは、「いえば」である。(第二回「吉原雀」参照)
 江戸時代の河東節連中の浄瑠璃がどんな風だったのか、それを偲ばせるような句もある。

 唐人の泣出すやうな河東節
     (三八、文化四年 1807)

 十寸見連間抜のやうに語り出し
     (一三九、天保六年 1835)

「唐人の」の句は助六狂言の上演記録から見ると、文化二年(1805)三月、河原崎座の「御江戸花賑曾我」に出演の河東節連中を詠んだものと思われる。河東節は「助六所縁江戸桜」で助六は市川男女蔵、意休は尾上松助、後の初代松緑だった。次句は天保三年(1832)三月、歌舞伎十八番の内として、七代目團十郎が海老蔵と改名して演じた「助六所縁江戸桜」の時の河東節連中を詠んだものだろう。前にも書いたが、十寸見連とは河東節連中のことである。この助六の時、六代目海老蔵が八代目団十郎を襲名して、外郎売を勤めた。
 どちらの句にしても、素人連の河東節の出来は大したことはなかったらしい。
 河東節とは限らないが、次のような句もある。

 やけふ聲三味線ひきがまぎらかし
     (寛政年中 1789~1800)

「やけふ」とは、「いろは歌」の文句の「おくやまけふ」の<や>と<けふ>の間は<ま>で、つまりマが抜けている(間抜け)ということである。長田幹彦の小説『祇園小唄』に、舞妓が「やけつぎ抜けました、なに?」という謎かけをする場面があるが、これも同じで、「間抜け」に「腑抜け」ということだ。
 「三味線ひきがまぎらかし」という文句が笑わせる。
 川柳では槍玉に挙げられて評価の低い河東節連中だが、三升屋二三治は『芝居秘伝集』の「十寸見蘭州」のところで、次のように述べている。
 河原崎座で高麗蔵の初助六の時、四明という八十余才の老人が出演して河東節を語ったが、若者も及ばぬ妙音で、「しんぞ命を揚巻」という独吟などはリンリンという声だった、と出ている。
 更に又、この四明は『十寸見要集』にその名が出ている二代目蘭州と覚えているが、初代か、二代か、うろ覚えとある。
 この蘭州は、正確には、志明といった二代目蘭州である。二代目蘭州は吉原の娼家の主人で佐倉屋又四郎といったが、後に剃髪して志明と名を改めた。この河原崎座の高麗蔵(後の松本幸四郎)の助六は寛政九年(1797)三月の「富士見里和曽我」だったと思われる。志明は二三治によると、その時八十余才とあるが、寛政十二年に八十二才で亡くなっているので、この助六の時には七十九才で、まだ八十になっていない。しかし、八十近くになっても、そんなにいい声が出たとはなんとも羨ましい限りである。
「唐人の」句が詠まれた文化二年は寛政九年から八年後、「十寸見連」の句の天保三年の助六は三十五年後のことである。唐人の泣き出すような河東節と、間の抜けたような河東節と、どちらがマシなのか、わからないが、時代が下るにつれて河東節連中の質が落ちたということか。
 ところで、現在の河東節連中はどうなのだろうか。評価が気になるところだ。
                      終わり

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