第50話 『襲名披露興行(五)、河東節連中』

 扇は、その形状から末広という別稱があって目出度いということから、慶事の進物や配り物には欠かせない。
 昭和六十年の現團十郎襲名時に配られた扇面の画は、先年物故された加山又造画伯のものだったが、今回の海老蔵襲名のそれは、父親の團十郎丈が海老蔵の名に因んで描かれた海老の画である。
 五、六月の歌舞伎座での海老蔵襲名披露公演も、途中團十郎丈の入院休演というハプニングがあったものの、六月二十六日に目出度く千秋楽を迎えた。
 その六月の夜の部には、歌舞伎十八番の助六、「助六由縁江戸桜」が出て、河東節連中が出演した。
 市川家の助六は河東節で、河東節連中という素人の旦那衆が出演するのが恒例になっている。河東節連中は十寸見連(ますみれん)ともいうが、これは元祖河東が十寸見河東といったからで、現在では、唄方の太夫は十寸見姓、三味線方は山彦姓を夫々名乗ることになっている。山彦は元祖河東の三味線弾きだった山彦源四郎の姓を取ったものだ。
 今の助六は、幕が揚がると舞台は新吉原の三浦屋という妓楼の前である。
 三浦屋は京町一丁目に実在した店だが、宝暦三年(1735)に廃業している。廃業の原因については不明。
 河東節連中はその三浦屋の格子の後方に控えている。格子の内側には簾が掛けてあるので、そこを御簾内(みすうち)という。
 まず、口上があって、それが済むと、口上を述べた役者は御簾内へ向き直り、
「河東節御連中様、どうぞ、お始め下さりましょう」
 それが切っ掛けで、河東節が始まる。
 歌舞伎には常磐津、清元、義太夫などを始め、様々な浄瑠璃が使われているが、「どうぞ、お始め下さい」などといわれて語り出す浄瑠璃は他にない。
 この河東節(半太夫節もそうだったようだが、それについては後述)の特別扱いについて、『歌舞伎十八番』(戸板康三)には、
「これは河東節の伝統を守って来たのは富裕階級の旦那衆だったので、芸人扱いせずに厚く対したのが慣例になった」
 といっている。三升屋二三治の『賀久屋寿々免』には、
「両家(河東と半太夫)共に頼みによって出勤する、客同様の取扱なり、故給金無之」
 とある。  半太夫節は明治時代に絶えて今はないが、江戸時代には、河東節連中と同様に、素人の旦那衆による半太夫節連中があって、劇場へ出演の時は御廉内で語り、その扱いも、河東節連中と全く同じだったという。
 半太夫節と、半太夫節から出た河東節とは、芝居の方では二つとも江戸節として一緒に引っ括めて考えていたらしく思える。
 半太夫節のことは話がややこしくなるので、ちょっと別にして、河東節はいつから特別扱いを受けるようになったのだろうか。
 宮川政運は『俗事百工起源』の中で、河東は初めから出語りしなかった、といっているが、これは疑問だ。
 半太夫節から分かれた河東節は、初めは半太夫節などの他の諸流と同じく出語りしていたと考えられる。勿論、これも他流と同様、出演者はプロの芸人達で素人は入っていない。
 では、いつ頃から変わったのかということになる。
 宝暦(1751~1763)の頃から、半太夫節と河東節の芝居への出演は次第に助六狂言の時のみに限られてくる。
 寛延二年(1749)三月、中村座で二代目團十郎、團十郎は享保二十年に海老蔵と改名したので、この時は既に海老蔵となっている、その海老蔵栢莚(以下、栢莚と書く)が一世一代の助六、「男文字曽我物語」で本人としては三十三年ぶり三度目の助六を勤めた。
 栢莚は正徳三年(1713)、初めて助六を演じた役者である。この最初の助六が半太夫節だったか、どうか、は諸説あって不明。
 二度目はその三年後の正徳六年(六月に享保と改元)の「式例和曾我」で、この時は半太夫節だった。
 寛延二年の助六は河東節で、河東節の名題は「助六廓家桜」である。
 この時、芝居の助六姿で吉原通いをしたという蔵前の札差、大口屋治兵衛暁雨や魚河岸の鯉屋藤左衛門、この二人は当時、十八大通と呼ばれた大金持ちの通人達である、その他、神田新場の連中など、いずれも栢莚贔屓の面々の肩入れで、芝居は大当たりとなった。
 河東節による次の助六は宝暦六年(1756)四月の中村座で、二代目松本幸四郎が四代目市川團十郎となっての初助六で、「長生殿常桜」(ちょうせいでん・ふだんざくら)、河東節は「富士筑波卯月里」である。
 この時、暁雨と同じ蔵前の札差しの大口屋八兵衛金翠は、吉原大上総屋の遊女、総角(あげまき)の客だったことから、すっかり意休気取りで、意休役の二代目澤村宗十郎を贔屓にして自分の紋入りの豪華な衣装を贈ったりして、四代目團十郎や栢莚贔屓の連中と張り合い派手な贔屓合戦を演じた。「専ら上総屋の総角に鼻毛を数えられていた」と馬文耕の『当世武野俗談』にある。
 三升屋二三治は『十八大通』(別名『御蔵前馬鹿物語』)に蔵前札差の馬鹿遊びについて書いているが、金翠の贔屓にした役者を大半五郎としている。しかし大半五郎の初代坂田半五郎は享保九年(1724)に死んでいるので話が合わない。馬文耕は宝暦八年に刑死している金翠と同時代の人であり、二三治は天明五年(1785)生まれのずっと後世の人である。
 この五年後、宝暦十一年市村座の助六、「江戸紫根元曾我」の河東節が「助六所縁江戸桜」である。
 更に、その三年後の宝暦十四年(六月に明和と改元)の春、中村座の助六に出演予定だった四代目の伝之助河東は無断で伊勢参りに出かけて行き芝居の初日に間に合わなくなった。中村座では慌てて急遽半太夫に頼み込んで幕を開けることが出来たが、以後一度の例外を除いて(安永八年の「御囁万年曽我」)、中村座ではすべて半太夫節となり、河東節の出番は無くなった。
 以上、前に書いた「河東節」の稿(第二十八回~三十一回)と重複するところが多いが、再確認の為に挙げた。
 私が見た、「河東節は出語りしない」という記録で一番古いものは、津村淙庵の『譚海』第十二巻に出ている記事である。『譚海』の第十二巻の後半は淙庵自身の見聞ではなく、淙庵の母からの聞き書きとある。淙庵の母は天明七年(1787)に七十五才で亡くなった、と文中にみえることから、正徳三年の生まれである。元祖河東が死んだ享保十年には十三才であり、その後天明に至る迄の時代を生きた人の記録として貴重なものといえる。
「其比(そのころ)は、芝居狂言に河東ぶしとて所作をいたせしかば、今の狂言とは様子上品にて、面白き事也し。尤出語り抔(など)と云事はせず、すだれの内にて語る斗り也。但半太夫は芝居の浄るりへ出る事をせず河東ばかり也」
 半太夫が芝居へ出ないというのは誤りで、頻度は少ないが出演していた。この引用文の前後に海老蔵のことが出ている。この海老蔵は三升屋助十郎の二男升五郎を養子にしたとあるので、二代目團十郎の海老蔵と知れる。二代目團十郎は享保二十年にその升五郎に三代目團十郎を継がせ、自分は海老蔵と改名した。すなわち、二代目海老蔵栢莚である。
 栢莚に関係した話として、三代目團十郎の死や元祖澤村宗十郎のことなどに触れているが、三代目團十郎が死んだのは延享元年(1744)で、栢莚自身は宝暦八年(1758)に亡くなっているので、引用文の冒頭にある「其比」というのは、大体その間の十数年間を指していると思われる。この間に河東節が特別扱いを受けるようになったと推定するのだが、その一番の根拠は大和屋文魚である。
 大通と呼ばれ、『十八大通』にも出ている文魚は、暁雨、金翠などと同じく蔵前の札差で、河東節の名手だった。『江戸節根元由来記』では文魚のことを名人といっている。『十八大通』には、「江戸中の大通といわれる人は皆、この文魚に従って、親分子分などと頼んで、女郎買いの稽古所といわれた。また河東連中ばかりでなく、河東節をやらないと文魚の気受けが悪く、誰も彼も河東節をやらされ、文魚の文の一時を貰って子分になり、大通の内に入った」
 とある。この文魚は寛政十二年(1800)、七十一才で死んだというから、享保十五年の生まれである。『江戸節根元由来記』には文魚と共に名人として、平野氏の隠居の竹雅という人物の名も挙げている。
 『十寸見編年集』では平野ではなく、野村氏の隠居となっているが、竹雅は寛政三年六十七才で死んだというから、享保十年生まれで、文魚より五才年長になる。竹雅もいずれ裕福な家の隠居だったと思われるが、その家業はわからない。文魚同様、札差とも考えられるが、『十八大通』にその名を見ないから、札差ではなかったのかもしれない。
 この二人について、『十寸見編年集』では、
「両人とも風調に遊び、世業をなさず、近世の名誉なりと云」
 といっている。ということは、二人共プロの芸人ではなく、ただ好きで河東節をやって、その道を極めたということである。
 この文魚や竹雅達が河東節連中として出演したのが、素人の旦那衆による河東節連中の始まりではないか、と思っている。
 特に文魚には大勢の子分がいた。それらを引き連れての出演だったのだろう。
 それが、何時の助六だったのか。
 寛延二年、栢莚は一世一代の助六を演ずるに当たって、その出端に河東節を使った。
 栢莚は河東節を好み、三代目河東(宇平次)と親しかったことが知られている。(『中古戯場説』)それで河東節を採用したのかもしれないが、この助六は大評判で大入りだったというから、あるいは、この助六で河東節が再認識されて、通人の間に流行をみることになったのかもしれない。
 この寛延二年、文魚十九才、竹雅二十四才。この時、二人が出演した可能性は無いとはいえないが、文魚の年令からみて、ちょっとまだ早い気がする。
 次の宝暦六年の助六の時の可能性が一番高いようだ。文魚は二十七才、竹雅三十二才のいずれも男盛り。この時の狂言「長生殿常桜」の二幕目が助六で、助六は四代目團十郎だった。栢莚も存命で二幕目には出なかったようだが、大江左衛門将門と手白の猿の精という役で出演している。栢莚はこの二年後の宝暦八年に亡くなっているので、次の宝暦十一年の助六の時にはこの世にいない。
 こうしてみると、素人の旦那衆による河東節連中が誕生したのは、宝暦六年の四代目團十郎の初助六の時ではないかと思われる。
 因みに、この助六は不評だったという。
 では何故、河東節連中は出語りをしないで、御廉内ばかりで語ったのか、という疑問については次回で

 ——河東節連中の話で総まとめをするつもりだったが、テーマが大き過ぎて一回ではまとめ切れなかった。残りは次回へ繰り越させて頂くことにした——

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